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 昨日大学構内の食堂にて、素うどんを食べて以来、食べ物を口にしていない私の足取りは誠にふらふらとしており、このまま空でも飛べてしまうのではなかろうか、と阿呆なこと考えてしまうくらいである。


 なので、思いっきりジャンプをしてみたりしたが、いくら私の胃袋の中がからっけつであろうとも、重力に逆らえるわけもなく、変な体勢で着地したあげく、電信柱に体当たりを敢行し、無駄な体力を消費して、内面からとても疲れてしまった。


 私に優しくない忌々しき電信柱からもう少し歩いたところに、ご夫婦で営む小さな惣菜店があり、人の良い御夫婦は常連客である私が一人暮らしの学生と知るや、総菜とは別にご飯を容器に詰めて、サービスしてくれる。おまけに閉店間際に店の前を通りかかると、売れ残りの惣菜を根こそぎ私にお恵みくださる心の広さなのである。


 だから、私は前にもまして常連客となった。御夫婦の親切に心を打たれたこともあるが、商売の基本とは【損して徳取れ】であろうと思う私は、この御夫婦が気に入ってしまったのだ。


 

「…………」



 まず、幟が立っていなかった。そして、降りたシャッターには《本日定休日》と可愛く丸文字で書かれた木製の札がかかってあった。


「そうか、今日は日曜日か」


 再び今日と言う日が私だけでなく日本全国休日日和であることを確認した私は……店舗の向かい側に立って年中無休にて商いに精を出す自動販売機でホットのコーヒーを購入した。


 空腹にコーヒーを流し込むとは我ながら自虐であろう。そんなくだらないことを考えられる私にはまだ余力が残されているらしい。恋しい季節をまだ先に、熱すぎる缶コーヒーを右手に左手にと弄びながら、家に帰るか、このまま飄飄踉踉と時間を潰すか…………思案に暮れるほどもなく、あっさりと私は前者を捨てて、川沿いの堤防道を歩く事に決めた。


 どうせ家に帰ったところで、折角、暖かいコーヒーを冷蔵庫に入れ、後は寝っ転がっては、煩悶と彼女のことを考えて一日を過ごすことになるのである。それなら、いっそ外に居て肌身に寒さを目には沈み行く壮大にして美しい落日を見つめていた方が、幾らも心身によろしかろう。


 それに私には千年桜と言う心強い味方がついているのだ。


 その千年桜は紅葉間しっぐらであり、色鮮やかと私は言いたいのだが、見ようによってはぼさぼさ頭の様で見栄えは悪い。けれど、私はそんな桜の姿も好きだ。捻くれているかもしれないが、どんなモノにも美しい面があれば必ず醜い面もあるわけで、それは表裏一体であり、美しい面ばかりと言うのは有り得はせず、そんなのは、かりそめの戯れ言であろうと思う。


 事実、この千年桜はその醜い姿とて隠したりはしない。満開に薄桃色を咲かせ、人々の表情を緩め、後は散り際潔く、夏はその体中に毛虫を這わせ、人々の眉間に皺を大層作り上げ、葉が色づき全てが落ち葉となってからは誰しもその存在を見上げたりはしない。ささやかなる存在と成り下がる。


 だが、私はそんな桜が大好きだ。


 陰日向なく、堂々と胸を張って存在し続けるその姿が私に勇気をくれる。私など、担当教員の一言一句に恐れおののき、同じゼミ生との人間関係にとにかく気を配る日々であり、胸を張れた日のことなどすでに忘却の彼方である。 


 それに、桜の根元にはいつでも微笑ましい姿で私を待っていてくれる猫もいる。

 

「なんと」


 そろそろ、寂しい季節の到来か。と随分と葉の少なくなった千年桜を見上げ。その後に、視線を根元に向けると、猫が昼寝をしているわけだが、その頚元にはのど飴が一つ置かれてあった。


 たまに、蓋を開けていない猫の缶詰が供えてあるのは目にするが…………のど飴とは……猫になんの縁もなければ、猫が好んでのど飴を欲するとも思えない。私は首をかしげながら、のど飴をひょいっと持ち上げたみた。


