第1話―木下大河―
蒸し暑い夜だった。──空気が重く、暗い夜。
か細い街灯の光が僅かに照らす、闇の中。
「っつ!!」
瞬間、閃光が弾けた。閑静な住宅街の路地裏で、甲高い衝撃音と共に、二つの人影が浮かび上がる。
一人は青年。アシンメトリーの前髪を跳ね上げながら、空気を引き裂き襲いくる大剣を紙一重で躱す。
仰け反った姿勢から、自らの握る日本刀を真横に薙いだ。その鋭利な切っ先が、銀色の残像を煌めかせながら、相対する人影へ吸い込まれていく。
巨大な人影は、のっそりと後退するも、胸元に火花が散った。
──中世の騎士。それ以外、形容する言葉が見つからない。全身を、銀色の甲冑で隈無く包んだ異様な姿。
「はぁっ!!」
甲冑の胸元を僅かに切り裂いた日本刀を引き寄せると、腰を沈め、青年は全身の筋肉を躍動させながら、瞬時に突きを放つ。
三段突き。余りの速さに太刀筋が霞み、街灯の僅かな光を反射して、暗闇に明滅する。
甲冑の頭部、喉元、左胸を一瞬で貫き、2メートルはあろう巨体を揺るがせた。
膝から崩れ落ちそうになる騎士。更に追い討ちをかけようとする青年だったが、呼吸を止めて、騎士の背後に視線を送った。
突如として、薄暗がりの中に、一層濃い闇が円を描きながら広がり、騎士の巨体を飲み込む。
「なんだ!?」
青年は瞬時に後方へ跳躍すると、唖然とした表情を浮かべながら、渦を巻いて消え去る空間を見つめた。
午前0時。住宅街に、耳の痛くなるような静寂が訪れる。
「……ふふっ」
うつむき、口許を歪める青年。
その瞳に、仄暗い光が射した──。
午前6時。
アパートの室内。
壊れかけたエアコンの室外機が吐き出す、不愉快な騒音。
壁を伝い、部屋の空気を震わせていた。
「大河君。私のこと好き?」
「……好きだよ」
玄関のドアの前。
女は大きめの旅行カバンの取っ手を両手で握っている。
派手な花柄のワンピースの胸元は大きく開いていて、強めにふった香水の匂いが、エアコンで冷やされた室内の空気を染めていた。
ドアに背中を預けると、華奢な両の肩をすぼめ、うつむく。
「どうして泣くの?」
大河と呼ばれた青年は、まだ青年と呼ぶにはあどけない表情で、ベッドの枕に顎を沈めながら、女に尋ねた。
「大河君は、きっと……誰かをほんとに好きになることなんて出来ないんだね」
女の瞳から一筋、涙が伝う。
「バイバイ」
小さな唇の端へ向かって、大きな滴が吸い込まれると、声を震わせ囁いた。
華奢な白い腕がゆっくりと押し開ける、重く、古びた厚いドア。
むっとした熱気を帯びながら、外の光が射し込む。
女の髪がキラキラと赤く輝いた。
──そして、そっと静かに、ドアが閉じていく。
再び耳障りな室外機の音だけが部屋に満ち、ベッドで仰向けになった青年の心を穏やかに逆撫でする。
「バイバイ」
瞼を閉じると、女との一年間をぼんやりと懐古し、微かに──笑った。
同日、午後3時。
「ちょっと木下君、お客さんのカットまだ終わってないよ!」
「ごめん!どうしても断れない用事があって」
「なんなのよそれ?まだ仕事時間だよ!」
眉間に皺を刻む女は、その表情の割に穏やかな声色で、自らが経営する美容室の裏口から上半身を乗り出した。
中で待つ客に聞こえたらまずい。
その心情が、張り上げたい声量を抑えさせていた。
女の見つめる先。
駐車場の隅で首を傾げるように停車したロイヤルブルーの単車に向かい、背を向けながら悠然とした歩調で進む男が一人。
長い脚を掲げ、優雅な動作で跨がると、その単車の所有者である木下大河は、ハンドルにかけておいたロイヤルブルーのヘルメットをかぶる。
