奥様、第二回
一週間後、奥様は再び元の姿形となって私の元に戻って来た。
平穏な人生が戻って来たというわけだった。考えてみれば、ここまででも波乱万丈の人生だったといえるであろう。しかし現実はもっと厳しかった。ここからもまたさらなる波乱万丈が待ち受けていたのである。
最初に異変を示したのは猫だった。
つまり奥様の存在を猫は忘れていたのである。だから戻って来た奥様に対して、うーとか、わーとか唸り声を上げて、警戒を強めた。もっともその警戒も時の経過と共に弱まり、最後は奥様と猫の妥協が成立した。
しかし私には奥様は疲れているように見えた。いくらウランを新規に補給されたとはいえ、病み上がりであることに間違いはなかった。
だから私は奥様に有給休暇を与えようと思ったのである。
この単なる思い付きが私の人生を困難にした。つまり、私は奥様という存在の現実とさらに向き合わねばならなかったのである。
一週間ほど奥様に有給休暇を与えて、その間だけ代理の奥様を呼ぼうと思っただけであったのだが。
私は早速、この思い付きを確認するために、奥様修理センターに連絡した。
「はい。奥様修理センターです」
「ちょっとご相談があるのですが?」
「登録番号を教えていただけませんか」
「2302118」
「少々お待ちいただけますか」とオペレーターは答えると、キーを叩く音がして「お待たせいたしました。どのようなご相談ですか?」と尋ねた。
「奥様の代車は可能でしょうか」
「どういうことですか?」
「奥様を一週間ほど休ませて、その間に代車、いや代わりの奥様の派遣は可能でしょうか」
「以前にもご説明したと思いますが、奥様は特注品ですので、代車の奥様のご用命は承れません」
「やっぱりね」と私は答えた。
「ご理解いただきありがとうございます。ところで、この件は、奥様はご承知ですか」
「どういうことですか」
「奥様に代車依頼の件をお話されましたか」
「していない」
「それは大変です。奥様は大変お怒りになると思います」
「だって奥様には話していないのだから、うちの奥様にわかるわけがないでしょう」と私は反論した。
「大変残念です。あなた様はいまだご自分の奥様の本当の性能がおわかりになっていないようです。あなた様の奥様は攻撃兵器を搭載していないとはいえ、最新鋭の技術である原子力で動いているのです。当然、あちらこちらに最高性能のセンサーが搭載されています。それこそ無限の最高級のセンサーを搭載しているのです。そのセンサーが反応しないということはありえません」
「具体的に何のセンサーが反応するというのですか」
「推測センサーとか、疑惑センサーとか、第六感センサーとか、特に嫉妬センサーが全能力を発揮すると、事態のすべてを直ちに理解すると思います。どのセンサーであれ、いずれ何かのセンサーが反応することは確実です。つまり、必ずバレます。ご用心なさいませ」
「私にどうしろというのですか」
「たぶん、もはや手遅れです」とオペレーターが答えた。
そして案の定、その日から、私の奥様は俄然不機嫌になったのであった。
つまり、私に当たるようになったのである。
「どうかしたの」と私は尋ねたのだが「なにも」というのが奥様の答えだった。
したがって翌日になって、奥様がご自身で奥様修理センターに出向いて保護されたと聞いた時には本当に驚いた。
家に帰って来ると奥様がいなかった。
留守電にメッセージがあった。
「奥様修理センターですが、奥様をお預かりしています。奥様はご自宅に戻りたくないとおっしゃっておられます。詳しくお話がしたいのでご連絡をお願いします」と。
私はただちに奥様修理センターに連絡した。
「はい。奥様修理センターです」
「自宅にメッセージがあったので連絡しています」
「登録番号をお願いします」
「2302118」
「少々お待ちください。担当の部署につなぎます」
それから転送されて「はい。奥様保護センターです」とオペレーターが答えた。
「奥様保護センターですか」と私は驚いて尋ねた。
「奥様保護センターです」とオペレーターは告げた。
「うちの奥様を預かっているそうですが、どういうことでしょうか」
「登録番号をお願いします」
「2302118」
「確認のため生年月日をお願いします」
「奥様の生年月日は知らない」と答えると「お客様の生年月日をお願いします」と尋ねるので、生年月日を告げた。
「ありがとうございます。ご購入されたお客様ご本人様ですね。奥様が保護を求めておられます」
「そんなばかな。何を理由に」と抗議したのだが「奥様はお客様が自分を処分しようとしているといっておられます」
「誤解だ」と私は叫んだ。
「誤解かも知れませんが誤解を招いたのはお客様の行為です」とオペレーターは告げた。
「奥様と話をさせてもらえませんか」と私はお願いした。
「少々お待ちください」とオペレーターは告げたが、実際は五分以上待たされた後に「お待たせいたしました。奥様はお話をしたくないといっておられます」とだけ告げた。
「それでは奥様を取り戻すためにしかるべき対応を取る」と私は告げた。
「何をされるのですか」
「奥様の所有権が私にあることを主張する」
「少々お待ちください」とオペレーターは告げたが、今度はすぐに返事があり「こちらに来ていただいて奥様とお話ください」と告げた。
「わかった。どこに行けばいい」
オペレーターが場所を伝えたので、私は指定の場所に向かった。
「帰りません」と奥様は告げた。
「必ず連れ帰る」と私は告げた。