 腹ぺこである私であろうとも、さすがに、猫に供えてあるのど飴を腹の足しにしようと思うまい。ただ、きっとこの、のど飴を供えた主は、その時のど飴しか持っていなかったのだろうか…………などと、この、のど飴を供えた主の心中に思いを馳せていただけなのである。

 


 だから、



「それ、私がニャンさんに供えたものなんですけど」と言われた時は、とても驚いたし焦った。


 私は慌ててのど飴を猫の頚元に戻すと、立ち上がって、声の主を見やった。声は女性のものであったから、女性であることはわかったのだが…………


 女性は千年桜のすぐ隣にある階段から急ぎ足で私の立っている道へ上がりきると、きりっとした目元で私を見据えていた。右手には猫の缶詰が握られてある。

 


「優しいんですね。こいつにお供え物なんて」


 猫の缶詰ならいざ知らず、のど飴を取る阿呆はいないだろう……そう言いたかった。けれど、供えた人間からすれば、あめ玉一つでも尊いのであろう。私は優しさを全開にして、彼女と接することにしたのであった。



〇 



 日曜日なのに平日と同じ時刻に目が覚めた。枕元の時計を見てうんざり。彼との連絡が途絶えてから、増して自分は女を忘れている。そう思うようになった。


 9時38分頃、休日だと言うのにバイクが大きなエンジン音を吐いて駆け抜けて行く。


 その人も、私と同様に忙殺されてしまっているのかな。とか考える。


 きっと原因は私にあるのだろうと思う。幼少の頃から、【女は男に声を掛けられるもの】と話す父の言葉を鵜呑みにしていた私……今ほどではないけれど、人見知りも相まって、会話は苦手だった。だから、異性に私から声を掛けるなんて増してできなくなった。トラウマではないけれど、高校生の時、同じテニス部の先輩に憧れてを持っていた私はこの先輩に自分から話し掛けてみたことがあった。


 周りの友人は気さくに話しかけていたし、「どうしたら、そんな風に話せるの?」と聞くと「別に告白するわけでもないし、気軽に話しかければいいと思う」とアドバイスももらった。


 ここから私も変わるんだ。今までの私は、ただ物静かで大人しい。そんなイメージしかもたれなかった。これを期に私は変わるんだ、もっと明るい性格に生まれ変わるんだ。そう自分に何度も何度も自己暗示をかけて。にゃんさんと千年桜にも「がんばる」と約束をして…………その約束をした次の日に先輩に話しかけた。


 その勇気に悔いはない。私にとっては革命的な瞬間だったけれど、「今日部活休むって部長に言っといて」と二言も喋らない間に、先輩は簡単に話を切り上げて、同級生の男子生徒と女子生徒の元へ駆けて行ってしまった。


 ただ、「今日部活休むって部長に言っといて」と言う言葉と離れて行く先輩の背中だけを覚えているだけ。


 嫌われている。そう思いこんだ私は、その日の内に部活を辞めて、家に帰って泣きじゃくった。


 今から思えば、勢い余って部活を辞めたのはやりすぎだったと思う。次の日には顧問の先生に説得してもらって、結局部活は辞めなかったけどね。


 若気の至り。


 でもそれ以来、私は、自分から話をすることをしなくなった。もちろん同性の友達は別だけれどね。


 会話をしないから、会話は下手。特に一方通行になりやすいメールはもっと下手。絵文字も顔文字も使わないのもあるかもしれない。


 そんな私だから、彼から一週間続けてメッセージが来ていたことに、驚いたしとても嬉しかった。深夜になっても返事を待っていたくれた時にはひっょっとしたら、彼は私に好意を持っているのでは……なんて思った。


 SNSは別段、すぐに退会しても良い。そんな軽い気持ちで始めた。ネット上の関係なんて、どこまで行ったって、所詮は文字だけのやりとりなわけだし…………いつの間にか、嫌われているのも珍しいことでもないし。


