最終話―ありがとう―
峠を下りきった先には、どこまでも海岸線が伸びていた。
夜の闇は濃く、水平線は遠くに霞む。
アクセル全開。狂気的な馬力を発生する隼のエンジンは、なんら息つくこともなく、木下と増山の体、そして強化装甲服の重量を軽々と加速させていく。
突然、木下はフルブレーキを敢行した。衝撃で増山の巨体が前方へ吹き飛ぶ。
「! でっ!……大河!? 何しやがる!」
時速200キロオーバーからの急制動は、増山を20メートル程転がした。
生身の人間ならば、ただでは済まないだろう。
「増山さん。そのスーツの力があれば、ウサイン・ボルトより遥かに速く走れるはずだから」
「はぁっ? お前、何言ってんだ?」
轢かれた蛙のように無様な体勢の増山は、木下の言葉に、首を上げながら困惑した。
数秒の沈黙の後、木下は手首を反すと、その場で隼を180°アクセルターンさせ、元来た道へ車体の鼻っ面を向ける。
「増山さん、一緒に戦ってくれてほんとにありがとう。増山さんのコマネチ、カッコ良かったよ」
「大河……お前」
うつ伏せの体勢から、増山は起き上がろうとした。
「一分一秒でもいい。出来るだけ遠くへ、逃げて」
場違いな程に、木下の声は優しい。
丸みを帯びた、どこか懐古的な形状をした隼のリヤカウルが増山の視界に入った。そこに灯る赤いストップランプがぼんやりと暗闇を照らし出す。その頼りない光を背に、木下は片手を上げ、人差し指と中指を左右に軽く振ってみせた。
そこら辺の男が一連の動作を真似ようものなら、失笑か罵声を浴びるに違い無かったが、不思議とこの青年には違和感がない。
「おいっ!」
増山の呼び掛けには反応せず、黙した木下は前傾姿勢になると、一気にアクセルを全開にした。
リヤタイヤが盛大に白煙を上げ、チタンマフラーから耳をつんざく排気音が放たれる。
猛然と駆け出す隼。
「大河ぁ!!」
増山の声は掻き消され、数秒と経たず、木下の姿は小さくなっていった。
連なっていた山々は、完全にその姿を消した。
正確には、イーサンの姿をしたナノマシンに飲み込まれた。
代わりに現れたのは、途方もなく巨大な少年。真っ白な体が夜空を縦に裂き、聳え立つ。
その遥か足元目掛け、木下の駆る隼は矢のように疾走していく。スピードメーターの指針は、300キロの辺りでモゾモゾと震えていた。
イーサンの巨大な右脚が視界に飛び込む。
ついさっき下ってきたはずの山は完全に消え去っていた。ナノマシンが波のように全てを覆いながら侵食し、次々と自らの分身を作り出していく。
両手でハンドルを保持したまま、ステップから両足を跳ね上げると、膝を折りながら股がっていたシートに片膝をつく。
「うおぉっ!」
そして、吠えた。
両足に全ての力と集中力を注ぎ、蹴り出す。
強化装甲服が木下の筋力に感応し、爆発的な力を発揮させた。
走行中の隼は押し潰され、一瞬でその形を崩し、鉄の塊と化した。
「ガッペムカつく!!」
瞬く間に百メートル程上空に到達した木下は、和泉守兼定を抜き放ち、刀身へ電磁装甲を発動させる。
眼下には、衝撃で爆発した隼が火の粉を散らす。
勢いはそのままに、木下は刀を振り上げ、竹トンボのように回転を始めた。
それはまるで彗星と見紛う姿となり、巨大化していくイーサン目掛け、夜空を焦がしながら突き進む。
『はぁっ!!』
増山のヘルメット、そして三国と小見がいる研究所のモニターに、木下の気合いが響いた。
「木下君……」
三国は木下の視点を映し出したモニターに刮目し、言葉を失う。
傍らの小見は、両手で口を覆いながら、瞳に涙を浮かべていた。
──ひたすら巨大化していくイーサンの眼差しは虚ろで、生気はない。それは目には見えない程に微細なナノマシンの集合体であり、生物ではなかった。
博士がプログラムしたのは、生前のイーサンの記憶と、グレイグーを引き起こすための増殖行動。
ナノマシンは空気中の微量な静電気に乗り、遥か上空へ舞い上がることも、くっつき合って巨大になることも容易い。