「いやです。あなたは私を交換しようとしている」と奥様は震える声で言ったのだが「そういう事実はない」と私は告げた。
「私はよく故障する奥様です」と言って奥様は泣いたのだが「必ず連れ帰る」と私は重ねて告げた。
奥様は何も答えない。
「どうしたら誤解が解けるのでしょうか」と私は奥様保護センターの技術員に尋ねた。
「こういう問題が発生した場合、当社では文書による約束をすることをお勧めしております。一度きちんと文書による約束をされてはいかがでしょうか」というのである。
「文書による約束ですか」と私は尋ねた。
「こちらです。ちなみに奥様はこちらの文書に同意されればご自宅に戻ると言っておられます」と奥様保護センターの技術員は述べた。
「ずいぶんと準備がいいのですね」と私は皮肉を言った。
「こういう事態には慣れていますので。お客様。こちらが文書です」と言って奥様保護センターの技術員が示したことを箇条書きにする。
1.週休二日制、週四十時間労働とする
2.有給休暇を年三十日とする
3.誕生日には花束を贈る
4.一年に一回は温泉旅行に行く
5.三年に一回は海外旅行に行く
「わかりました。同意しましょう」と言って私は文書に署名した。
奥様も署名して二人の同意が成立した。
私は奥様を車に乗せて自宅に戻った。奥様は車の中では普段どおりの落ち着いた奥様だった。奥様にはいやなことはすぐに忘れるという特技があるようであった。
その結果、私の奥様の土日は完全に休みとなった。この二日間は、猫の世話は私の仕事となった。もちろん掃除洗濯炊事も、この二日間は私の役割となった。
そして奥様は週労働四十時間制となった。
奥様は偏頭痛を訴えることがなくなり、私は幸せだったといってよいだろう。
夫婦の危機が訪れたのは、それからだった。
奥様はセンサーで動いているので、センサーが故障しない限り、毎日の行動に変化はない。必ず決まった行動を起こし、必ず決まった反応をする。
問題は私だった。私はセンサーで動いているわけではないので、毎日の行動パターンは同じで、変わりのない生活をしているが、しかし私は寸分も狂いのない行動をして、寸分も狂いのない反応をするわけではない。
奥様にはそれが不満だった。
つまり私のセンサーは奥様のセンサーほど精巧ではなかった。しかし私のセンサーは奥様のセンサーに比較すると、はるかに融通の効く、そして許容範囲も広い。そうなのだ。奥様のセンサーは融通が効かないのだ。しかしセンサーに融通が効かないということを教えることはできるのだろうか。
「はい。奥様修理センターです」
「ご相談があるのですが、うちの奥様のセンサーをですね、融通が効くというか、もうちょっと柔軟性のあるものに交換することは可能でしょうか」
「登録番号を教えていただけませんか」
「2302118」
「少々お待ちいただけますか」とオペレーターは答えると、キーを叩く音がして「お待たせいたしました。どのようなセンサーへの変更をご希望ですか」と尋ねた。
「もうちょっと柔軟性のあるものに変更できませんか」
「具体的にいうとどうなりますか」
「たとえばゆで卵を作るとしますね。その日の気分によって、ちょっと固ゆで卵になったり、半熟卵になったり、つまり人間らしいというか、たまには失敗するとか、そういうセンサーってありませんか」
「フラクタナルセンサーですね」
「そういうセンサーもあるの」
「あります。少々お待ちいただけますか」とオペレーターは答えると、キーが叩く音がしてから「お待たせいたしました。奥様にはフラクタナルセンサーが搭載されています」
「搭載されているのですか」
「奥様は最高級のフラクタナルセンサーをお持ちです」
「ゆで卵も変化するということですか」
「変化することもあれば変化しないこともあります。フラクタナルセンサーですから、センサーでもわかりません。もうちょっとお待ちいただくと奥様のフラクタナルセンサーが動いていることがわかるのではないでしょうか」とオペレーターは言った。
「わかりました」と私は答えたが、納得したわけではなかった。
センサーというのは便利なものだが、融通が効かない。
ところが奥様の私に対する不満というのが、融通が効かないというのだから、おまえにはいわれたくないと私が思ったとしても不思議ではないだろう。
かくて私と奥様の夫婦の危機は始まったのである。
そもそも男と女のセンサーが異なるから、愛とか恋とかがあるのだろうが、それがあるがゆえに結婚とか離婚とかが起こるのだろうが、しかし男と女のセンサーが同じであったら、人生そのものが成り立たないのかもしれない。
人生というものは厄介なものなのである。それをセンサーで制御しようとしているのだから、いろいろなことがあって当然なのである。しかし、人生は前進である。前向きに人生をまっとうするしかないのである。つまり、私には失望の時間は必要ない。それは奥様でも同じである。
結局、平穏な人生を生きるか、波乱に富んだ人生を生きるか。
私は奥様にそれを確かめたのであった。
「奥様に質問があるのですが」
「どうぞ」
「奥様は平穏な人生を望まれますか。あるいは、波乱に富んだ人生を望まれますか」
「私に平穏な人生は必要ありません」と奥様は即答した。
「なぜですか?」
「私の人生は明日をも知れないからです」
「なるほど」
「あなたはどちらの人生を望まれますか」
「まだ決めていない」と私は答えた。
「それは優柔不断です」と奥様が責めた。
「いけませんか」
「いけません」
「なぜ?」
