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春には、可愛らしく壮大で絢爛豪華で誇り高い薄桃色の花を咲かせ。
夏には緑を一色に太陽を独り占めし、あるいは日陰をこしらえ、または、雨宿りもさせてくれる。
秋には、先にも触れたが、黄色や赤、緑はもちろん黄緑色と、葉を紅葉させ、季節を感受させてくれる。
冬には寒々と静かに寂しいたたずまいとなるが、その姿がゆえに、新芽を力強く出すその時の感動は筆舌するにあまりある。
年中を通して桜は私に、多くを感受させてくれるのである。
だが、残念ながら私は桜花は五色あると思うのである。四季に花を楽しませてくれるのは、この千年桜であるが、忘れてはなるまい。秋にはもう一つ桜が咲くのである。
その名を秋桜と言い、この千年桜を前にする道から川の方向へ踵を返せば、そこには群生する秋桜が色とりどりの花を咲かせ、そよ風にそよそよとその体を揺らしている。
花びらの大きさこそ違えども、色は匂えどちりぬるを。色合いは誠に桜同様の愛らしい薄桃色なのである。
秋桜と名付けられたのも安易に理解できてしまう。
私は私においてこう断言しよう。桜の五色!っと。
「お前も寒い季節がやってくるな」
私は、誰も周囲にいない事を確認してから桜の根元に目をやってそう呟いた。
そこに丸まって眠っている黒色の猫は決して体温を宿してはいないのだが、その幸せそうな、満足そうに目を閉じて眠っている姿を見ればみるほどに、つい声をかけてしまう。
私もこの猫のように満足した表情で、幸福そうに生きたいものである。私は猫に、優しい眼差しをくれてから、そっと空を見上げた。
すっかり、暗幕に覆われてしまった天井には、穴が空いたように一番星が一つだけ。
「腹がへった」
心なしか、吐き出した息が白くなったような、そんな錯覚を覚えつつ、私は千年桜のすぐ隣にある階段を通って、下宿へ帰ることにしたのであった。
○
彼のメッセージを読んで私は、はっとなってしまった。
『毎朝電車に乗り合わせる人がいるのですが、その人はいつもスーツなんです。でも今日は珍しく私服と言うか、素敵な私服でした(笑)まるで、サナギから羽化した揚羽蝶みたいでしたよ』
彼は時々、恥ずかしくないの?と言いたくなる台詞を平気で書いて送ってくる。今時、揚羽蝶だなんて…………冷静になったから、そんなことも思えたけれど、メッセージを読んだ瞬間、私は思わず足を止めてしまったもの。
だって、いつもスーツで今日は私服って。まるで私のことみたいだったから……
そんなはずは無いのだけれど…………そう言い切れないのは、SNSで知り合った同じ市内に住むと言う女性ユーザーさんから、彼も私と同じ市内に住んで居るらしいとメッセージが来たから。
私は、公開していない情報を日記に書かれるのは気分が良くなかった。でも、ネット上だから、どの情報が本当か嘘かなんて、判断するのは難しいし、たとえ同じ市内であったとしても、十分に広すぎるし、人口だって十万人はいるのだから、故意に待ち合わせでもしない限りは顔を合わせることはないと思う。
だから、私は無視をすることに決めて。コメントもしなかった。
結局、その日記は削除されていたから、いずれにしても良かったのだけれどね。
私は、返信するかどうかを考えて、どんな風に返信しようかずっと考えた。いつもの私なら、「ふーん」程度でとらえて、決して返信はしなかったと思う。けれど、今回は私自身にも思うところがあるし……それに、いつも何かと心を砕いて返信をくれる彼だから、私も少しは考えて返信を、自分から会話に誘ってみようと思った。
いつもと違う靴を、スカートに端を見下ろしながら、握る携帯は真っ白な画面がずっとずっと…………電車の外に流れる明かりの絵巻を見送って、思わず両肩をさすって改札へ向かった駅舎に到着してもそれは同じ事。
このまま家に帰れば、絶対に送信はできない。いいえ、しないと思う。コンビニに寄って晩ご飯を買って、家に着けばテレビをつけて、いつの間にか微睡んで……
「駄目」
私はそう呟くと、帰路を行く集団がから抜け出して駅舎から続く川沿いの道を早い歩調で歩いた。
人通りは少ないくせに、随分と街頭やらが充実している、細い道はとても明るい。けれど、その殺風景さからはとても女の子の一人歩きをして良い場所だとは思えなかった。
