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妖の雫

作者: さーさん



 遠い地平線から太陽の輝きが零れ始める明け方、人気のない道路の脇を歩く少女の姿がある。近隣にある高校のブレザーの制服を着て肩には革の学生鞄を掛けている。

 多少早い通学途中の少女は、少し離れた場所のマンションに住む普通の女子高生である。少なくとも本人はそうありたいと切実に普段から願っている。

 しかし日も明けきらない早朝から家を出なければならない、うんざりする事情を少女はその身に抱えていた。

 両側に軒を連ねる一本道のアスファルトを少女――瑠璃羽が歩くと、ぐちょ、と嫌な音がして足の裏に柔らかい何かを踏みつけた感覚がする。

 それを気にせずに歩き続けると、べちょ、ぐちょ、べちょ、と一歩進むごとに粘着質な音が耳に入ってくる。

その音を鋭敏に捉えながら、これは何の嫌がらせだろうかと瑠璃羽はやや現実逃避気味に考えていた。嫌でも音の原因が目に入って来て、普段のように無視しようとしても気分の悪さを増長させるだけだ。

瑠璃羽が歩くたびに踏みつけているのは赤紫色の異様な物体だった。表面に小さな泡沫が浮かび、アスファルトの上を蔦で覆うようにどくどくと蠢いている。


(これってやっぱり)


 薄々とその正体に勘付きつつ、瑠璃羽はぴたりと足を止める。

 先ほどからずっと瑠璃羽の背後から圧迫感を放っていた存在が、より気配を大きく増大させて近づいて来ることが見なくても分かった。


(血管、だよな)


 周囲を見渡せばそこはまるで異世界。足元のアスファルトや電柱、家の外壁のあちこちを脈打つ赤紫色の細長い物体や薄いピンクの厚い物体が覆っている。さながら生物の体内にもぐりこんだかのような光景だ。