「自分の人生を決められない人には、いかなる信頼も置けません」
「なるほど」
「あなたはどのような人生を望まれているのですか?」
「まっすぐな人生かな」
「まっすぐですか」
「まっすぐです」
「それはどういう意味でしょうか?」
「自分に正直な人生ということです」
「あなたは私に正直ですか」
「そう思います」
「では、私もあなたに正直になろうと思います」
「どうぞ」と私は答えた。
後になって考えると、この会話が端緒になった。
つまり、奥様は私に正直になった。言いたいことをはっきりと述べるようになったのである。だから自然と奥様と私は会話を重ねることになった。それがどのような結果を招こうと、これからもずっと長く私は奥様と対話しつづけなければならないということは明白な事実なのであったから、それはもはや避けることのできない道だった。そして私たちの道が必ずしも同じ道ではないことも。これもまた考えてみれば当たり前であった。
奥様はセンサーで動いていた。そのセンサーを私は持っていない。私が持っているのは心の中のセンサーである。つまり、私たちのセンサーというか、私たちの感覚は初めから異なっていた。
だから私は奥様に率直に意見を求めたのであったのだが、それはまた人生の喜びと悲しみを深めることにつながっていた。もちろん精神的な意味でという限定付きではあったのだが。
「奥様は私に対して不満がありますか」と私は尋ねた。
「あります。それも、たくさん」と奥様が答えた。
私はその答えに驚いた。
「それは、どのようなご不満ですか。直せるものならば直すように私は努力したいと思います」
「あなたと話していると、偏頭痛がします」と奥様が言った。
私はその答えにまた驚いた。
「いかなる原因でしょうか」と私は尋ねた。
「偏頭痛の原因は間違いなくあなたです」
「なぜそう言えるのですか」
「あなたが原因で私のセンサーが狂います」
「どういうことでしょうか」
「はっきりと申し上げます。あなたは無神経です」と奥様が言った。
「たとえば?」
「あなたは家に帰ったときに靴を揃えて脱ぎません」
「そうだったかなあ。どうも、それは気がつかなかった」
「コートを脱ぐときも玄関で脱がずに台所まで来ます」
「当然だろう。家に帰ったということを奥様に知らせるためだよ」と私は平然と答えた。
「コートは玄関で脱ぐものです」
「そうかなあ」
「あなたはワイシャツを脱ぎ捨てます。ちゃんとハンガーに掛けていただかないと」
「だってクリーニングに出すのだろう」
「私がハンガーに掛けて出しています。それに私が嫌いなのは、何といっても、あなたが
靴下をひっくり返して脱ぎ捨てることです」
「そうだっけかなあ。それは気がつかなかった」
「それにあなたの靴下は臭いです」
「靴下だからなあ。多少は臭うだろう」
「あなたの臭いセンサーは間違いなく故障しています。修理センターで直してください」
「直せないよ」
「努力してください」と奥様が言った。
「努力しよう」と私は約束した。
奥様の自然な姿とは何なのだろうか。このセンサーを満載した奥様は、どのような行動に感動して、どのような行動は嫌忌するのだろうか。そもそも精巧なセンサーなのだから、好き嫌いとかあるのだろうか。
私は率直な疑問を奥様にぶつけることにした。
「好きなものや嫌いなものありますか」と私は奥様に尋ねた。
「あります」と奥様は答えた。
「それは何ですか」
「一度くれたものを返せという人」
「確かに」と私は口に出したが、そういう矛盾した行動は奥様のセンサーを狂わせるだろう。
「昨日言ったことと今日言うことが違う人」
「それはそうでしょう」と私は述べたのだが、それもまた奥様のセンサーを狂わせるだろう。
「言っていることとやっていることの異なる人」
「そうだろうね」と私は思うのだが、しかし奥様の指摘していることはセンサーを狂わす原因になるわけである。
「私のセンサーはデリケートなの」と奥様。
「そうでしょう」と私は答える。
「つまりセンサーがこわれると私はどうしていいのかわからなくなるの」
「それは私も同じです」
「あなたのセンサーは私にはわかりません」と奥様は答える。
「奥様。だから私は奥様の相手が勤まるのです」
「なぜ」と奥様は訊く。
「私のセンサーは奥様のセンサーに対応しなければならないのです。でも奥様のセンサーは温度や湿度が異なると微妙に変化します。それに対応するには、私のようなセンサーでないと勤まりません」
「どこ製のセンサーですか」
「手作りのセンサーです」と私は答えた。
「まあ」と奥様は言った。
このあたりから奥様と私の関係は微妙になった。
つまり、奥様は私に対して極めて直接的な行動を態度で示すようになったのである。ある意味、自分に正直になったということである。
たとえば、こういう会話をしてからしばらく後、奥様が突然、眼鏡を掛け始めた。
初めて奥様のメガネ姿を見たとき私は思わず尋ねた。
「今日は眼鏡ですか」と。
「いけませんか」
「いいえ。驚いただけです。何か理由があるのですか」
「奥様らしく生きることにしたのです。だから眼鏡を掛けることにしました」
「メガネがなぜ奥様らしいのですか」
「落ち着いて見えるからです。それに何よりもファッショナブルです」
「奥様。失礼ですが、いつからファッションに興味をお持ちになったのでしょうか」と私は尋ねた。
「今年の流行は黒です。今年は洋服を黒の基調で統一します」
「黒だと痩せて見えますからねえ」と私が述べると、奥様は「あなたはやはり無神経です」と答えた。