 でも彼は、どんなに失礼な文面を返信しても、必ず、憤慨もせず会話をしようと努力してくれるから……彼ががんばっているのをうかがい知るたびに……文面を読み返す度に、申し訳ない気持ちになるし、どうしてもっと素直になれないのだろう……強くそう思ってしまう。


 そして、彼からの連絡が途絶えてしまった今、『どうして?』と思う気持ちよりも『また嫌われてしまった』と率直に思った。彼を諦めてしまった気持ちにもなった。そんな自分も嫌いだったけれど、思ってしまったのだからどうしようもない。


 そんな気持ちにもすっかり慣れっ子になってしまっていた…………


 それでも最近では私からメッセージをすれば良いのかもしれない。そうも思った。彼はどんな返事に対しても必ず返信をしてくれる。そんな安堵感がそう思わせたのかもしれない。


 けれど、けれど、どんな言葉を書けば良いのかわからまま……言い訳をすれば、年末が迫り、仕事が忙しくなってきたこともあり、彼にメッセージを送れないままでいる。


  どうしてかはわからないけれど、昨日の夜、厳密には今日なのだけれど、変な夢を見た。寝る前に、彼のことを考えたのがいけなかったのかもしれない。


「どうして手紙をを送ってくれないの?」と泣いている小さい頃の私がいて、それを

 まるでお姉さんのような女性が、


恋する気持ちは欲張りな気持ち


恋する季節は欲張りな季節


恋する乙女は欲張りな私



 それだけを言い聞かせる。そんな変な夢だった。


 起きて白い天井を見上げ、私は恋をしてるのかな。と一瞬思った。それは思っただけで、深く自問する前に、目覚ましを時計を見てげんなりとしてしまったから、それ以上は考えなかったけれど…………


 私は、二度寝もできずに顔を洗いに行って、たまった洗濯物を見つけてしまって、これまたうんざりとしてしまった。


 お母さんが恋しくなる…………


 でも、そんな泣き言を言ってもいられないから、午前中にせっせと洗濯をして、掃除もした。中途半端な季節だけれど、折角、掃除もしたのだからと、薄手の秋物と冬物とを何着が交換もしておいた。 


 一段落して、思い切り背伸びをして、時計をみやると丁度お昼過ぎだった。お昼ご飯にしようかと思ったけれど、そんなにお腹もすいていなかったから、かねてから買いおいてあった、猫の缶詰を台所の食器棚から取り出して、にゃんさんに持って行くことにした。


 のど飴を置いたあの日、今度はちゃんと持って行くと約束したしね。


 休日で天気も良い。こんな日に一日家の中で過ごすのはなんだか勿体ない気もするから。


 私は携帯電話もお財布も持たないで、右手に一缶だけを携えて家を出た。今年も後残すところ2ヶ月となって、気候はますます冬の趣を醸すようになった。とりわけ朝夕は寒さが厳しくなって、それでも昼間はそこそこ暖かいから、着る物選びも考えなければいけない。


 今日も晴れ晴れ晴天の青空で、風が吹けば寒いと感じるけれど、それをほかほか太陽がぬくぬくにしてくれるから、桃色のカーディガンを羽織って、ローヒールでも良かったのだけれど、休日くらいとスニーカーで出てきた。休日はスイッチをオフにしないと、気がもたいから。大体をのんびりと構えることにしているの。


 でも、猫缶は何かに入れて持って来た方良かったと後悔したけどね。


 歩道橋を渡り終えると、交差点を挟んで一本道。すでに堤防と千年桜の一部が見えている。私はそのまま直進をして、桜のすぐ横にある階段をゆっくりと上がっていった。


 さぞかし、ニャンさんもお腹をすかせているだろうな。そう思いながら。


 なのに、桜の幹から顔が覗いたところで、男性が何かを拾い上げて手の平で弄んでいるのが目に入ったからたまらない。


 私はそれが私のニャンさんにあげたのど飴だと悟って。とっさに、



「それ、私がニャンさんに供えたものなんですけど」と言ってしまった。それも強い口調で…………


 男性はきょとんと驚いた表情のまま視線を私の顔と右手に持った猫缶とを行ったり来たりとさせていたけれど、「いえ。猫の缶詰を供えてあるのは良く目にするのですが、のど飴ははじめてみたのでつい」申し訳なさそうに頭を掻きながら、そっとそう言った。


