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奥様  作者: 江崎シシャモ
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奥様、第一回

 目覚ましを六時に掛けたのに、八時になっても九時になっても奥様は起きて来なかった。

奥様が故障しているかもしれないと思われた端緒だった。もちろん病気ということも考えられた。そこで私はサービスセンターに連絡したのだった。

「はい。奥様修理センターです」

「うちの奥様の調子が悪いのですが修理をお願いできませんか」

「登録番号を教えていただけませんか」

「2302118」

「少々お待ちいただけますか」とオペレーターは答えると、キーを叩く音がして「お待たせいたしました。どのような調子ですか」と尋ねた。

「目覚ましを六時に掛けたのに、反応しないのです。つまり起きない。今までにはなかったことです。故障ではないでしょうか」

「音感センサーの故障です。出張修理に伺いますので、奥様には手を触れないようにお願いします」

「どのくらいで来てもらえますか」

「技術員に連絡しますので、お時間が決まったらご連絡いたします」

「今日中に来てもらえますか」

「午後には伺います」とオペレーターは答えた。

 

 そもそも私が奥様を購入したのにはわけがある。うちには猫がいる。その猫の世話のためには奥様が必要だった。仕事で家をあけがちな私には、朝晩の猫の食事の世話や、猫トイレの清掃や、運動不足になりがちな猫の健康の維持のために、ぜひとも奥様が必要だった。

 私が事情を話して奥様の購入を申し出ると、販売員は「生き物の相手をする奥様のセンサーには最高級品が必要なので奥様も最高級品になります」と言って、登録番号2302118を勧めたのだった。

 私が契約書に署名して、その奥様を購入してから一か月になる。この一か月の間、奥様は順調だった。私は実際、それまでは購入した奥様のパフォーマンスに十分満足していた。それが突然の故障である。正直のところ、私は奥様に限りない愛着を持ち始めたところだったので、その日は期待と失望とが入り混じった感情で修理の技術員を待った。

 もっとも奥様と猫の関係は考えてみれば微妙であった。猫は朝になるとベッドに来て私を起こそうとするのだが、不思議と猫は奥様を起こそうとはしないのだった。観察してみると、猫に餌を与えるのは奥様なのだが、猫は奥様には決してなつかない。猫のトイレの世話をするのも奥様なのだが、猫は奥様に感謝しない。猫には奥様の正体がわかっているのだろうか。

 

「音感センサーの故障です」と技術員は無愛想に答えた。

「直りますか」と私。

「音感センサーを交換します」

「初期不良ですか」と私は尋ねたのだが、技術員は「機械ですから故障はつきものです」と答えた。

 修理には時間はかからなかったが、技術員は「音感センサーを交換して、ベルトも磨耗していたので交換しました」と答えた。

「ベルト。どこのベルトですか」

「首を動かすベルトです」と技術員は答えた。

 修理報告書に署名すると、技術員は帰って、あとに残されたのは私と奥様だった。

 私は奥様が本調子に戻ったのかどうか、試してみた。

「奥様」と呼びかける。

「はい」と答える

「調子はいかがですか」

「順調です」と奥様は答えた。

「明日は何時に起きますか」

「六時に起きます。起きてから、鯵の干物を焼いて、大根の味噌汁を作ります」と奥様は答えた。

「ご飯は炊かなくてよいのですか」と尋ねると「ご飯は六時にタイマーがかかって炊き上がります」と答えた。

 奥様はどうやら調子を取り戻したようで、私はほっとした。

 事実、翌朝、私を起こしたのは奥様だった。

「食事が出来ています」と奥様が言った。

顔を洗って、手を洗って、食卓に着くと、ご飯と鯵の干物と大根の味噌汁が並んでいた。

どうやら奥様の故障は直って、私は普段の生活を取り戻したようだった。


 こうして私は奥様との日常を無事に取り戻したのだが、その時は未だ奥様というもののデリケートさに私は本当の理解を深めていたわけではなかった。

 というのは、それから数日を経た、ある小雨の日の朝に、私は奥様と散歩に出たのだ。すがすがしい朝でもあり、雨に洗われた新鮮な朝の空気を吸いたかったのである。つまり、気分転換だった。しかも散歩とは言っても、せいぜい三十分ほどの外出である。雨も強くはない。とこういう言い訳をごたごたと並べている理由は、この外出の結果、奥様は再び不調を訴えたのであるからである。