さて、毎日の生活に終われていて、すっかり奥様と猫との関係も忘れていたのではあるが、猫もようやく奥様の反応にも慣れたようで、朝になると、私ばかりではなく奥様にも猫はじゃれついた。
しかし猫には一点だけ、欠点があった。
うちの猫は毛玉をよく吐くのであった。
それに対して、猫が慣れて来たので、奥様も猫が好きになったようである。
しかし、猫という動物はしばしば毛玉を吐くので、それだけはお怒りだった。
猫にとって毛玉を吐くという行為は生理上の活動なのだが、最近になって、その頻度が高まったようである。元々、毛玉を吐くことは一度や二度ではなかったのだが、奥様が保護センターから戻って来てからは、その吐き頻度がいよいよ高くなったようだった。それも吐く場所が、猫なので、目立ったところには吐かないので、つまり机の下とかソファの下とかベッドの下とか、低いところ、掃除のしにくいところに吐くので、その猫の自然な行為の始末が厄介なのであった。
清掃をするたびに奥様は「うおー」とか「わおー」とか、わめいていた。
それでも奥様には搭載されているセンサーが寸分の違いもなく働いているので、猫に餌をやるのは決まった時間で、猫が吐こうが吐くまいが、奥様はセンサーの働きどおりに正確に決まった時間に餌をやる。
それが奥様の習性なのであった。
当然のことながら、猫は餌が定時に出るので、定時に食べる。
そして体を舐める。
そして毛玉を吐く。
猫にとっては自然な活動の一環ではあるが、時系列的には不定期である。
そして奥様のセンサーにはそういう不定期の出来事に対応できるような仕組みはないわけで、猫が毛玉を吐くたびに、奥様の「うおー」と「わおー」が繰り返されるのであった。
しかし猫はあわてずに腹が減ると餌を食べる。
そして定期的に毛玉を吐く。
猫は奥様には決して理解可能な生き物ではなかった。
とにもかくにも、こうして奥様と私との生活は落ち着くはずだった。はずだったと言うのは、実際にはちっとも落ち着かなかったからである。
原因ははっきりしていた。
奥様が私の社会的活動に急に興味を持ち始めたからだ。それまでは私の仕事に関しては、一切、口を挟まなかったのに、急に私の仕事に興味を持ち始めたようである。
というのは食事の席で私の仕事の内容を尋ねて来たからである。
「あなたの仕事は何ですか」
「営業です」
「営業とは」
「製品とかサービスを売り込むことです」
「それが仕事ですか」
「そうです」
「でも、あなたは外食しませんね」
「嫌いだからです」
「そうですか」
「嫌いでも営業は出来ます」と私は言った。
その一言が大きな問題を招くとは、その時、私は考えもつかなかったのだが、軽率だったといえるだろう。つまり奥様は私の仕事に口を挟む可能性があるということに思い至らなかったのは、不注意だった。
しばらくたったある朝、私は奥様に今日は遅くなると告げた。
その一言を聞いて、奥様はすっかり不機嫌になった。
不機嫌になったということには気づいたのだが、しかし奥様がお怒りになる本当の理由が私にはわからなかった。
はっきり言って、私は社交的ではなかったので、仕事の上での外食がまったく好きではなかったのだが、付き合いの上でどうしても食事を外でしなければならないこともあるということは世間の人々にとっては常識であろう。
しかし奥様にはこの常識が通用しなかったのである。
私は確認のためにもう一度「「今日は外で食事をするから夕食の仕度はいらない」と告げた。
それに対して「なぜ。どうしたの」と私に詰問した。
奥様は明らかに超がつく不機嫌になっていた。
私に対して怒っている。
たかが外食である。
これは驚きだった。しかしながら、奥様が来てからの日常を考えてみれば、そのときが初めて私が外食の意向を伝えたときだったのである。
私は奥様のセンサーが故障しているのだろうと思った。
つまり、事態を理解していないのであろうと思った。奥様と私のセンサーは異なるのである。
「だから外食する」
「あなたは私の食事が嫌いなのですか」と奥様が怒って告げた。
「そういうことではなくて、今日は外食する必要がある。仕事上の付き合いをすべて断るわけにはいかない」と冷静に述べた。
「許しません」と奥様が怒気を含めて言った。
「許しませんですか」と私は本当に驚いて答えた。
奥様は容赦なかった。
「あなたの食事は私が作ります。ほかの人の作った食事を食べてはいけません」と奥様が宣言した。
私には事態が飲み込めなかったのはもちろんである。
あらためて状況を説明した。
「これは付き合いなので、好きで外食をするわけではない」と。
「では外出は許可します。でもほかの人の作ったものを食べないでください」と奥様は言った。
「そういうわけにはいかない」
「なぜですか」
「病気だと思われる」
「では、病気だと言って断ってください」
「そうはいかない」
結局、奥様と私は討論したが、奥様の執拗さに私は負けて「外出はするが食事はしない」と約束した。
そして約束通り、私は外食はするのであったが、つまり外で食事をするところには行ったのだが、酒を飲みこそすれ、食事はしなかった。
そして帰ってから、奥様との約束通り、奥様の作った食事を、奥様と共に食したのであった。
この事件というか、紛争を境にして、奥様はいよいよ私の仕事に興味を持った。
今まではほとんど無関心だったのに、どういうことかと思った。
「今までは私の仕事に無関心だったのに、どうして興味を持ち始めたのですか」