実際に、年配であろうと学生風であろうとも男性とすれ違う瞬間は、うつむいて少し怖かったもの。
「ただいま」
私は周囲に誰もいないことを確認してから、千年桜を見上げてそう言った。
夜道を歩いて居る時こそ、たかだかネット上での繋がりにこんな心を配る必要もないだろう。私は何を馬鹿なことをしているの?と自問自答していたけれど、千年桜の前に立つと、違う意味で来て良かった。そう思えた。
高校受験や大学受験、お姉ちゃんの結婚式の前日、そして一人暮らしをはじめた頃、折りに触れて、私はこの桜の下に着て、言葉に出さない気持ちを随分と聞いてもらった。
誰にも相談もできない性格の私だから、千年の時を超えてきたこの壮大な存在に、すがっただろうと思う。
でもね。不思議なことに、私が泣きそうでいると、桜は葉を揺らし、または花吹雪で私の荒れた心を癒してくれた。高校生の時にそれをお母さんに話すと、「風でしょ」と軽くあしらわれてしまった。でも、おばあちゃんに同じ事を話すと、
「皐月はもう人生の桜を見つけたんだね」と言って、頭をなでてくれた。
人にはその人だけの特別な桜があるのだと言う。それは出会えないかもしれないし出会えるかもしれない。共に歩み常に共にある。とても尊い存在。
そう教えてくれたけれど、その当時はその意味が今ひとつ理解できなかった。でも、今は少しわかる気がする。
私はとてもわがままだから……楽しいときや充実している時は、桜に会いにはこない。会いに行くのは決まって泣きたい時や寂しい時だけ。それでも桜はいつも同じ場所で私を受け入れてくれる。
千年桜はわたしにとって人生の桜。
でも、この季節にだけ少し、私は浮気をしてしまうの。桜と反対方向の河川敷に広がる秋桜畑。千年桜は春夏秋冬、四度花を咲かせる。でも、秋には秋だけの花が咲く。だから、私の中で桜は五色あると思っているわ。
桜花の五色、我ながらお気に入りの表現。
「にゃんさんも待っててくれたんだよね」
私はそう言いながら、桜の根元に丸まっている猫の頭をなでた。決して、温度のない体だけれどね。誰がなんのために置いたのかは知らない。けれど、満足そうに幸せそうに、そして気持ちよさそうに眠る表情を見ていると、見ているこちらまで「がんばろう」って気になってくるから不思議。
小さくて気がついている人も少ないと思うけれど、 根っこ側の背中には読みづらい小さな文字で詩が彫ってある。
『
桜下アッリヴェデルチ
お前様を待つその人はきっと寂しい思いなぞさせはしない
少なくとも 少なくとも
お前様を待つその人はきっと悲しい思いなぞさせはしない
少なくとも 少なくとも
路上にて空を見上げれば寂しくも一つ星 お前様よ小生は忘れはしない
盟約なれば 盟約なれば
雨の日も風も日も小生がお前様にかわってお守り致し候
長いこの心 光陰空を駆けようと お前様は居らずとも悲しい思いなぞさせはしない
切なくとも 切なくとも
千羽鶴 その人はずっと日々を数え 夕暮れに一羽ずつ折り候
その人は寂しい思いを抱きとも 抱きとも お前様の帰りをおまちで候
小生はきっと悲しい思いなどさせはしない
非力とも 非力とも
頭上に舞い散る桜花見上げ、小生は行きまする
切なくとも 切なくとも
されども、小生はその人に寂しい想いなぞさせはしない 天寿まっとうしてなお 猫またとな
りて 悲しい想いなぞさせはしない
盟約なれば 盟約なれば
髪に艶めく長くして その人は気丈に振るまいお前様を待ち候 寂しい思いなどさせはしない
少なくとも 少なくとも
季節巡りて、髪に艶めく長くして その人は胸に封書を抱き涙しておりました
その人はやっと寂しい想いから放たれます
嬉しくも うれしくも
小生は寂しい想いなぞさせはしなかった 悲しい想いなぞさせはしなかった
お前様よ。後はお前様におまかせ致しそ候
その人の背を見送り小生は行きまする
頭上に舞い散る桜 小生はこの歌をもっておわりまする
切なくとも 切なくとも
お前様よ 小生は寂しい想いなぞさせはしなかった
お前様よ 小生は悲しい想いなぞさせはしなかった
盟約なれば 盟約なれば
小生はやっと寂しい想いからはなれまする
儚くとも儚くとも
儚くもこの歌をもって以上を終わりまする
居りたくとも 居りたくとも
再び出会えたなれば この度は至上の喜びとちりぬるを小生は嬉しく想いまする
つれづれ うたかたの宴つつがなく 万年真ぞ嘘は無し
お前様よ 小生は悔いなどありもせず候