 私は再びサービスセンターに電話したのだった。

「はい。奥様修理センターです」

「うちの奥様が不調を訴えているのですが修理をお願いできませんか」

「登録番号を教えていただけませんか」

「2302118」

「少々お待ちいただけますか」とオペレーターは答えると、キーを叩く音がして「お待たせいたしました。どのような調子ですか」と尋ねた。

「いっしょに出掛けて、外出から戻ったところで、奥様が不調を訴えています」

「どちらに外出されましたか」

「近所です」

「屋内ですか?屋外ですか?」

「屋外です」

「天気は」

「小雨でした」と私は答えた。

「少々お待ちください」とオペレーターが答えて、キーボードが叩かれる音がして、しばらくしてから「お客様の奥様は撥水加工がされていません」と返事があった。

「撥水加工ですか」と私は驚いて思わず問い返した。

「撥水加工なしの雨の日の外出は故障の原因となります。撥水加工されますか」

「お願いします」

「染み抜きは」

「染み抜きって何ですか?」

「雨の日の外出で染みが付いています」

「それもお願いします」

「撥水加工に染み抜きですから、仕上げには三日ほどかかります。代替機器の貸し出しはできません。よろしいですか」

「お願いします」

「それでは回収修理にお伺いします」とオペレーターは答えた。

 技術員が来て、こうして奥様は回収された。


 三日後、戻って来た奥様の顔色は良かった。

 撥水加工を施され、染み抜きまでされたことによって、その輝きはまばゆいばかりだった。

「触ってみてよいですか」と私は奥様に尋ねた。

「ダメです」

「では、ちょっと水をかけてみてよいですか」と私は奥様に尋ねた。

「ダメです」というのが奥様のご返事だった。

 染み抜きで取り戻した美しさはともかくとして、何よりも肝心だった撥水加工の効果はてきめんだった。

 その結果、彼女は水仕事を一切いとわなくなったのである。つまり今までは私は明らかな観察不足だったのである。

 炊事洗濯後片付けと、すべては水仕事だったのである。それに浴室の掃除、手洗いの掃除を加えれば、彼女の仕事は水仕事だったのである。つまり、今までは撥水加工を施されていなかったのだから、水仕事を毎日行っていたのだから、雨の日の散歩がなくとも、いずれ故障するだろうことは時間の問題だったということである。

 結論。雨の日の散歩で故障したのではなく、日常活動の結果、故障したというわけであった。


 私はいささか喜びすぎたのだろう。あるいは、調子に乗りすぎたのかも知れない。

 撥水加工を施された奥様は、水仕事に邁進して、日常活動は多忙を極めた。さらに私は多忙を極めた奥様を伴って、買い物に出た。

 それまであまり外出することのなかった奥様は、この外出でいささか調子に乗りすぎたのである。

 つまり、慣れない靴を履いたまま、いささか歩きすぎたのである。

 その日の夜、私は奥様の異変に気づいた。

「足が痛い」と奥様が言った。

「足のどこが痛いのですか」

「足の裏が痛い」というので、私は奥様のまず右足の裏を、それから左足の裏を見た。見ただけではわからないので、私は奥様の右と左の足指を順番に揉んだ。

右足の薬指で奥様は「痛い」と言った。左足の薬指でも奥様は「痛い」と言った。

 奥様は故障のようだった。結局、私はこの夜、奥様の足裏マッサージをすると、奥様はすやすやと眠ってしまった。奥様はお疲れだったのである。撥水加工を施されて戻ってから、奥様は一日の休みもなく働きっぱなしだったのである。私はそのことに思いが至った。