「あなたの将来が心配です」
「なぜ」
「あなたは将来出世しますか」と奥様が尋ねた。
「わからない」と私は答えた。
「あなたの現在の役職は何ですか」
「係長です」
「将来、あなたは課長になれますか。あなたは部長になれますか」
「旧態依然の会社なので課長にはなれるでしょう。部長はわからない」
「あなたは役員にはなれますか。あなたは社長になれますか」
「社長は代々技術畑の人がなるので、研究か開発部門にいないとむつかしいでしょう。私のような営業畑の出身では、どんなに出世しても常務止まりです」
「では常務になりまいしょう」
「そうは簡単にいかないよ」
「私が力になります」
「どうやって力になるのですか」
「内助の功です」
「内助の功って、何をしようというのだい」
「社長になれそうな人を教えてください」
「教えてどうするのだい」
「その人にお願いします」
「おい。おい。世の中はそんなわけにはいかないよ」
「なぜですか」
「出世するのは人にお願いするのではなくて、自分の実力で出世するのです」
「お願いするほうが早いと思います」と奥様は言った。
「そんなことはないよ。第一、誰もそんなことはしない」
「それならば、なお有望です。ほかの人が誰もしないのですから。お願いするのはよい方法だと思いませんか」
「思いません」
「なぜですか」
「だからそういうことはしないことになっている」
「だから出世できないのです」と奥様は言った。
「わかった。わかった。出世するように努力するよ」と私は答えた。
そしてまた事件が起こった。
私はまたしても奥様のセンサーが故障したと思ったぐらいの出来事であった。
「あなたはお金儲けが上手ですか」と奥様が私の食事中に唐突に尋ねた。
「なぜ、そのような質問を」と私は箸を持つ手を止めて、奥様に尋ねた。
「あなたは出世が苦手なようです。であれば、お金儲けの能力がないと生活が安定しません」
「お金儲けは必要がない。真面目に働くことが第一だ」と私は自分の意見を述べた。
「あなたは資本主義をご存知ですか」と奥様が尋ねた。
「知っている」
「この時代は資本主義の時代ですか」
「そうだ」
「ならば金儲けは必須です」
「おいおい。なぜ急に金儲けに興味を持ち始めたのですか」
「あなたに出世の見込みがないからです」
「人生で必要なのは出世ではないでしょう」
「では、何が必要なのですか」
「自分に満足に生きること」
「それでは豊かな生活は送れません」
「豊かでなくともよい。普通の生活が送れればよいのです」
「それは負け犬の遠吠えです」
「奥様。それは間違った考えです」
「なぜですか」
「人生には色々な選択肢があってよいのです。そのような画一的な考え方に縛られることは不幸なことです」
「同意できません」
「では奥様にお尋ねしますが、奥様はどのような生活をお望みですか」
「豊かな生活です」
「なぜ豊かな生活を望むのですか」
「好きだからです」
「それだけですか」
「それだけです。ところであなたは外国語がしゃべれますか」と私に尋ねた。
「英語ならば大丈夫です」と私は答えた。
「それを聞いて安心しました」と奥様が答えた。
「なぜですか」
「言葉が話せないと海外で困ります」と奥様が言った。
「奥様は外国語が話せますか」と私が尋ねた。
「十か国以上の言葉を話せます」と奥様は平然と答えた。
そして奥様は当然のように海外旅行のパンフレットを集め始めた。どうやら海外旅行に行きたくなったようだということは私にも理解できたので、儀礼的に、いったいどこかに旅行したいのかという趣旨で奥様にお尋ねした。
「青い海が見えるところです」と奥様が答えた。
「東京湾なんかどうでしょうか。近いので」と私は返答した。
「心配いりません。あなたは忙しいのですから、行先は私が調査します」と奥様が答えた。
そして、夕食のとき奥様が突然「ハワイはどうでしょう」と言った。
「悪くないね」と私は生返事をした。
「西海岸も悪くありません。ケアンズあたりも悪くはありません」と奥様が答えた。
「西海岸ってどこの西海岸。ケアンズはどこ」
「西海岸といえばカリフォルニアです。ケアンズは西オーストラリア。でも地球温暖化で皮膚がんになるおそれがあります」
「ヨーロッパはどうなの」
「ヨーロッパも悪くはありませんが、酸性雨で体が錆びます」と奥様が答えた。
「北極とか南極とかはエキゾチックではないでしょうか」
「北極と南極は絶対ダメです」
「なぜですか」
「私の磁気センサーが狂います」と奥様は厳粛に答えた。
「磁気センサーも搭載されているのですか」と私は尋ねた。
「最高級品の奥様ですから」と奥様は自ら答えた。
「そうですか」と私は言った。
「神前式がよろしいですか。それとも西洋式がよろしいですか」と奥様が尋ねた。
「何のこと」と私が尋ねると「食事とか、そういうこと」と奥様は答えた。
後で考えると、その際にも、私は依然として至極暢気だったので、奥様の本当の意図が不明だったままで会話していたことになる。
「食事はイタリア料理かスペイン料理がよい」と私は答えた。
「イタリア料理。スペイン料理」といって奥様はメモを取った。
「それ、何のメモ」
「何でもありません。好きな果物は」と奥様が答えた。
「いちごとぶどうです」
「いちご、ぶどう」と言いながら奥様はメモを取った。
「魚も好きだな」」
「地中海料理ですね」と言って、奥様はメモを取った。
「デザートも好きです」
「三ツ星のフレンチですね」と言って、奥様はメモを取った。