本来窮屈なはずのフルフェイスヘルメットだが、小顔のせいか、その開口部から覗くスッキリとした二重の両眼を、なんら妨げることはない。
「ねー!ちょっと聞いてんの!?」
差し込んだキーを捻ると、一気にアクセルを煽った。
美容室のオーナー、美嶺の声を掻き消す。
金髪に近い長髪を肩まで伸ばし、目鼻立ちのハッキリした、男好きさせる美人だった。
身長はそれほど無いが、膨よかで肉感的な体型が、匂い立つ色気を漂わす。
客のことなどつい忘れ、更に声を張り上げる美嶺だったが、その口の動きに合わせて、大河はアクセルをリズミカルかつ盛大に開けた。
「ふははっ」
無声映画。そんな滑稽に見える美嶺の動きと困惑した表情に、思わず笑いだす。
「次の月曜日、デートしてあげるから」
一瞬緩めたアクセル、その静けさの中で穏やかに口を開く大河。その目許を彩る優しげで妙に色気のある笑顔は、大抵の婦女子の言葉を失わせ、心臓の鼓動を乱れさせた。
「ちょっと……なんなのよ、そのキャラ」
クリーム色がかった薄手のライダースジャケットの背中越しに左目でウインクすると、片手を上げ、人差し指と中指を左右に軽く振ってみせる。
そこら辺の男が一連の動作を真似ようものなら、失笑か罵声を浴びるに違い無かったが、不思議とこの青年には違和感無く、むしろ並の役者以上に女の心を揺さぶった。
瞬く間に駐車場を出ると、薄っすらとした排気ガスだけを残し、静寂が辺りを包みこむ。
「なんなの、あいつ」
そう口走る美嶺だったが、頬を朱色に染め、既に頭の中ではデートの日に着ていく服を、マンションのクローゼットの中から探し始めていた。
木下大河が美嶺の経営する美容室に勤め始めてから一年が経とうとしている。仕事熱心だし細かな気配りも出来る、何より腕も確かだ。
そしてそのルックス。
女性的な色気と雰囲気を持ち合わせているせいか、たちまち彼を指名する客が増え、この不景気ながらも店は繁盛していた。
しかしそんな木下にも問題がある。
時折、仕事をほったらかして何処かに消えるのだ。
それも一度や二度では無い。普通ならクビである。
だが、木下が在籍しているおかげで、店の売り上げが右肩上がりという現実。
何より美嶺自身、木下に好意以上の感情を持っていた。
木下大河は26才。
美嶺は35才。
この年齢差が、彼女を二重に悩ませている。
しかし、当の木下大河はそんな事などなんら知る由も無く、もう1つの仕事にも精を出していた。
──そして、現在。
夏の空は高く、どこまでも蒼い。
入道雲が背を伸ばし、ゆっくりと風に流され、そんな夏の空を覆い始める。
場所は市街中心部から離れた郊外。
アスファルトを照りつける日差しが、溶かすように、焦がすように、ゆらゆらと地平線を歪めていた。
その彼方から徐々に大きくなる蒼い影。
美しいロイヤルブルーの輝きを放ち、次第にその姿を明瞭にしていく。SUZUKIが誇るスーパースポーツ<GSX1300R hayabusa>鋼鉄の駿馬。
大排気量のエンジンから燃焼された排気ガスが、チタン特有の青い輝きを放つ集合管から吐き出され、管楽器に似た心地好いサウンドを伴いながら、1万回転を越えたピストンとシリンダーの協奏曲を奏でる。
「三国さん、聞こえる?前方に見える人影。あれかな?」
車体と同じカラー、そのフルフェイスのヘルメットの中に装着したインカムへ、優しく話しかける薄い唇。その言葉を発した木下大河は、生地の薄いライダースジャケットを身に纏い、ジーパンに革靴。
細身に見える体のラインとは裏腹に、屈強に鍛え上げられた肉体が、跨がる大型バイクを涼しい表情で難なく御していた。