そして、翌日になってから、私はサービスセンターに連絡した。

「はい。奥様修理センターです」

「奥様を購入したものですが、ちょっとお尋ねしたいことがあるのですが」

「登録番号をお願いします」

「2302118」

「いかがされましたか」

「購入したときに聞いておくべきでしたが、奥様はどのくらいの休憩を取らせればよいのでしょうか」

「取り扱い説明書にあるとおり一時間働いたら十五分の休みが必要となります」

「それは承知していますが、お尋ねしたいのは、毎週、週休一日とか二日とか必要なのかということです」

「一日の睡眠時間が十二時間以上ならば、週休は必要ありません」

「一日十二時間も睡眠が必要なのですか」

「当社の耐久試験では、一日十二時間睡眠時間があれば保証期間は三年です」

 私は頭の中で睡眠時間を計算したのだが、奥様の睡眠時間は平均六時間程度である。

「睡眠時間が六時間だとするといかがでしょうか」

「取り扱い説明書では最低八時間の睡眠時間がないと保証の対象にはなりません」

「睡眠時間八時間ですか」

「睡眠時間八時間で毎週二日休みが必要となります」

「睡眠時間六時間だとどうなりますか」

「保証の対象外となります」

「ちょっとわからないので、もうちょっと詳しく数字を示して説明してもらえませんか」

「では、申し上げます。一日の睡眠時間が十二時間だとすると、週労働時間が十二時間かける七日間で八十四時間となります。これが限界値です。つまり奥様は週八十四時間以上働くと故障の原因となります。仮に、一日の睡眠時間が八時間とすると一日の労働時間が十六時間になりますので、五日間で労働時間が八十時間ですから、最低二日間休ませないと故障の原因になります」

 オペレーターの説明を聞いて私は考えた。

 ここのところ奥様の毎日の睡眠時間は平均六時間だったので、当然のことながら、それが故障の原因だということである。単純計算で一日の睡眠時間が十時間だとすると一日の労働時間が十四時間なので六日間で八十四時間なので、それでも週休一日は必要である。つまり、奥様に毎日働いてもらうためには、毎日十二時間の睡眠時間が必要となるわけである。これは私の生活パターンから言って無理である。頭の中で素早く計算してみると、奥様が夜の十時に眠りについて、翌朝の六時に起きて、週労働時間が百十二時間になる。これが世の中の奥様の平均労働時間であろうと推測した。

「よくわかりました。ありがとう」と私はオペレーターに告げたのだが、残念ながら、奥様の労働時間を軽減するわけにはいかなかった。

 なぜならば私が奥様を購入したのには明確な目的があったからである。

 猫である。

 猫は毎日、生きている。

 ということは、奥様にも毎日働いてもらわなければならないわけである。

 しかも猫は夜行性だ。

 昼は寝ていて、夜は起きている。

 つまり、奥様とは正反対の生活を送っているのである。

 私はこの矛盾を解決せねばならない。

 

 奥様の取り扱い説明書の注意事項にはこうある。

1.高温および多湿の場所に放棄しないこと。

2.熱器具に近づけすぎないこと。

3.濡れた手で触らないこと。

4.不安定な場所で使用しないこと。

5.乳幼児の手の届かないところに置くこと。


 ペットの世話はするなとは書いていないのであるから、現在の使用方法に問題はないはずであるが、しかし奥様に対しては非常にデリケートな取り扱いが必要だということに変わりはない。

 ペットの世話は大丈夫だと言われた。

 しかし私の奥様が私の想像以上にデリケードだということは、既に立証済みである。

 この奥様をもうちょっと丈夫にできないものだろうかと思うのだが、最高級のセンサーがあちらこちらに装備されているのでこうなるのであろう。センサーとしては、音感センサー、赤外線センサー、明かりセンサー、反射センサー、臭いセンサー、痛みセンサーと、多様なセンサーが備わっているうえに、それに対応したプログラムがチップ化されているのであるから、取り扱いには細心の注意が必要なのも無理はない。