──肉体を作り出すことも、弾丸を止めることも、人体を内部から破壊することも、巨大なロボットを作り出すことも、攻撃魔法を行使することも、“気”を作り出すことも──全ては可能だった。
真っ白く、果てしなく巨大な少年の胸目掛け、木下は光の矢となり空を駆けていく。
「……みんな、ありがとう」
木下は呟くと、少年の胸へ吸い込まれていった。
◆
銀色の海の中に、木下はいた。
意識はぼんやりとして、どこか虚ろ。
「……死んだのかな?僕……」
体に痛みはない。だが、これが現実なのか夢なのか、木下には判断がつかなかった。
「あれ?」
強化装甲服を着ていないことに気付く。
「あららっ」
それどころか、一糸纏わぬ姿になっていた。
ふと、遠くに感じる人の気配に、木下は目を細める。
「君は……」
小さな裸の少年が、木下をジッと見据えていた。
「イーサン?」
木下の呼び掛けに、少年は黙したまま。
突然、一面の緑に覆われる木下の視界。抜けるような青空と、心地好いそよ風が吹き抜けていく。
いつの間にか、イーサンの傍には金髪の女が。
あどけない笑顔を浮かべると、イーサンはその女を見上げた。
そして、静かにその胸元へ抱かれる。
「……イーサン? の……お母さん?」
木下には、その姿がひどく眩しく感じられた。そして、自らの胸の中に暖かい感覚が広がっていく。
「えっ!?」
一瞬で周囲の景色が暗転し、木下は虚空に浮いていた。
母親が死んだ日。
見知らぬ土地へ、父と旅立った日。
いじめられた辛い日々。
痛みと、苦しみ。
哀しみ。
──孤独。
激流のような煌めきが、木下の心を突き抜けていく。
「──これは……イーサン、君の……記憶?」
いつの間にか、木下は泣いていた。
『お兄ちゃん。全てが僕になっていくよ。お兄ちゃんも、父さんも、山も、海も、空も』
そう呟くイーサンの表情は、どこか寂しげに見えた。
その言葉に、木下は口を噤む。
そして、今まで誰にも見せたことのない、真剣な眼差しをイーサンへ向けた。
「そっか……いいさ。許す」
『許す?』
木下の言葉に、首を傾げる少年。
「あぁ。イーサン、君の思うままにするといい。許すから」
『簡単に言うんだね』
木下は瞼を閉じると、イーサンの言葉に応え続けた。
「世界は簡単さ。自分が許せば、それで誰も咎めることはないんだから」
『……』
「ただ、許せばいいんだよ」
木下は微笑むと、手を差しのべた。
「いつか、みんな分かりあえる時が来るから。だから今は……」
頭上から、小さな光が射し込む。
「……あれ?」
木下は眩しそうに瞼を開いた。
女が、いた。
金色の髪が風になびき、キラキラと輝く。
「そっか……僕が穏やかにいられたのは、美嶺さん、美嶺さんがお母さんみたいだったからなんだね」
木下はあどけない笑顔を浮かべると、女の差しのべた手を握る。
『ありがとう』
響き渡る、穏やかな少年の声。
そして、光が弾けた。その輝きはどこまでも遠くに広がり、世界を覆っていく──。
◆
アパートの室内。
壊れかけたエアコンの室外機が吐き出す、不愉快な騒音。
壁を伝い、部屋の空気を震わせていた。
「私のこと、好き?」
「……好きだよ」
玄関のドアの前。
女は大きめの旅行カバンの取っ手を両手で握っている。
派手な花柄のワンピースの胸元は大きく開いていて、強めにふった香水の匂いが、エアコンで冷やされた室内の空気を染めていた。
閉じかけたドアに背中を預けると、華奢な両の肩をすぼめ、うつむく。
「どうして泣くの?」
青年は、まだ青年と呼ぶにはあどけない表情で、ベッドの枕に顎を沈めながら、女に尋ねた。
女の瞳から一筋、涙が伝う。
小さな唇の端へ向かって、大きな滴が吸い込まれると、声を震わせ囁いた。
「──幸福……だから」
華奢な白い腕がゆっくりと閉ざす、重く、古びた厚いドア。
むっとした熱気が消え去り、外の光が閉ざされた。
金色の髪を揺らし、女は駆け出す。
「ずっと、一緒にいよう」
飛び込んできた女を抱き締めると、あどけない笑顔で、そう一言、囁いた。
―完―