ただの一度もその人に寂しい想いなぞさせはしなかった 悲しい想いなぞさせはし なかった それを胸に参りまする
小生はお前様と出会い幸せでありました 折あれば必ずお会いしとうございます
願わくば 願わくば
お前様よ もしも、小生のことを思い出してくださるならば 二人して桜の下におい でくだされ 小生はいつの後もここにおりますれば お前様を見守り候
最後のこの時も願わくば小生は星霜後もお前様に寄り添い居たく候
叶わずとも 叶わずとも
小生は参りまする
お前様よ
お前様よ
小生はついに寂しい想いなぞさせなかった 悲しい想いなどさせなかった
頭上の桜花と共に参りまする
お前様よ お前様にどうぞ幸あらんことを
小生の望みなれば 望みなれば
』
はじめてこの詩に気がついた時は、宝物を見つけたみたいで嬉しかった。だけど、読み終えた後は、とても気持ちが重かった。きっと私の心が重すぎる想いに耐えられなかったのだと思う。
それでも、何度も何度も、読み返しているうちに、いつしか感受することができたのだろうと思う。とても優しい気持ちになって、「(だから、こんなに幸せそうで満足げな表情をしているんだ)」そう思えたから。
勝手な解釈かもしれないけれど、この猫は、約束を最後の最後まで守りとおすことができたからなんだな、って。
あらためて、思い直すと、つい目の奥が熱くなって溢れてきたものがこぼれ落ちそうになってしまった。
「こんなのしかなくってごめんね」
私は、鞄からのど飴を一つ取り出すと、ニャンさんの頸元にそっと置いた。「今度は美味しい物もってくるから」続けてそう言いながら…………
そして、桜のすぐ隣にある階段を降りて帰宅することにした。
『きっとその人は恋をしたのかもしれませんよ』
マンションのエレベーターの中でそう一言だけ返信できた。
1時間も思いを巡らせてたったこれだけだなんて、本当に私は会話が苦手。でも、今は送信できたことでほっと胸をなで下す。今までなら絶対に返信しなかったと思うから……相手が彼だから、と言うのもあるかもしれない。彼は私が何を言っても必ず返信をくれる、一度だけ怒らせてしまったことがあったけれど、それでも返信はしてくれた。
だから、必ず返信をしてくれるって安心があるから、送信ができる。
返信がなければ、その人にどんな風に思われたのかとか、どうして返信してくれないの?と疑心暗鬼になってしまって、来るか来ないかわからない返信を待っている時間がとても辛い。
その上に返信がなければ、「(ああ、また嫌われた)」と思って落ち込む。なら、メールなんて、会話なんてしなければ良い。そう思うようになって、今の私がある。
そんなじゃ駄目だってわかってる…………わかってるんだけど……
『確かに、女性は恋をすると綺麗に光り輝くと言います。いや、本当にその通りなのでしょう。そうかあ、恋をしたのかあ。恋って良いですね♪』
帰りにコンビニで買ったお弁当を電子レンジに入れている間に、彼から返信があった。
やっぱり、安心だ。
『恋かあ。しばらくしてないな』
シンクにもたれて、そう返信した。
『私も、恋はしてませんよ。ですが、ときめいてはいますとも!今朝もその乙女を見て、ときめいてしまいました!!』
乙女って。彼は本当に時々、クエスチョンマークが飛び出す言葉を使う。でも、それも慣れてしまえば、少し面白い。
『OOさんから、あなたがOOO市内に住んでいるって聞いたけど、本当?』
私なりに、思い浮かんだ話題だった。彼のことだから、これだけの話題でいくらでも話をふくらませてくれるだろうと思った。
だけど…………
『実は私も、OOさんの日記を読んで、OOさんに聞いてみたのですが、返事がもらえませんで、日記も消されてしまいました。私のせいだとしたら、申し訳ない限りです。えっと、私はOOO市Oヶ丘2丁目と言うところに住んでいますよ。サツキさんはどこにお住まいなのですか?』
思ったよりも、彼が私の住まいの近所に暮らしていることがわかってしまって……
動揺してしまって…………
『それを聞いてどうするの』と、とっさに返信をしてしまった。
終わったと思った。送信完了画面を見て、私は唖然としていた……それこそ、電子レンジのアラームが聞こえないくらい…………頭の中が真っ白になった……