 おまけに染み抜きに撥水加工まで施した。

 アフターサービスの保証期間は三年であるから、三年後にはすべてのセンサーを新品に交換せねばならないということなのかもしれない。

 染み抜きや撥水加工だって定期的に更新することが必要だろう。


 私は奥様を長持ちさせる方法はないものかと考えた。

 再び私はサービスセンターに電話した。

「はい。奥様修理センターです」

「うちの奥様についてお尋ねしたいことがあります」

「登録番号をお願いします」

「2302118」

「いかがされましたか」

「うちの奥様の日常的な手入れのことなのですが、長持ちさせる方法というのはありますか」

「取り扱い説明書の注意事項をお守りになることです」

「それ以外に何かコツみたいなものはありますか」

「やさしい言葉をかけることです」

「やさしい言葉ですか」と私は驚いて尋ねた。

「奥様ですから」とオペレーターは答えた。

「ほかには何かありますか」

「スキンシップが必要です」

「スキンシップですか」と私はさらに驚いて尋ねた。

「奥様ですから」とオペレーターは答えた。

「ほかに何かありますか」

「贈り物も絶大な効果があります」

「贈り物ですか」と私はあきれて尋ねた。

「奥様ですから」とオペレーターは平然と答えた。

「ありがとうございました」と言って私は電話を切った。

 これでは奥様を持っている意味がないのではないか。そういう手間のかかる奥様が面倒なので私は今の奥様にしたのに、今の奥様は普通の奥様のように手間がかかるのである、あるいは普通の奥様以上に手間がかかるかもしれない。

 

 しかし私の思いは杞憂だった。

 実労働時間の長さにもかかわらず、それからの奥様は極めて順調だったのであるから。

 奥様は喜々として水仕事に励み、奥様は喜々として部屋の掃除に励んだ。

 そして、事件が起こった。

 家に帰ると、奥様が猫と睨み合っていた。

 猫の尻尾の毛が膨れていた。怒っている証拠である。

 奥様の髪の毛も逆立っていた。怒っている証拠である。

「おいおい」と私は声を掛けた。

「うぉー」と猫が呻いた。

「わぉー」と奥様が呻いた。

 そして三分ほど睨み合っていたが、やがて猫が威嚇を止めて、尻尾を撒いて後ろを見せた。

 その瞬間だった。

 奥様がパンチを浴びせ、飼い猫が「きゃん」と言って逃げて行った。

 奥様の勝利だった。

 私は目撃したわけではなかったのであるが、実は奥様と猫の闘争はそれからもしばらくは続いたようである。

 家に帰ると、奥様が猫を追いかけまわしていることが、二度、三度とあったからである。

「いかがされましたか?」と私は尋ねた。

「猫と遊んでします」と奥様は答えた。

「争っているように見えるのですが?」

「遊んでいます」

「本当ですか?」

「彼女はいたずら好きなので」と奥様が猫を彼女と呼んだ。

「そうですか」

「ご心配なく」と奥様が言った。

 事実、私の心配は杞憂だったようである。

 猫と奥様の間には何らかの秘密協定が結ばれたようである。

 猫が傷つくこともなく、奥様が傷つくこともなかったのであるから、すべては丸く収まったようである。

 というのは、私が帰宅すると、猫が奥様の肩に乗って、仁王立ちする風景に何度か出くわしたからである。どうやら私の猫は私の奥様になついたようだ。要するに、猫は自分に餌をくれる主体が、私ではなく私の奥様であるという現実を黙って受け入れることに決定した。


 さて、奥様が毎日家に閉じこもって外出しないことは気がかりだった。誰にでも気分転換は必要だった。毎日家事をこなして、外出といえば食事の買い出しだけというのでは息が詰まるだろう。

 そこで私はいつも相談しているサービスセンターに連絡した。

「はい。奥様修理センターです」

「ちょっとご相談したいことがあるのですが」

「登録番号をお願いします」

「2302118」

「いかがされましたか」

「気分転換のために、うちの奥様を連れ出したいのですが」

「何か具体的なお考えはありますか」

「ご相談なのですが、クラシック音楽なんかどうかと思いまして」と私は相談を持ち掛けた。

「お勧めしません」と即答が返って来た。

「なぜでしょうか」

「奥様には超絶的な音感センサーが搭載されています。ほんのわずかなリズムのずれ、ピッチの違いなどたちまち聞き分けます。人間の演奏では奥様の精巧な音感センサーを満足させることは不可能だと思います」

「そうですか。では、美術鑑賞はどうでしょうか。たとえば、印象派の絵画展とか」

「お勧めしません」

「なぜですか」

「奥様には超絶的な色彩センサーが搭載されています。ちょっとした色感覚のずれ、明暗のコントラストなどに敏感に反応しますので、奥様の色彩センサーを満足させることは不可能です」