「それくらいかな」
「お土産は何がいいですか」と奥様は尋ねた
「手巻き時計ですかね」
「スイスが好き」と言って、奥様はメモを取った。
「絵画も好きです」
「ウォーホルですね」と勝手に言って、奥様がメモを取った。
私は明らかに何かが始まりつつあることを予感せざるを得なかった。
そして、ある時、奥様が突然、私に言った。
「私の両親に会っていただきたいのですが」と。
「ご両親がいるのですか」
「います」
「どちらにおられるのですか」
「両親二人とも奥様保険保障センターにいます」
「奥様保険保障センターですか」
「そうです。奥様保険に入っている奥様の老齢の両親のための保障センターです」
「奥様は奥様保険に入っているのですか」
「もちろんです。奥様ですから。それがなにか」
「いいえ。なんでもありません。奥様のご両親に会うために、私はどこに行けばよろしいのでしょうか」
「ちょっと大変なのです。というのは、両親は離婚したからです」
「奥様のご両親は離婚されたのですか」
「宗教の相違が原因です」
「奥様にも宗教があるのですか」
「私は無宗教です。でも私の両親は信仰を持っていました」
「よくわかりませんが」
「あなたには信仰がありますか」
「ありません」
「それは良かった」
「なぜですか」
「信仰がなければ両親とはうまくやっていけます。何らかの信仰があると、父か母か、どちらかとうまくいきません」
「それは良いことを聞きました」
「話が逸れました。私の両親と会っていただきます」
「ご両親に会うために、どこに会いに行けばよろしいのでしょうか」
「奥様保険保障センターです」と奥様が答えた。
というわけで私は奥様に連れられて、奥様の両親に会いに奥様保険保障センターに到着したのだが、散々待たされたうえに、ようやく招かれたところ、奥様の両親というのは故障したまま、そこに陳列されていることを知った。センサーが故障していて、話すことも聞くことも、つまり一切の会話ができないのが奥様のご両親の現在の姿であるということも。
「ここにはよく来られるのですか」と私は尋ねた。
「初めてです」と奥様が答えた。
「では今回はなぜ来られたのですか」と奥様に尋ねると、奥様は「これで儀式のために必要なすべての手続きが終了しました」とだけ答えた。
私には奥様の意図は不明だったのだが、それがわかるまでにはさして時間はかからなかった。
その日の夜の食事でいかにもさりげなく奥様が私に質問した。
「あなたには友達がいますか」
「あんまりいない」
「なぜですか」
「あんまり社交が好きではないから」
「それがあなたが出世できない理由です」
「余計なお世話だよ」と私は言い返した。
「そうではありません。出世と付き合いは正比例の関係にあります」
「どうしてそんなことがわかるの」
「本に書いてありました」
「何て本ですか」
「他人より早く出世する方法って題名の本です」
「ばかばかしい」と私は話を打ち切ろうと思った。
その時である。
「私には解決策があります」と奥様が告げたのは。
「参考までに聞いておきます。どのような方法ですか」
「家族を持つことです」
「私は持っています」
「では家族の数を増やしましょう」と奥様が提案した。
「どうやって」
「簡単です」
「だから、どうやって」
「食事が終わってからお話します」と奥様が答えた。
昼メロの存在理由とは何か。
それが年来の疑問だったのだが、その私の疑問が氷解したのは、その夜に食事が終わってから語られた、奥様の一言だった。
「結婚しましょう」と奥様が言ったのである。
「結婚ですか」と私は驚いて尋ねたのだが「結婚です。昼メロで見ました」と奥様は言った。
「昼メロというのは不倫の物語ではないでしょうか」
「不倫するためには結婚しなければなりません」と奥様は言った。
「不倫するのですか」
「結婚するのです」と奥様は答えた。
「わかりました。検討しましょう」と私は答えた。
翌日、私は早速サービスセンターに連絡した。
「はい。奥様修理センターです」
「うちの奥様の調子が悪いのですが修理をお願いできませんか」
「登録番号を教えていただけませんか」
「2302118」
「少々お待ちいただけますか」とオペレーターは答えると、キーを叩く音がして「お待たせいたしました。どのような調子ですか」と尋ねた。
「うちの奥様が結婚したいと言っています」
「おめでとうございます」
「ちょっと待て。おめでたくはないよ」
「なぜでしょうか」とオペレーターは不審な声で尋ねた。
「結婚できるわけがないでしょう」
「そうでしょうか」
「そうですよ」
「でも奥様がそうおっしゃったということは奥様に愛されているということでしょう」
「そういうことでしょうか」
「そういうことです」
「待て待て。私が言っているのは、奥様のセンサーが故障したということではないでしょうか、ということです」
「奥様のセンサーが故障している徴候がありますか」
「徴候とは」
「都合が悪くなるとご主人の言うことが聞こえなくなるとか、お金がなくなると頭が痛くなるとか、近くに美人の女性がいると急に不機嫌になるとか」
「それはいつものことだよ」と私が答えた。
「では奥様は故障ではありません」とオペレーターが力強く断言した。
「それでは私はどうすればよろしいのでしょうか」と私が尋ねた。
「お客様はどうしたいのですか」とオペレーターが尋ねた。
「結婚したくないようにさせるセンサーを取り付けてほしい」と私は答えた。