 瑠璃羽は自分を誤魔化すことを諦め、くるりと背後を振り返った。


「っ……何でっ、いつもこうなるんだぁ!!」


 目一杯の抗議の声を上げて、瑠璃羽はまた身体を反転させると全力で走り始めた。

 ぐるぉおおおおお、と不気味な咆哮を上げて背後から押し迫る何か。

 先ほど振り返って目に映ったのは大きなこぶだった。こぶにぎょろりと目玉を二つ付けた、どす黒いほど赤い化け物である。

 それは人間の口の中の頬部分を連想させるピンク色の厚い肉壁の地面から生やし、なめくじに似た動作で、しかし何倍にも加速させた速さで瑠璃羽に迫ってくる。

 捕まったら一貫の終わり。本能レベルの危機感をひしひしと味わいながらも、瑠璃羽はこの状況を打開する方法を模索する。


「条件、脱出の条件は何……って、おわぁ!」


 するりと血管の一部が触手生物のように伸びて来て瑠璃羽の足を絡め取る。

 ずさぁっと勢いよく地面に倒れ込んだ瑠璃羽は、足から伝わる感触に思わず顔を歪めて絶叫する。


「きーしょーくわーるーいぃぃっ!!」


 べちょぅ、と転んだはずみに瑠璃羽の全身を赤紫色の生暖かい液体が汚していた。生臭く、べとべとした液体の感触は不快感しか呼び覚まさない。

 瑠璃羽は飛び起きると足を掴んだ血管を蹴ってべちゃりと踏み潰し、持っていた鞄に手を突っ込んで三枚の薄い紙を取り出した。

 神社などでよく見る護符らしき紙を背後に迫る化け物に突き出して一言。


「悪霊退散!」




……何も起こらなかった。




「何でだ!? この前は利いたと思ったのにっ! ただの偶然……」


 唖然として叫ぶが、ぎちぎちぎちと何かが避ける音を聞いて瑠璃羽は口を閉じる。巨大なこぶに埋め込まれたぎょろ目の下に横一文字の裂け目が入って、ぱかりと開かれた。

口を連想させる裂け目の登場に瑠璃羽はさっと顔色を悪くする。


「まさか、あたしを喰う気か!?」


 よだれのつもりか、粘々した薄い赤色の液体が裂けた場所から大量に溢れ出てくる。どぼどぼと滴り落ちた液体は辺りを濡らし、地を這う血管に吸収されている。

 喰われてはたまらないと瑠璃羽は慌ててまた駆け出す。

 足をもつれさせて走った方向で変化が起きた。ぼこりと足元の肉が盛り上がり、徐々に大きくなりながらピンク色の肉壁を生やしたのだ。

目の前に立ち塞がった肉壁に、瑠璃羽はげっと声を上げる。

 元々なかった逃げ道がさらに塞がれた。


「だぁあああああっ、いつもこうだ!」


 瑠璃羽はそこで立ち止まることなく、逆に走る速度を上げてたっと地面を蹴った。その勢いで肉壁にとび蹴りを加える。マニアックな人間が見れば『見事なライダーキックだ』と喝采しそうな一撃だった。

とは言え一般人の、それも年頃の少女の一撃だ。巨大な異形に与えられる効果はたかが知れているかのように思われたが、ぎゅぼっと瑠璃羽の足は意外に簡単に肉壁にのめりこむ。


「どわっ」


 予想外の肉壁の脆さに目を剥くが遅い。バランスを崩した瑠璃羽は肉壁に足を取られて後ろ倒しに倒れる。びたん、と背中を打ったが、化け物の厚いピンクの肉がぼよんと跳ねて衝撃を受け流したおかげで痛みは少なかった。

 あたたた、と起き上がった瑠璃羽は真上に影を見てぎょっとする。瑠璃羽に接近していた巨大こぶの化け物のぎょろ目と視線が合ってしまった。


「あ、あたしは美味しくねーって!!」


 一言断りを入れて瑠璃羽は肉壁から足を引き抜き、立ち上がってまた肉壁に突撃する。

 巨大こぶの化け物にまともな手足がないことが幸いだった。もしもあったならとっくの昔に囚われの身だ。手足の代わりに周囲の血管が不気味に動き出しているのが、非常に気がかりである。

 瑠璃羽は拳を握って先ほど開けた穴の近くを殴りつける。ぞびゅ、という音と共に液体が撒き散らされて簡単に穴は開く。

 何度か繰り返せば瑠璃羽一人通れるほどの穴が出来上がっただろうが、生憎と化け物はそれまで待ってくれない。

 振り返るとまさに巨大こぶの歪な口がすぐ傍にあった。ぼちょぼちょと薄く赤い唾液が滴り落ちて来て瑠璃羽の肩を汚す。ひくっと頬が引き攣った。


「い……いやだぁああああああああっ」


 絶叫して瑠璃羽は必死に両腕を振り上げ、肉壁を叩く。びたん、と肉壁に全身をへばりつかせ――衝撃が来た。

 初め、瑠璃羽はそれが化け物の口の中に押し込められた感覚だと思った。つまり自分はとうとう化け物に喰われてしまったのだ、と。

 しかし次の衝撃はなかなか来ない。おそるおそる瑠璃羽が目を開いて見たのは、何の変哲もない日常の道路だった。


「……へ?」


 がばっと上半身を起こして背後を振り返る。人の形に穴を開けた肉壁の向こうで巨大こぶの化け物が恨めしそうな眼でこちらを見ていた。

 瑠璃羽は慌てて立ち上がり、数歩後退して様子をうかがう。巨大こぶとの間に立ち塞がる肉壁が消えることも、それ以上化け物が迫ってくることもなかった。


「あれが境界だったのか」


 ほっと息を吐き出して瑠璃羽は胸を撫でおろす。

 この世界には巨大こぶのような化け物が無数に蔓延っている。弱小の異形から、先ほどのように人間が太刀打ちできないような化け物まで、種類は様々だ。

 今も日常の風景を取り戻した路上には、無害で小さい異形が数匹ひょこひょこと歩いている。

 普通の人間の目に映らないそれらは、日本式に言うなら妖怪。外国的に言うなら悪魔なのかもしれない。専門的な知識を持たない瑠璃羽には彼らが一体何なのか、判然としない。分かるのは人間とは別種の特殊な存在であり、人間を害するものと害さないものがいるということだけだ。