「そうですか」

「もっともウォーホルだけは例外ですが」とオペレーターが付け加えた。

「なぜですか」

「彼は当社の製品です」とオペレーターが言った。

「えっ。そうだったのですか」

「企業秘密ですので口外されないようにお願いします」とオペレーターが告げた。

「わかりました。では、スポーツなんかどうでしょうか」

「具体的には」

「野球とかサッカーとか」

「チームスポーツはダメです」

「なぜですか」

「奥様には戦略探索センサーと作戦分析センサーが搭載されています。チームスポーツには戦略と作戦が必要ですが、奥様にはすべてがお見通しなので試合を観戦しても楽しめないでしょう。ところで、お客様のご自宅には金庫がございますか」とオペレーターが尋ねた。

「金庫はないけれど」

「それはよかった」

「なぜですか」

「奥様には超高速の暗号解読センサーが搭載されています。市販されているすべての一般向けの金庫は三十秒以内に解読出来ることが当社の実験で確認されています。金庫は役に立ちません」

「それは知らなかった。しかし、いろいろ尋ねたけど、奥様向きの気分転換でお勧めはないということですか」

「最適な場所があります」

「どこですか」

「縁結びの神社仏閣です」

「なぜですか」

「奥様は縁結びがお好きと決まっています」

「そうですか。それは参考になりました。どうもありがとうございました」と私はお礼を述べた。

「お役に立てて幸いです。いつでもご遠慮なくご連絡をお願いします」とオペレーターが

答えた。

 

 そこで、オペレーターの意見を参考にはしたのだが、私は縁結びよりは厄除けに興味があったので、ある日、奥様を連れて、厄除け祖師で有名なお寺に出掛けた。縁結びにはご利益がなく、厄除、家内安全、商売繁盛といったところがご利益のお寺であったのだが、実は私は仕事のことでちょっと考え事をしていて、不注意にも、ご利益をひたすら願って、何の考えもなしに、鐘つき堂の鐘を思い切り撞いた。

 ゴーンと境内に音が響いた。

 私自身は鐘の音の響きに新たな気持ちになったのであったが、それは大失敗だった。

 私の不注意だった。

 奥様の敏感な音感センサーのことをすっかり忘れていたのである。

 その直後から奥様は偏頭痛を訴えた。帰宅の間中、奥様は偏頭痛を訴えた。どうやらまた音感センサーが故障したらしい。

 一大事である。

 偏頭痛を訴える奥様を慰めてから、悔悟の念をもって私は再びサービスセンターに連絡した。

「はい。奥様修理センターです」

「うちの奥様が故障したようなのですが」

「登録番号をお願いします」

「2302118」

「いかがされましたか」

「私が鳴らした鐘撞き堂の鐘の音で奥様の音感センサーが故障したようです」と詳細は述べずに、事実だけを告げた。

「間違いなく音感センサーの故障です。これで二度目ですね」

「すみません」

「技術員がお休みなので修理は三日後になります」とオペレーターは冷酷に告げた。

「それでは遅すぎます」

「技術員も休ませませんと故障します」とオペレーターが告げた。

「なぜですか?」

「技術員と奥様は同じ型で出来ています。働きすぎは故障の原因となります。適宜休憩を取らせる必要があります。これは当社の規定ですから変更はできません」

「選択の余地はありませんか」

「ありません」とオペレーターが告げた。

「仕方がない。三日後でけっこうですから、出張修理をお願いします」と私は憮然として答えた。

 そして、三日間の間中、奥様は偏頭痛を訴え続けた。

 脳腫瘍ではないかと疑ったのだが、奥様が脳腫瘍になるわけはなかったという事実に私は気づいた。つまり、奥様は人間がかかるような病気になることはない。しかし、その奥様の愁訴は哀歓を極めた。人が苦しむ場合は救いようがあるのかもしれないが、奥様が苦しむ限り、悔悟の念も加わって、私には奥様を慰めることだけしか出来なかった。

 しかし、いかなる慰めの言葉も奥様の偏頭痛を治すことはなかった。

 これが人生の現実である。

 

 三日後、ようやく技術員が来て、音感センサーを交換してくれたときには、私は安堵した。猫を飼うことには気苦労はないが、奥様と暮らすことには気苦労がつきまとうものである。しかしこれだけ連続して故障するということは、この奥様は欠陥商品ではないかという疑問も浮かぶ。