『私としたことが、女性の住所を聞くようなことを書いてしまいました。ごめんなさい。決して、邪な気持ちがあったわけではなくって、ただ、万人が登録しているSNSだと言うのに、住まいが近しい人とこうしてお知り合いになる確率はものすごーく低いだろうな。と思って、つい嬉しくなってしまいました。もう一度言います。他意はありません。』
心臓が耳のところにあるみたいに、鼓動が大きかった。けれど、彼の文面を見て、「ふぅ」って安堵の息を吐きだして、とても落ち着いた。
彼には悪いと思ったけど、これ以上返信を続けたら、何を言って彼を怒らせたり落ち込ませたりしかねないから、携帯をとじて、ポケットに滑り込ませた。
それから、ようやくお弁当の暖めが終わっていることに気がついた。
〇
『きっとその人は恋をしたのかもしれませんよ』
彼女からの返信を受け取ったのは、丁度、風呂上がりにごろごろとし始めた頃合いであった。いつも返信が遅く、返信が来るか否か不明な彼女だから、今回も返信には期待をしていなかった。それに、とりとめもない私の自己満足をそのまま文章にしたようなメッセージであったのもある。
だから、返信があった事自体に驚いたし、文面を見て、一層驚いた。彼女の口からそんな言葉が出てくるとは思いもしなかったからである。
『確かに、女性は恋をすると綺麗に光り輝くと言います。いや、本当にその通りなのでしょう。そうかあ、恋をしたのかあ。恋って良いですね♪』
本日、彼女はとても饒舌であろう。もしくは良いことがあったもかもしれない。ゆえに私は、彼女との面白おかしい会話の糸口として『恋』と言う文字を三度も使った、文章を彼女に返信したのである。
すると、彼女からは『恋かあ。しばらくしてないな』と哀愁を漂わす返事が返ってきたではないか、さすがに最初から恋と言う文字三度は、使い過ぎだったのかもしれない。
反省よりも先だって、まずは彼女の機嫌を上向かせなければなるまい。私はそう思いつつ、どんな言葉を並べれば彼女を喜ばせられるだろうか…………そう考えた。考えたのだが。
いつしか、男の嵯峨か、彼女に彼氏がいない事実にのみ着目し、いつもの、私らしくも無く……
『私も、恋はしてませんよ。ですが、ときめいてはいますとも!今朝もその乙女を見て、ときめいてしまいました!!』
などと、誰も聞きたくもないであろう、脈略不明な私のときめきを書き記してメールを送ってしまった。
きっと、彼女に彼氏がいないことを知り、私にもチャンスがある。などと、内心では鼻の下を象の鼻のように長く伸ばしていたに違いない。
案の定。
『OOさんから、あなたがOOO市内に住んでいるって聞いたけど、本当?』
いつも通り彼女は会話の流れを明後日の方向へ投げつけてしまったのである。
そうなのだ。私は彼女のネット上での友人の日記を読み、メッセージだけのやりとりながら彼女が私の住む近くに住んでいるように思えて…………邪な思考で言うなれば、折あれば実際に会い、それから恋に発展する………………そんな一分の妄想と願望と想像と希望を日々胸に深淵にくすぶらせるようになっていた。
そこに転がり込んで来た『彼女に恋人はいない』と言う彼女からの確実な情報は、私の胸の中に点火剤を放り込み、瞬く間に私の欲情と言う劫火を迸らせたのであった。
だがしかし、話題をそらされてしまったからには、彼女にその気は一片も見あたらないらしい……燃え上がるのも瞬く間であるならば、燃え尽きるのもまた瞬く間であったわけだ。
その後のメッセージは、燦々たる有様であった。どれ一つとして彼女の意に沿う言葉を並べられず、欲情の反動にて、思慮能力が低下していた私はいつものように会話も広げられなければ、匠に新しい話題を提供することもできなかった。
そして幾つかの夜と同じ、彼女からの返事が途切れ、ここにメッセージのやりとりは終幕をみたのであった。
〇
そんなやりとりを最後に、数日の時が矢のごとく過ぎ去り。私は相変わらず、彼女が関心をひきそうな話題を求め、一端木綿のようにふわふわと聞き耳を立て、目を細めていた。だが、世の中、彼女が興味を持ちつつ、その上に共感したあげくに、私が話題を水平線の彼方まで広げられる話題など、そうそう転がって居るわけもなく。常が常の凡庸たる私には、平凡な話題しか見つけることなど叶わなない。
それにだ、自信のない話題をメッセージとして送信したのち、彼女が返信をくれなければ、嫌われてしまったのだろうかだとか、やはり……などと、無用に落ち込み、眠れぬ夜を過ごさなければならなくなる。それでは本末転倒ではないか!