 だから、私はなんだか申し訳ない気持ちになってしまった。てっきりふてぶてしく、「別に、取ったりしないし」とか「こんなもの供えるな」とか言われる思っていたから…………



「すみません。てっきり…………たまに缶詰が無くなっていることがあるので……つい…………」



猫缶が無くなっているのは事実だ。きっと堤防の下、河川敷に住む野良猫に餌をやっている人達の誰かが持ち去っていると察しはついていたけれど…………早とちりだった。


 どうしよう…………


 私は今すぐに逃げ帰りたい面持ちとなって、下を向いてしまった。顔がじんじんとほてって熱い。


 今更ながら大きな声で、しかも強い口調で「ニャンさん」と言ってしまった…………それがとても恥ずかしくなってしまったからだった。



「あの、もしかして、毎朝六時十分の快速急行に乗っていませんか?」

 


 俯く私に、その男性はそう問いかけてきた。



「えっ、どうしてですか?」私はとっさ顔を上げそう答えて再び俯いてしまった。恥ずかしさ余ってごちゃごちゃになってしまった頭の中では毎朝自分がどの時刻の電車に乗っているなんて、すぐにはっきりと思い出せなかった。


 でも、


「毎朝、見かける人に似ていたもので」と呟くように言った男性の一言ではっとなった。もしかして、私の立つ位置の反対側に居る男性かもしれない。

 

 私は直感的にそう思った。


 「ひょっとして、私の反対側に立って音楽を聴いてませんか」


 自分でもなんて無茶な説明と言うか、問いかけだろうかと思ったよ…………


「やっぱり、そうだ!そうです。いつもあなたの反対側で音楽を聴いてます」


 男性は嬉しそうにそう言った。何が嬉しかったのかは定かではなかったけれど、その後の「スーツじゃなかった日があったと思いますけど、スーツよりも、私服の方が似合ってましたよ」と平然と言うので私は、目が点と男性の顔を呆然と見つめるしかできなかった。


 会話はそれだけ、恥ずかしかったことも相まって、その後、私は何を言うでもなく、猫缶も供えずに、足早にその場を離れてしまった。



〇 


 昔、母に「そんなお行儀の悪いことばかりしてると、いざと言う時に出てしまうわよ」と口酸っぱく言われた。


 この年になってそれが身にしみようとは思いもしなかったよ。まさか、「ニャンさん」なんて言っちゃうなんて…………桜の下に行ってはニャンさんニャンさんと呼んでいたから、《猫》じゃなくって《ニャンさん》と言ってしまった……


 湯船につかりながら、思い返してみると思い返すほどに恥ずかしい。それも、毎朝、顔を合わせる人に向かって言ってしまうなんて…………


 明日は車両を変えようかそれとも電車を一本早くしようか遅くしようか…………真剣に考えたけれど、早くすれば、二十分程早く起きなければならなくなるし、遅くすれば、乗り換えた路線で通勤ラッシュに巻き込まれてしまう…………クッションを指でつつきながらぼーっとどうしようか……と考えていると、


『スーツよりも、洋服の方が似合ってましたよ』と言った男性の顔が浮かんで来て、さらにぼーっとなってしまった。


 すると、違った意味で恥ずかしくなってきてしまったから不思議。


 誰かに褒めてもらえるなんてあまりないから……いいえ、社会に出てから本当に褒めてもらえたことなんてなかった。だから、今頃になってフツフツと嬉しさがこみ上げて来て不思議だった。