 先ほどの巨大こぶの化け物は、瑠璃羽流に言うなら“領域系”の妖怪である。一定の範囲内にのみ力を発揮できる代わりに、それ以外の場所には出れば急速に力を失う。地縛霊の化け物バージョンと捉えればいい。

 おそらく巨大こぶの妖怪が肉壁で阻んだあの場所が、かの妖怪の領域と外の境界線だろう。肉壁を打ち破って出られたことは不幸中の幸いだ。もしも肉壁が脆くなければ、今頃瑠璃羽はその胃袋の中である。

 瑠璃羽は衝撃で取り落した鞄を拾うと、巨大こぶの唾液と血液らしきものでねちょねちょになった全身をうんざりと見下ろした。怪我はないが、気持ち悪い。

 これまで出会った中でも、気持ち悪さでトップ10に入る妖怪だった。


「あぁ、もう。帰るまでにあと何回同じことを繰り返さなきゃいけないんだ」


 べちょべちょと濡れた革靴を鳴らしながら、瑠璃羽は普通に歩き出す。

 世の中には瑠璃羽のように妖怪を認識できる人間ばかりではない。むしろ妖怪の存在すら知らない人間の方が多い。つまり瑠璃羽がどれほど妖怪の体液で汚れていようと、他者からはそんな汚れは見えないのである。全身が妖怪の体液にまみれていても不審な動作をするわけにはいかなかった。

 現実を誤魔化して、他者に対して動作や顔を取り繕うことにはもう慣れた。この妖怪を捉える目のせいで瑠璃羽は常人の倍の危険な目に遭って来たし、それで騒いで不審な目で見られることも多かった。

 今ではすっかり近隣住民、その他同級生から変人と捉えられている。瑠璃羽としては大変不本意な評価だ。彼らも瑠璃羽と同じ境遇だったら、絶対に瑠璃羽を貶せなくなるに決まっている。

 ふと思い立って瑠璃羽は立ち止まる。


「よし、無事だな」


 粘液で汚れた指で制服の第一ボタンを苦労して外し、胸元を確認して満足そうに安堵する。服の下には革紐のネックレスが隠され、その先端にはビー玉ほどの大きさをした雫の形の不思議な石が垂れ下がっている。表面は薄い青だが、内側には星を内蔵したような小さな輝きを幾つも孕んだ石だ。

 雫型の石は瑠璃羽にとって大事な預かりものであり、現在の一番の厄介物である。

 遠い記憶の彼方に埋もれつつある石の本来の持ち主を脳裏に思い浮かべ、瑠璃羽は物騒な顔で唸る。


「あの馬鹿め……。次に会った時は覚えてろ」


 そう唱え続けて早十年。待望の次の機会は一向に訪れていない。







 *****







 くすっと笑う気配があった。くすくすくすと笑みに歪む口元に手を添え、妖怪の体液で汚れまくった瑠璃羽を愉快そうに見下ろしている。

 それは一見して普通の若者であった。黒髪はうなじにかかるほどの長さで、衣服も普通の紺色のシャツにジーンズ姿である。多少顔の造作は整っているが、テレビに映るアイドルほど目を引く美しさではない。

だが細められた目は見る者を恐怖させるほどにどす黒い輝きを秘めている。

 そして明らかにおかしいのは、彼の立ち位置だ。若者は足元に何の支えもない、空中高くにしっかりと立っていた。時折吹く風も彼の身体を揺るがしはしない。


「素晴らしい格好じゃないか、ルリ」


 若者は生き生きとした顔でつぶやき、瑠璃羽の動向を上空から見守る。


「まったく変わってなさそうで結構なことだよ。――でも」


 一瞬で鋭さを帯びた瞳はたった今瑠璃羽が立ち去った場所に向けられる。巨大こぶの妖怪が居座る領域である。若者の目から見ても、肉壁や血管で覆われたそこは一種の異空間だった。