考えてみれば、彼女からメッセージを発信されたことがない。はじまりから今まで、全て私がメッセージを送信しての会話なのである。
今更ながら、それももどかしく想うようになってきた。
これでは私が、寂しさあまって、やたらめったに話しかけているみたいではないか!乙女に相手してもらえぬ、悲しい男子のようではないか!
後者に関して言えば、全力で否定できないところがやや虚しくあるものの、話題の捜索をしていて、そんな事実に気がついた私は、彼女に対してメッセージを打つことが虚しく思えてきてしまった…………
事実、話題など、実際になくとも小さきを大きくし、面白きを面白可笑しく着色しさえすれば、創作が可能であるのだ。
話題が無い。と言うのは詭弁であり、本質的には虚無感こそが私にメッセージを打たせないと言った方が正しいのかもしれない…………
実際には彼女とネット上にて会話をはじめて、週が一回りした頃から、虚無感はあった。彼女の帰宅が遅い日は、私の睡眠時間を削って日付が変わってもなお、布団内にて起きていた。
恋の前に人は盲目であると言う。容姿さえ知らない彼女に夢中であったがゆえの愚行であろうと想う。
恋などと言うと、純粋無垢なで素敵なものだけで、できていると思いがちであるが、実際は、わがままに付き合いつつ、ひたすら待ち続ける、とても辛くも悲しいものであった。
世間知らずと自分を自分で笑わねばなるまい。
そう思う一方で、女性に声を掛けるのは男の宿命であって、事実、女性の方からほいほいと男に声を掛ける婦女は好きではない。であるならば、悔しがっている場合ではないだろうし、わがままであるのは私自身であると言わざる得ない。端的に、私の求める女性でなかったから、「この女は駄目だ!」とごねているだけにしか見えない。
やはり自分を自分であざ笑わなければなるまい。
そもそも、彼女はネット上での出会いなど気にもとめて居ないのではなかろうか…………私とて、顔も声も知らぬような、他人と親好を深めるなどアホのすることである。そう断言し、同じSNSにてできた友人と現実に遊んだと話した同ゼミの友人に対し軽蔑の眼差しをくれてやったこともまだ新しい記憶である。
だと言うのに、今では、その友人の気持ちがわかってしまう…………一人は寂しい、まして、出会いの少ない私である。だから、せっかく言葉を交わすようになった携帯のディスプレー先に居る彼女と会ってみたくもなったし、もっともっと話がしたいと思うようになっていた。
思いは胸くそ悪きも、清らかなるも、ぐるぐると私の頭の中を回り続けあわや、メビウスの輪を形成しつつあった。
負の連鎖は心身にとってよろしくない。心身相関とまず心から病に冒されて行くのであって、胸の奥がずーんと思い私は、明日にはきっと日和見病にて大学を休まなければならないだろう。
「そうか、今日は休みか」
小一時間ほど、四畳半の部屋にて天井ばかりを見上げて居た私は、今更ながら、本日が休日であることを思い出した。
義務的にも強制的にも学生である私は、休日を日がな一日と畳に寝っ転がって、もんもんと無駄にブドウ糖を消費しているわけにはいかない。未だ手つかずの専門書も山なれば、提出せねばならない論文とて山のごとしである。そして、その論文を書くためにはまず専門書を読まなければならないわけで…………
すでに昼過ぎを示す柱時計を見やると、どうしても今から、孤軍奮闘し専門書に知恵熱を出す気分にはなれず、かといって出鱈目に論文を書き殴る気にもなれず、とりあえず起きあがることからはじめた私は、台所へ行くと冷蔵庫を開き昨晩見たカラシの黄色いパッケージを見つめて、他に隣人も無しの冷蔵庫に蓋をすると、着たきり雀の様相そのままに、胸のあたりを掻いてから精気を伴わぬままにふらふらと外へ出たのであった。
○
霜月の季節はとかく微妙な巡り月であり、朝夕は冬のように冷え込み、かと思えば日中などはほかほかと暖かかったりする。
本日に例のごとく、日差しの暖かい昼下がりである。
とりあえずは外に出てみたが、別に行くところ無く、まして目指す場所などありはしない。
私はふらふらと川沿いの堤防の下、左手に堤防を見ながら、一路、惣菜屋を目指すことにした。