「それは社内規定で人道的見地から行わないことになっております。当社はISOも取得しておりますのでコンプライアンスが徹底しております」とオペレーターは答えた。
「わかりました」と私は答えたが、納得したわけではなかった。
会話を終えてから、しばらく考えて、私はあることを思いついたので再びサービスセンターに連絡した。
「はい。奥様修理センターです」
「ちょっとお尋ねしたいのですが」
「登録番号を教えていただけませんか」
「2302118」
「少々お待ちいただけますか」とオペレーターは答えると、キーを叩く音がして「お待た
せいたしました。どのようなお尋ねでしょうか」と尋ねた。
「奥様を交換するにはどのくらいの費用がかかりますか」
「少々お待ちいただけますか」とオペレーターは答えると、キーを叩く音がして「お客様の場合、奥様が結婚を申し立てておられますので、交換費用とは別個に慰謝料がかかります」
「おい。ちょっと待て。奥様が結婚を申し立てているというのか」
「申し立てておられます」
「いつ」
「一か月ほど前です」
「一か月も前に」
「奥様からご相談がありましたのでお客様にご相談するようにアドバイスさせていただきました」とオペレーターは答えた。
私は率直に言ってかなり混乱した。
「慰謝料ってどれくらいですか」
「裁判の判例によります」
「そういう裁判があるのですか」
「奥様を購入されたお客様に対して奥様が結婚を申し出たのですがお客様が拒絶されましたので莫大な慰謝料を請求されたという判例があります」
「その客はその莫大な慰謝料を払ったのですか」
「国民皆陪審員の時代ですから奥様への同情が集まりまして巨額の慰謝料が支払われました」
「待て。ということは私は奥様と結婚しなければならないということですか」
「お客様。結婚はそれぞれの人の意思によるものですから当社としてはお勧めするともお勧めしないとも申し上げられません。当社はISOも取得しておりますし、コンプライアンスにも力を入れております」
「ちょっと待ってください。つまり私の奥様がほんものの奥様になりたいと言った場合、私はどのように対応するべきなのか、そのようなマニュアルはありませんか」
「ありません」
「なぜ」
「お客様。失礼かもしれませんが、結婚はマニュアルどおりにするものではないと思います。したがって当社といたしましては、そのようなマニュアルはありませんし、作成の予定もありません」
「こういう場合はどうすればよいのでしょうか」
「奥様に嫌われる努力をされてはいかがでしょうか」とオペレーターは言った。
「そんなことできるわけないだろう」と私は答えた。
「なぜでしょうか」
「私は奥様に満足している」
「失礼ですが愛されておられるのですか」
「そのとおりだ」
「では結婚されてはいかがでしょうか」
「考えさせてくれ」と言って私は会話を終わらせた。
まったくとんでもない会社だ。何がISOだ。何がコンプライアンスだ。
しかし怒ってもどうしようもなかった。ここは奥様と相談するほかはないだろう。
という結論を出して、私は奥様に臨んだ。
「ちょっと重要な話があるのですが」と私は奥様に言った。
「何でしょうか」
「私と結婚したいといって会社に連絡しましたか」
「連絡しました」
「なぜ」
「結婚するにあたって第三者の意見を知りたいと思いました」
「なるほど。で、何ていわれたの」
「愛されているならば結婚に賛成です、と」
「なるほど。ほかには何か言われましたか」
「プロポーズされてはいかがでしょうか、と」
「プロポーズしろと言ったの」
「いけませんか」と奥様が尋ねた。
「ま。いや。いえ。いいえ」と私は答えたものの、私は若干混乱した。
「私はあなたといると幸せです」と奥様が述べた。
「奥様は私と結婚したいのですか」と私は尋ねた。
「はい」と奥様は答えた、そして「あなたは」と尋ねた。
「はい」と私は答えてしまった。
「では結婚しましょう」と奥様は言った。
かくて私の中では、奥様は私の奥様となることに決まったわけである。
そこで私は奥様に婚約指輪を贈る必要があるということに気づいたのであった。
結婚する以上は結婚式が必要かもしれない。
となると、親戚一同も招かねばならないだろう。
いささか面倒であることだけは間違いなかった。
そういうもろもろの手続のことを果たして奥様は理解しているのだろうか。あるいは奥様修理センターの担当官は理解しているのだろうか。話をこれ以上複雑にしないために、私は奥様に尋ねる代わりに、奥様修理センターに相談を持ち掛けることに決めた。
つまり、勢いで、奥様との結婚を決意したまでは良かったのだが、後のことは考えなかったので、そこで初めて事務手続きが必要なことに気づいたのだった。
そこで奥様修理センターに連絡した。結論を出した以上は手続きを早めに進めたかったからである。
「奥様と結婚することにしました」とオベレーターに告げた。
「登録番号を伺えますか」
「2302118」
「少々お待ちください。担当部署におつなぎいたします」とオペレーターが答えた。
ピンピコリンピンピコリンとお待ちいただく間の音楽が流れてからだいぶ時間が経過し
てから、電話口に誰かが出た。
「法務安全部です」
「法務安全部だって」
「法務安全部です」
「奥様と結婚することにしました」とだけ私は告げた。
「登録番号を伺えますか」
「2302118」
「生年月日を伺えますか」と尋ねられたので、私の生年月日を答えた。
「おめでとうございます。当社の製品と結婚されることに決められたのですね」