「ぼくは自分のものに手を出されるのが嫌いなんだよ。まして、喰らおうだなんてねぇ」


 到底許されることではない。

 若者が歪に口角を上げると、その背後で何かの影がさっと駆け抜けた。

 一拍の間を置いて、ずしゃりと巨大こぶが自らの領域の中で押し潰れた。ずるり、と領域内の肉壁にも切れ目が入る。領域の崩壊と妖怪の消滅はあっという間だった。

 さらさらと日の光に溶け込むようにして巨大こぶの化け物が滅んだ時、すでに若者の姿は消えていた。








 *****








――約束を交わした。守ろうと決めた、唯一の約束。


 彼と出会ったのは小学二年生の夏だった。日差しの強くなり始めた初夏に出会い、夏の終わりが近づく頃にとある約束を交わして別れた。

 初めて彼と出会った場所や経緯、彼の詳細な容姿を瑠璃羽はよく覚えていない。その代り、彼の強烈で非常識な性格と行動力だけは印象強く記憶に残っている。

 ひと夏の間、瑠璃羽は彼と遊び回った。より正確に表現するなら、あちこちに足を伸ばす彼に腕を引かれて、必死にその後を付いて回った。

 彼は気持ちの悪い生き物を捕まえて瑠璃羽の目の前に垂らすような悪戯っぽさや、夜中に家に侵入してきて瑠璃羽を拉致し、どこかの山中に連れて行って蛍の鑑賞をするような奔放さを持ち合わせた少年だった。

 常識が通じない彼の行動はよく瑠璃羽を仰天させ、苦労させた。彼の巻き起こす厄介ごとに毎回迷惑を被りながらも一緒にいたのは、それでも無茶苦茶な彼が不思議と大好きだったからだ。

 夏休みの間、欠かさず瑠璃羽の傍にいた彼は秋が訪れる前に姿を消した。どこか遠くへ行かなければならないと告げられたが、具体的にどこへ行くのか、そもそも彼がどこに住んでいたのかも瑠璃羽は知らない。

 別れの餞別に、と彼から預けられたものがある。それは暗闇の中にあっても淡く青に発光する、“妖の雫”と呼ばれる不思議な石だ。青の中に幾つもの輝きを秘めた美しいその石を、瑠璃羽に肌身離さず持ち歩くように頼んで、彼は去った。

 瑠璃羽は彼の性格を考慮せずに安請負したのだが、ほどなくして“妖の雫”の厄介さを実感することになる。

 初めに異変が起きたのは、石を預かって十日余りが過ぎた頃である。小学校からの帰宅途中に瑠璃羽は日本人形を見つけ、ぎょっと目を剥いた。粗末な日本人形が、かたかたと妙な笑い声を立てて歩道の中央に落ちているのだ。

 何故こんなところに仕掛け人形が、と当然の疑問が浮上してくる。笑う日本人形はあまりに不気味で、瑠璃羽はじりじりと仕掛け人形から距離を取ろうとした。

 実際その判断は正しかった。


『それ、ちょうだい』


 突然仕掛け人形の口がぱかっと開き、そこから聞くに堪えない醜い声が発された。

 空耳か、と瑠璃羽がいぶかしげな顔をした隙に、淡い願望を打ち砕く言葉の羅列が日本人形の口から放たれる。


『それ、ちょうだい。それちょうだい、それちょうだい、それ、ちょうだいそれちょうだいそれちょうだいそれちょうだいそれちょうだいそれちょうだいそれちょうだいそれちょうだいそれちょうだいそれちょうだい、ねぇ、それをちょうだいよぉぉおおおおおっ!!』


 両手を振り回して呪いじみた言葉を叫ぶ日本人形の様子に、瑠璃羽は明確な恐怖を感じて顔を引き攣らせる。一瞬だけ竦んだ足は反射的に走り出し、瑠璃羽はその場から逃げ出した。

 仕掛け人形はどんな身体構造をしているのか、自力で起き上がると機敏な動作でしゃかしゃかと足を動かして瑠璃羽を背後から追ってくる。

 同級生の中でも群を抜いて早い瑠璃羽でも日本人形からは逃れられず、後ろから足を掴まれて盛大に転んだ。


『それ、それ、それよぉ。ちょうだい……?』


 振り返ると日本人形がにぃ、と不気味な笑みを浮かべて瑠璃羽の足から這い上がろうとしている。黒い髪を振り乱し、赤の美しい振袖を煤に汚して、鮮やかな唇を曲げる姿は悪夢に出そうなほど恐ろしい。