 折角、褒めてもらえたのだから、明日は私服で行こう!そう意気込んだ私は、クッションを突っつくのをやめて洋服箪笥を開けると、明日来て行く服を選ぶことにした。


 以前私服で通勤した時の洋服は着て行くことはできない。冬服と秋服とを組み合わせて、一人でファッションショーをしてみた。けれど、どれもこれも数年前に買った物ばかりで、どうもしっくりとこない。よくよく考えてみれば、休日は家で一日たまった家事を消化しているか、仕事をしているか……平日は家と会社の往復、時々その間に千年桜。だもの…………新しい服を買っている暇など無い…………


 女としては恥ずかしいかぎりなのだけれど、下着も随分と新調していない。最近では上下バラバラで身につけていることも多かったし…………下着は誰にも見られないからいいやと思っていた自分のバカっ!


 肩を落として、鏡台の前に立ってみると、お手入れをしていない肌がなんだかくすんでいるようだし、髪の毛だって随分傷んでいて、枝毛もはっきりと見つかってしまう始末…………普段、化粧をあまりしないからか、化粧品のほとんどは汚く中途半端に残っているだけだし、化粧水や乳液に関しては、空瓶だけが胸を張って立っていた。


 私はどれだけ、自分をいたわっていなかったのだろう……どれだけ自分が女性であることを忘れていたのだろう……


 それはそれは落ち込んだことは言うまでもない。まだ眠る時間には早かったけれど、失意の内にその日は早々と眠ることにして、ベットに潜り込んだ。



 次の日、私はある決意をして家を出た。いつもの疲れたスーツを着込んで、でも乗り込む車両は別でね。




 まさかまさかの出会いであった。


 まさかあんな場所で毎朝電車の中で顔を合わせる乙女に出くわすなんて、何という偶然だろ

う。いいや、奇跡と言っても過言ではあるまい。


 女性はとてもお茶目人であった。


 何せ、猫のことを《ニャンさん》と呼んだのだから。その人は、私が盗人でないことを知ると、途端に顔を赤らめて、俯いてしまった。きっとニャンさんに起因する俯きであろうと私は推測するのだが、それはそれで可愛らしいとも思っていた。何せ《猫》と呼ばず《ニャンさん》と愛称で呼ぶところから、あの女性は、とてもあの猫の事を愛していると思ったからである。


 愛称には、そこに愛があるからとても良いのである!


 そして、私が私服を褒めると、足早に帰ってしまい、存分に会話ができなかった。まあ、どうせ明日電車の中で顔を合わせるのだから。と私も軽い気持ちで女性が帰った後に時をおかずに家路についた。

けれど、家に帰った私は、第一に考えたのは、明日何を着て行こうか。それだけであった。確かに、腹は減っていた。むしろ空腹に拍車がかかっていたが、それどころでもなかったのでる。


 今からすれば、私はどうして無精髭を剃って行かなかったのだろうか。寝癖を直さずに出かけたのだろうか…………そんな、後悔ばかりである。


 人間とは第一印象が大切であると誰しもが口を揃える。ゆえに、私も格好は良くなくとも、せめて清潔にと普段は気を配っていると言うのに!毎朝髭を剃っていたと言うのに!


 どうしてこんな時に限って、油断していたのだろうか……これでは、あの人に普段から不潔なのだろう。そう思われてしまって致し方がない。


 それを思うと、胸の真からため息がこぼれた。


 浮気性ではない私だが、その日は意識がなくなるまで明日あの人と何を話そうか、そればかりを考えていたのであった。


 本日の失態を挽回するべく、知的でありながら、面白おかしい話題でなければ、私の印象は『不潔漢』のままであって、それ以上でもそれ以下でもあるまい。だからこそ、明日は私が不潔でなく、そして少しは教養もあるところを見せなければならないのである。


 私は意気込んだ、それはそれは意気込んだ、教養をこれ見よがしにホームで電車を待つ間、いつあの人とが現れても良いように、一冊だけ持っていた竹久夢二の詩集を読む振りをして、構えていた。