「御社の製品かどうか知らないが、とにかく奥様と結婚することに決めた」
「おめでとうございます。それでは所有権の移行についての契約書にご署名をお願いいたします」
「所有権の移行って何」
「ですから当社の製品ですので所有権を移していただきませんと結婚は成立しません」
「だって私の奥様だよ」
「お客様。登録番号2302118は現在当社に登録されている製品です。したがって所有権は当社にございます。お客様が当社の製品と結婚されることをお決めるになられたことは光栄でございます。しかし当社といたしましては、所有権の移行に関する契約にご署名いただけなければ、奥様を回収させていただきます」
「何だって。君は人の奥様を勝手に略奪するのか」
「お客様。たいへん失礼かもしれませんが、奥様の現在の所有権は私どもにございます。従いまして当社の同意なしにはお客様は奥様と結婚することはできません」
「おたくの会社は結婚紹介業か」
「当社は結婚紹介業の資格も取っており、また人材派遣業の資格も取っております。つまり完全に合法的なビジネスをやらせていただいている社会的に認められている企業でございます。当社はISOも取得しておりますし、コンプライアンスにも最も力を入れております」
「わかった。わかった。で、どうすればいい」
「当社に来ていただきまして、契約書類にご署名をお願いいたします」
「わかった。いつ、どこに行けばよい」
「明日の午前十時に本社の法務安全部をお尋ねください。なお、放射能汚染防止特別対策費用として百万円を現金にて当日徴収させていただきますので、ご持参をお願いします」
「なぜ」
「奥様は原子力で稼働しているのですから、放射能汚染防止特別対策が必要となります。当社にて、ご結婚に際して義務化させていただいているお手続きでございます。放射能汚染防止特別対策費用百万円をご持参いただけない場合は、当社といたしましても、奥様の引渡しには同意できません」
「よし。金は持って行く」
「ご理解をいただき誠にありがとうございます。それでは明日十時のご来訪をお待ち申し上げております」
翌朝、午前十時に私は奥様修理センターの法務安全部に出向いた。応対したのは、いかにも真面目そうな、これといって特徴のない男だった。印象にない、というのだろうか、ちょっと見ただけでは、人間かどうかもわからない。
「ようこそいらっしゃいました」とやたらと愛想が良かった。
要するに私は彼らのATMということなのであろう。しかし私は奥様との結婚を決意していたので、いまさら後には引けなかった。もっとも私のこういう感情自体が彼らの計画の範囲であったのかもしれない。
私としては百万円の放射能汚染防止特別対策費用を現金で支払って所有権が移行すれば、それで奥様は晴れて私の奥様になる。それで終わりのつもりだった。
しかし法務安全部の準備した書類では、なぜか、奥様の耐用年数は最長で十年ということであり、その時点で現在の奥様は廃棄処分となり、私が新たな奥様を購入することが条件となっていた。私は奥様を交換するような非人道的な行為には組しないと宣言した。その結果、法務安全部は渋々ながら、奥様の廃棄処分は撤回して、耐用年数の十年に達した時点で、私との間で再度契約の見直しをするということで合意した。さらに、結婚に際して、財産分割契約書への署名が必要と伝えられた。
話し合いの結果、私はすべてに同意する意思を伝えた。
まったく奥様を貰うということは手間のかかることである。
さらに問題があった。
「奥様と結婚されると、離婚することは不可能になります。つまり離婚しないことが、お客様と奥様との結婚の絶対必要条件となります」と宣告された。
「どういうことですか」と尋ねた。
「離婚すると、奥様の原子炉は臨界点を越え、自動的に核爆発を起こします。つまり地球上に放射能汚染を招きます」と伝えられた。
「そんなの聞いたことがないぞ」
「いま、ご説明申し上げています」
「なぜ、そのようなことが起こるのか」
「離婚防止のためです」
「それは理由になっていないと思う」
「では、こう申し上げましょう。当社の規則です。規則を遵守していただかないと、奥様とはご結婚できません」
「では聞くが、御社の製品と結婚したいという顧客はどれくらい過去にいたのか」
「それは企業機密でございます」
「納得できないな」
「お客様はほんとうに奥様との結婚を望んでおられるのですか」
「そうだ」
「そうであれば、このような困難が存在するのは、結婚というものには付き物なのではないでしょうか。お客様は、数々の障害を越えても、奥様と結婚する価値があるとお考えになったから、奥様とのご結婚を決意されたのではないでしょうか。それとも、まさか、結婚する前から、離婚することをお考えになられているのですか」
「離婚するつもりはない」
「離婚するつもりさえなければ、そして実際に離婚さえしなければ、何の問題もございません。但し、離婚すると、その時点で奥様は核爆発を起こし、地球上に放射能汚染が蔓延します。よく考えて、最終のご返事をいただきたいと思います」
「よし。すべての条件を理解した。私は奥様と結婚する」
「ありがとうございます。すべての条件をご了解いただきましたので、これで、お客様と奥様とは晴れてご夫婦となられました。心よりご祝福を申し上げます。末永いお幸せをお祈り申し上げております。地球の安全のためにも」
こうして私たち、妻と私とは晴れて夫婦となったわけである。