 瑠璃羽は絶叫を上げて全身を滅茶苦茶に振り回した。そのはずみに日本人形の手を振りほどくと、全力を振り絞って日本人形を踏みつけ、蹴って破壊する。

 しかし日本人形はしぶとく、どれほど蹴っても壊しても這いずり寄ってくる。

 瑠璃羽は日本人形がほとんど動けなくなるまで足で破壊して、何度も転びながら半泣きで家に走り帰った。

 その日は何かの幻を見たのだと自分を誤魔化してベッドに潜り込み、布団にくるまって泣き寝入りした。

 しかし無情にも次の日から瑠璃羽の日常は一転した。似たような怪奇現象に所構わず襲われ、日が経つごとに周囲の異形の姿は明瞭に見えるようになった。

 日本人形を皮切りに、一部の妖怪たちは瑠璃羽の預かる“妖の雫”を求めて襲いかかるようになった。時には無害な弱小妖怪と交流も持ったが、ほとんどの妖怪は瑠璃羽にとって脅威である。

 必死に妖怪から逃げる中で分かったことは、“妖の雫”は希少価値のある石で、ある程度強い妖怪が食べると妖力を増すための強力な養分となる、ということだった。

 明らかに瑠璃羽の身に起こる全ての異変の原因は、彼から預かった“妖の雫”にある。命の危機にも繋がる厄介な石とそれを預けた彼に、さしもの瑠璃羽も憤慨した。石を捨ててしまおうと考えたことは何度もある。しかしその度に瑠璃羽は“妖の雫”を預けた時の彼の真剣な様子を思い出して、踏みとどまってきた。

 次に出会った時は思う存分殴ってやる、と熱い決意を固めて。

 それから瑠璃羽は道を歩くにも周囲を警戒し、迂闊に外を出歩けなくなった。おかげで小中高を通して旅行に出かけたことは一度もない。普通に歩けば十五分の道のりも妖怪に遭遇して一時間掛かる始末である。

 “妖の雫”を預かって十年。瑠璃羽の歩んできた人生は非常に波乱万象で、死と隣り合わせの苦悩に塗れた歳月であった。

 一難去ってまた一難。

 瑠璃羽はうんざりした顔で目の前に立ち塞がる少年を見つめる。瑠璃羽の通う高校の制服を着た少年は一見して人間のようだが、長年妖怪相手に培った瑠璃羽の勘はそれを否定している。つまり少年は人間に化けた妖怪なのだ。

 多くの妖怪はそれらしい異形の姿をしているが、たまに力の強い妖怪は人間に化けて人間社会に紛れて暮らしている。そんな妖怪に目を付けられた時は決まって命の危機に遭遇するのが、瑠璃羽の通例である。

 いまだに巨大こぶの化け物の体液で汚れた制服を着ている瑠璃羽を、少年は不審そうな顔で見ている。


「……あたしに用?」


 慎重に尋ねると少年はにぃ、と妖怪特有の不気味な笑みを浮かべる。


「うん。あんたにちょっと用事があるんだよ」

「はぁ。それってもしかして……」

「その石さ」


 すっと少年は瑠璃羽の胸元で揺れる“妖の雫”を指し示す。


「やっぱりぃ」


 がくっと一瞬肩を落とした瑠璃羽は、次の瞬間には踵を返して走り出す。“妖の雫”目当ての妖怪に出会った時は、とにかく逃げるのが肝心なのだ。


「あ!」


 背後で少年が何やら間抜けな声を洩らしたのが聞こえた。


「こらっ、お前、待てよ!」

「誰が待つか!!」


 後ろから追いすがる声を無視して、瑠璃羽は自分の庭も同然の道を駆け抜けた。妖怪に襲われるおかげで周囲の地理はよく把握できている。特にどこがどの妖怪の領域で、どこが妖怪にとってまずい場所なのか、ということに関して。

 瑠璃羽がまず頼ったのは一番近い場所にある神社だった。神社であれば何でもいいわけではない。人がよく参拝に訪れる、信仰の集まる神聖な神社ほど妖怪は嫌う。中には崇拝者が多いせいか、狭いながら結界らしきものが張られた神社や寺もあるのだ。


(とは言え、人型の妖怪にまで効果があるのかは知らないけど)