『恐らくそれです!気をつけてください!』
「了解」
三国と呼ばれた通話相手の男。その幾分甲高い声を聞くと、アクセルを全開にする。
タコメーターの針が一気に跳ね上がり、エンジンから官能的な音色がこだました。
若干浮き上がるフロントタイヤをハンドル越しに捩じ伏せ、上がり続けるスピードメーターの指針。視界の中に、目の覚めるような鮮やかな海が広がっていく。
目標まで、あと、数百メートル。
──平日の真っ昼間、しかも真夏に分厚い毛布のような素材のローブを全身に纏った、性別不明の人影。
可笑しいのはそれだけでは無い。その背後、直径1メートル程の円形の空間がある。
異様だった。
それは空中に浮き、渦を巻く。あたかもブラックホールのごとき虚無の異世界と繋がって見えた。
それを背に、焦げ茶色のローブの人物がゆっくりと手を掲げた。その手には、節くれだった木製の杖が握られている。
単車に跨がったまま、思わず苦笑いする木下。
「何あれ?……今度は魔法使い?」
木下が“魔法使い”と形容した存在との距離は20メートル程。
海岸線沿いの旧道は見通しが良く、疎らに点在する民家の佇まいは古びていて、そこが過疎地域だと伺えた。
平日ということもあり、人通りは皆無。
これから起こる現象など、誰一人知るよしもない。
謎の存在が掲げた杖。その10センチ程離れた先端部分へ、微かに輝きが起こる。次第にそれは大きくなり、すぐに人の頭部程のサイズになった。
聞き取れない程の囁きを発すると、ローブを纏った人影は、杖を斜めに振るう。
火焔の魂が放出し、驚異的な速度で木下へ向け空中を疾走していく。
「飛び道具なんて聞いてないよ!」
思わず声を上げた。
その場で180度アクセルターンをすると、隼が猛然と駆け出す。
凹凸のある古びたアスファルトに、ブラックマークの半円を描き、タイヤスモークが盛大に上がった。
木下の屈強な上腕筋が、爆発的なトルクを発揮する重量級の暴れ馬をいなす。
元来た道を引き返す滑稽な様だが、そんなことはお構い無しに、火焔の光球は緩やかな曲線を描きながらその後を追いかけた。
「ヤバいっ!」
アクセルを更に捻って加速するが、その速度に追従する光球。
瞬間、木下の目付きが変貌していく。
バイクのタンデムシート脇に取りつけられた、アジャストケースと呼ばれる設計図や青写真を収納する円筒形のホルダー。左手でそのケースの蓋を開けると、無造作に中をまさぐる。
そこから抜き放った物。
日本刀だった。
和泉守兼定。
古今東西の武将、名将に愛用された業物。その二代目の作を『之定』と呼び、歴代最高の切れ味を誇った。
刀身が濡れたように妖しく煌めく。
次の瞬間、火焔の光球が木下の左斜め後方へ迫る。
「フンッ!」
気合い一閃。
逆手に持った之定の白刃が、虚空に優美な曲線を刻み、輝いた。
スイカを両断するかのごとく、木下の体を境に、燃え盛る炎が二つに裂けて左右に弾けていく。
『木下君、大丈夫ですか!?』
「あんまり大丈夫じゃないけど、取り敢えず大丈夫……ちょっと逃げたけど」
『逃げた?』
「うん、若干」
『相手はどんな奴ですか?』
「魔法使いっぽいよ」
『……』
インカム越しに絶句する三国。
紅蓮の散華が灰を伴い周辺に漂う中で、木下は隼を停車させた。
インカム越しに響く甲高い声の主・三国の心配を他所に、フルフェイスのバイザー越し、その口元には不敵な笑みが浮かぶ。
小気味よいリズムでアクセルを煽った。
謎の魔法使いとの距離は、再び数百メートル。
鼻腔の奥を焼くような熱風が、互いの間に吹き付けている。