「これだけ故障するのは欠陥商品ではないでしょうか」と私は出張修理に来た技術員に尋ねた。

「センサーが最高級品ですからデリケートにできています。つまり最高級品の奥様です。その奥様が故障するということはお客様の取り扱いに問題があるということになります。もうすこし奥様のことを考えて行動していただかないと、いかにお客様とはいえ、いずれ奥様に愛想を尽かされます」と技術員は述べた。

 技術員の分際で私に意見をする気かとも思ったが、言われてみればもっともである。

 私の奥様の使い方はいささか乱暴であったかもしれなかったと反省して「気をつけます」と技術員に詫びた。

「お詫びしていただくことはないのですが、丁寧にお使いいただきませんと故障の原因になります」と技術員は告げた。

 私はそこで考えたのだが、他の奥様はどうなっているのだろうか。

 そう考えると技術員に尋ねずにはいられなかった。

「他の方々は奥様をどのように扱っておられるのですか。丁寧にお使いくださいと言われても具体的な方法がないとわかりません」と。

「奥様の反応は人それぞれです。デリケートな奥様ですから。皆さん共通して気をつけておられることは、お部屋をきれいに清掃していることです」と技術員は指摘した。

「誰が清掃しているのですか」

「どこの家でも部屋の清掃は購入者の方が実施しています」

 そう言われて私はどきっとした。なぜならば私は部屋の清掃は奥様にまかせていたからである。

「部屋の清掃は自分でやらなければいけないのでしょうか」

「当然です。奥様はたいへんデリケートに出来ていますから。ことに、ほこりとちりは禁物です。部屋の清掃はお客様がこまめにされることをお勧めします」

「わかりました。部屋の清掃は私がします」と答えた。

「それは助かるわ」と奥様が言った。

 それを聞いて「故障が直ったのか」と私は思わず口に出たのだが、技術員は「故障が直ってよかったです」と言うと、ここを潮時と思ったのか「お客様。今後は奥様をくれぐれも丁重に扱ってください」と言って帰った。

 購入後一年間は無料保証期間中であったから、出張費用も含めて修理費は無料だった。

 私は奥様が最高級品であることを自覚した。奥様に部屋の清掃をさせるのは間違いで、部屋の清掃は私の仕事となった。

 

 故障の頻発にもかかわらず奥様は役に立った。なぜならば奥様は料理が得意だったからである。どういう仕組みになっているのか、奥様の味覚センサーは敏感に出来ているようで、甘味、塩味、苦味、酸味を含め、あらゆるセンサーが微妙に調和を保っている感じで、何ともいえない料理の味を作ることができた。

 奥様の得意料理は和食であり洋食だった。

「中華は作らないのですか」と奥様に尋ねたのだが「中華は具合が悪い」と奥様は述べた。

「何か理由があるのでしょうか」と尋ねると「火力が強すぎる料理ばかりです」と奥様は答えた。

 中華料理は熱センサーの故障の原因になるようであった。

 奥様は庶民的な料理が得意で、カレーとかスパゲッティとか肉ジャガとかが定番であった。この世の中には奥様向きの料理と奥様向きでない料理があるということであろう。

 ついでに奥様の名誉のために付け加えておくと、ほかにも奥様の仕事はいろいろとあった。ゴミ出し、買出し、整理整頓、来客の応対、そして猫の世話。奥様というのは実に大変な仕事を毎日しているものだと、私は奥様が来てから毎日頭が下がる思いであった。

 

 そして大きなショックに私は直面することになったのであった。

 つまり、帰宅すると、奥様が動かなくなっていた。

 突然死である。

 私の感情は当惑だった。まさかまさかである。しかし奥様は動かない。緊急事態であるということは理解できたので、私は奥様を揺さぶったり、撫でたりしたのだが、変化はなかった。つまり、まったく動かない。私はあきらめて奥様を横にして、どうしようかと考えた。