 この見栄っ張り!と罵られたなら、私は堂々を「そうだ!私こそは見栄っ張りだ!」と高らかに述べてみせよう。


 だが、肝心な彼女が今朝に限って姿を現さなかったのである。


 私は車内で色々と考えた、昨日の私の言動が問題だったのだろうか……それとも、出くわしてしまったことすらがそもそもあの人の機嫌を損ねてしまったのだろうか……そう言えば、初対面ではないかったが、実質は初対面の女性に対して、少々慣れ慣れしくはなかっただろうか……自分の過失を掘り起こせば、ざっくざくと溢れかえってまるで私が歩く過失であるかのようにも思えてきてしまった。


 これでも私は直感と言えばいいのだろうか、この小さいと言っても人一人と偶然に出くわすには、難しい広さを誇る市内にて、あの人を見たときに、これは!と思ったものだ。だから、心の片隅ではリオのカーニバルに負けず劣らずと私がひたすら小躍りをしていたと言うのに…………はたして、ネットの乙女同様に、桜下の乙女もさっさと私の前から去って行ってしまった。ネットの乙女に関して言えば、元々近くに居ないわけだから去って行ったと言う表現は些か頚をかしげても仕方がないだろうが……


 私にはいつ花が咲くのだろう……このまま寂しい男のまま、己が掲げる紳士道にのみ生き、虚しくも紳士道の半ばで事切れる運命にあるのだろうか…………





 週のはじまり、彼にいつもの疲れたスーツ姿を見られたくなくって、わざと車両を変えて出社した私は、出勤して間もない上司に、パソコンのスイッチすら触っていない上司に二日間の有給休暇を申請した。明日からと言う突発的な有給休暇に上司は眉をひそめたけれど、何を言われても押し通すと決めていた。何せ、入社してから一度も有給休暇を取ったこともなければ、毎日を忙殺されてきた私だから、尚のことこの有給だけは押し通すつもりだった。


 上司には思った通りごねられたけれど、なんとか有給をとることができた。


 珍しい私の行動に、同性の同僚は昼休みなんかに「旅行?」とか「何かあったの?」と皆一様に興味津々だったりするけれど。私は決まって「実家に帰るんです」と嘘を話した。


 それらしい嘘をつくなんて器用なことはできないし、まして本当のことを話すなんてもっと無理だから、とりあえず《実家に帰る》と話しておいた。きっと、冠婚葬祭だろうと勝手に察してくれるだろう。それは私の期待なのだけれどね。


 同じ回転軸を回る歯車はいやだ。だから、私にしかできない。私でないと駄目な仕事を…………学生の時はそう強く思っていた、けれど現実は遠く及ばない。実際に今の仕事だって、私が辞めたとしても、私の代わりはいくらでもいるしね。でもその分、責任というプレッシャーは低いし、こうして、突然の有給休暇も嫌みは言われるけれど、融通がきく。


 今日のお昼頃までは、少しは今の仕事で良かったと思えてしまう。


 その代わり、今日の帰りは終電となってしまった、さすがに明後日にすれば良かった。そう思ったけれど、そう思っていたら、きっと今までと同じ、明後日が明々後日になり……次の週になり、次の月になり……そしてそのまま、年末が訪れる。


 わかっていて同じ事を繰り返すようなバカなことはしたくない。だから、家に帰ってからも、明日明後日の予定を入念に思案して、大凡の予定は定めた。


 翌日。昨日が遅すぎたせいか、起床も少し遅くなってしまった。だけど、今日はそれで良い。時計を見て、大きく息を吐いて「よし」と気合いをいれて、洗面所へ向かう。ピカソもびっくりなくらいのモダンアートチックな寝癖に相当髪の毛が傷んでいることを再確認して、ヘアスプレーを使い、これをなんとかストレートにしようと試みるも、ウェーブで妥協した。なんだか、これだけで疲れてしまいそうだったから…………


 久しぶりにゆっくりと朝食を食べて、朝のニュースも久しぶりに見た。イチゴジャムってこんなに甘かったっけ?と思った自分が可笑しくて仕方がない。そして、洗濯物を洗濯機に押し込ん