 しかし、考えていても何も始まらないことは明らかである。

 結局、私はサービスセンターに連絡したのだった。

「はい。奥様修理センターです」

「うちの奥様がまったく動かなくなったのですが修理をお願いできませんか」

「登録番号を教えていただけませんか」

「2302118」

「少々お待ちいただけますか」とオペレーターは答えると、キーを叩く音がして「お待たせいたしました。どのような調子ですか」と尋ねた。

「帰宅すると奥様がまったく動かなくなっていました。とにかく普通の状態でないと思い

ます。至急修理をお願いします」

「まったく動きませんか」

「まったく動きません。風邪か何かでしょうか」

「原子力エンジンの故障です。奥様には手を触れないようにお願いします。特別回収班がお伺いします」

「いま何て言いました?」

「原子力エンジンの故障ですから、放射能汚染の危険がありますので、奥様には手を触れないようにお願いします」

「放射能汚染って何ですか?私は奥様に既に触れています」

「では、あなた様にも特別洗浄が必要となりますので、あなた様も回収する必要があります」

「ちょっと待ってください。うちの奥様は原子力で動いていたのですか?」

「あなた様もご存じのように、現在、おたく様の奥様は原子力エンジンが故障して、まったく動いていません。ウランの補給が必要です。さらに点検も」

「ちょっと待ってください。うちの奥様は原子力で動いていたのですか?」

「当然です。奥様ですから」

「私は聞いていない」

「それはそうでしょう。話していませんから」

「ちょっと待って。つまり、うちの奥様は原子力で動いていて、それを私は説明されていないということですか?」

「いまご説明しました」

「以前に説明されましたか?」

「いいえ」

「なぜ」

「尋ねられませんでしたから」

「ちょっと待って。原子力で動いているということは危険だということですか」

「いいえ。安全です」

「危険はないの」

「ありません」

「だって今、危険だって言ったでしょ」

「故障して放射能漏れの可能性があるので点検の必要があると言っているのです。それにウランの補充も」

「危険ではないのですか」

「取り扱いさえ間違わなければ、奥様は安全です」

「なぜ」

「奥様を動かしているのは原子力ですから。なんと言っても、原子力は地球にやさしいですから」

「僕はいまショックを受けているのですが」

「なぜですか」

「だって奥様が原子力で動いていると聞かされているのですよ」

「問題ありません。修理すれば直ります。直れば安全です。取り扱いさえ間違わなければ」

「また故障したら」

「また修理します」

「それって安全ってことですか」

「安全です。修理の方法は知っていますから。ご不満ならば奥様を放棄されますか」

「わかった。で、その特別回収班は、どのくらいで来てもらえますか」

「技術員に連絡しますので、お時間が決まったら直ちにご連絡いたします」

「今日中に来てもらえますか」

「三時間以内には回収に伺います」とオペレーターは答えた。

「私はどうすればいいのですか」

「あなた様も回収させていただきます」

「わかりました」と私は返事をした。

「では、間違いなく回収に伺いますので、奥様にはもう手を触れないで下さい」とオペレ

ーターは答えた。

「待っているよ」と私には答えるのが精一杯だった。

 実際のところ、直ぐにまた連絡があって、奥様と私は一時間以内に回収されることが告げられた。


 技術員は除染服を着て到着した。議論の余地ももなく、危険だというので、奥様と私は奥様除染センターに運ばれて行った。

「ここはどこですか」と私は尋ねた。

「奥様除染センターです」

「何の目的で建てられた建物ですか」

「奥様を除染するための建物です」

「奥様は放射能で汚染されているのですか」

「それはチェックしないとわかりません」

「私は放射能で汚染されているのですか」

「それもチェックしないとわかりません」

 こういう短いやり取りののち、安全点検が実施されて、そして最終チェックの結果、奥様も私も放射能には汚染されていないことが判明した。とりあえずは安心である。しかし奥様の故障が直っているわけではなかった。というわけで、奥様は奥様除染センターで濃縮ウランを補給されて、再活動するための一週間のドッグ入りが必要となったわけであった。

 その際に私は技術員に確認した。

「奥様には原子力のほかに何か特別な機能というか特徴はありませんか」と尋ねた。

「たとえば」と技術員が尋ねた。

「ストーカー防止のための毒ガスとかドメスティックバイオレンスに対抗するための自爆装置とか」

「ご安心ください。奥様にはいかなる化学兵器も搭載されていません。またお客様に危害を加えるようないかなる攻撃兵器も搭載されていません。奥様は安全な奥様です」と技術員は丁寧に回答した。

 私はすっかり安心して、奥様の修理を奥様除染センターの技術員に委ねた。

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