で、掃除は後回しにして、掛け布団を干すことにした。今日も太陽は燦々だ。


 掛け布団を干し終わって、ワイドショーの美味い物特集に足を止めていると、開けたままの窓から、バイクの駆け抜ける音が飛び込んで来る。窓を開けているから、今日はいつもより爆音に聞こえた。


 私は急いでテレビを消すと窓をしめて、携帯電話を手にとると行きつけの美容院に電話をかけた。結構混み合う美容院だから、予約が取れるか心配で、呼び出し音の度に鼓動が大きくなっていった。


 電話に出たのは、偶然にも私担当の美容師さんで、名前を下島さんと言う。同い年と言うこともあって色々と気さくに話ができたりするので、髪型の相談もしやすい。


 彼女は「えっと、先々月でしたよね」と私が最後に訪れた日を覚えてくれた。


 私が予約をしたい旨を伝えると「今日は一杯なんですけど、明日とそれ以降でしたら開いてますよ」と明るい声で教えてくれた。



「じゃあ、明日行きます」と私は言い。


「午前中の十一時にお待ちしてますね」と答えてくれた。


 彼女は良く気がつくから、私のような性格の人間だととても助かる。予約を完了させるまで、大凡七分。前回は男性で、私の答えにいちいち、戸惑い、確認をしていたから、予約を終わらせるだけに20分もかかってしまった。


 私も疲れたけれど、きちっと私が伝えるべきを伝えれば、もっと迅速に且つ柔軟に話が流れるとわかってはいるのだけれどね。それができないと言うか……



「だめだめ」 

 


 また自己嫌悪に動けなくなるところだった。


 私は予約を済ますと、彼に褒められた装いに着替えて、家を飛び出した。実際にはいつもと同じだったのだけれど、今朝は意気込みが違う。巻いてはいないけれど、鉢巻きを巻いて気合いを入れている気分なのだもの。


 私は休日に買い物をして回ることがないから、お気に入りのお店もければ、その手の情報も乏しい。だから、自然と足は大型ショッピングモールへ向かってしまう。


 場所はどこでも良いの。


 自分が気に入った洋服が手に入ればそれで良いのだから!

  




 次の日も彼女の姿はなかった。


 私はきっと、平日が休みなのだろう。と最大公約数的な前向き思考にて、最悪な負の思考を振り払った。


 が、振り払っても振り払ってもそれは煙のように濛々と沸いて出ては、振り払う私の精神力を削いで行った。


 講義室を見渡しても、女性は私に余るほど大勢居る。なのになぜだ!なぜなのだ!

キャンパス内の乙女と知り合いになり、やがて恋に落ちると言うベターであり普通の恋が私には咲かないのだ!


 私が知り合い、気なる女性と言えば、ネットの乙女や桜下の乙女など、いつでも顔を会わせることのできない乙女ばかりではないか!


 これは奇っ怪な病なのか……病なのか……それとも、私はそんな巡り合わせなのだろうか……


 乙女達と気さくに話している男どもはどうやって、彼女達に近づき、そしてあのように愉快満面と花を咲かせるのだろうか。もしも教本ないしは専門書があるのであれば、こっそりと教えてもらいたいものである。


 私の悪友古平は言った。


「あんたみたいな、大正人間なんて誰が相手にするものか」と。


 確かに私の恋愛に関する考え方は少し埃が舞っている気がする。清楚可憐で慎ましい乙女が好みだし、男子たるは、軟派にあらず硬派と優しさに誠実たれ!と信じて疑わない男なのである。


 きっとこの思い込みこそが、私の周りに乙女が近寄らない理由なのかもしれない。ネットの乙女のように近づいて来てくれた乙女もいるのだ!とふんぞり返ったのもつかの間、ネットの乙女はすっかりと姿を潜め、桜下の乙女とて、二言三言の後に私から遠ざかってしまった。


 やはり、私には乙女との縁がまったくないらしい…………もうため息しかでるものはあるまい。




 

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