 冷や汗を流しながら瑠璃羽は他人の家の庭を勝手に通り抜ける。


「ああっ、何で他人様の家に侵入してるんだよっ!」

「そんなこと言われても……こっちは必死なんだよ!!」


 後ろの少年に叫び返して瑠璃羽は微妙な表情になる。

 追いかけて来る少年の方が悪いはずなのに、瑠璃羽の方が悪人に思えてくるから不思議だ。普通の妖怪なら人間の所領問題など気にしないはずだ。少なくとも瑠璃羽は妖怪からそんな気遣いを受けたことは、これまで一度もなかった。

 瑠璃羽を非難した少年は家の外壁に沿って遠回りに追いかけて来るが、それでも瑠璃羽を見失わずにしっかりと付いて来ている。

 瑠璃羽は民家の石塀の上をバランスよく駆け抜け、その横に面した山肌に飛びつき駆け上る。ぐっちょりと巨大こぶの体液で濡れた革靴のせいで何度か滑り落ちかけたが、その度に草か岩にしがみついて、山の中間辺りに備え付けられた神社の境内まで上り詰めた。


「うわっ、こらっ、猫かよ、お前!」

「野蛮で悪かったなっ」


 つい少年に叫び返して、瑠璃羽は緊張で荒くなった息で神社の石畳の上に出た。

 やっと東の端に太陽が覗き始めた時間帯のため、周囲には参拝者も神社の管理人の姿もない。ちゅんちゅんと雀の鳴く声が響き、清涼な空気が流れる境内は爽やかな雰囲気を醸し出している。

 瑠璃羽は辺りの森閑とした空気を乱して、石畳の奥に走って行く。境内の一番奥に隠された本堂に突入すると、勢いよく大きな木戸に手をかけて押し開く。

 明かりの差さない本堂の中はじめっとした湿気に満ち、暗闇の最奥には大きな祭壇が御神体と共に祀られている。

 靴を脱いで本堂に足を踏み入れると、湧き上る焦りを抑えこんで祭壇に近づく。どんな効能なのか、神社や寺でも本堂の中の御神体が奉られる場所が最も妖怪に忌避される。やはり御神体の放つ神気か何かに御利益があるのかもしれない。

 臨戦態勢で開け放った本堂の扉を睨み付けていると追いかけて来た少年があっさりと姿を見せる。神社の本堂の前にも関わらず、少年に異変は見られない。


「やっぱり人型にはこの程度の神社じゃ駄目か」


 泣きたい気分で瑠璃羽はつぶやく。


「やいっ、人間! 何で神社の本殿にそんな汚ねー格好で入ってんだよ! 少しは畏れ多いとか思わないのかっ!?」

「ええっ!?」


 今度こそ瑠璃羽は目を剥いた。


「あんた妖怪じゃないのか!? 妖怪が神様を敬ってどうすんだ!!」


 天敵だろうがっ、と瑠璃羽が怒鳴り返すと少年はうっと言葉に詰まる。


「そりゃそーなんだけどよ。姉ちゃんが……」


 何やら少年がもごもごと言っている間に瑠璃羽はじりじりと後ろに下がる。


「あっ、お前また逃げる気だなっ」


 瑠璃羽の様子に気付いた少年は焦った顔で本殿に立ち入ろうとするが、少し躊躇を見せて靴を脱ぐ。きちんと靴を揃えて、走らずに早足に瑠璃羽の下へ寄ってくる。

 妙に礼儀正しい少年とは逆に、瑠璃羽は罰当たりな行動に出た。そのまま後ろに下がると祭壇の段差に足を掛けて上ったのだ。

 これに少年はぎょっと目を剥く。


「おまっ、何やってんだ!?」

「逃げてんだ!!」


 怒鳴り返して瑠璃羽はごくっと息を呑む。止むを得ない事態とは言え、自分の行動がどれほど罰当たりかはよく理解している。いつかは大きな罰が当たるかもしれないが、今でなければいいと思う。

 一か八かの瑠璃羽の賭けは功を奏した。祭壇の前まで来た少年は瑠璃羽を睨み上げ、そろそろと手を伸ばしたが、その手がばちっと雷撃でも浴びたように弾かれたのだ。


(やった!)


 瑠璃羽は内心で喝采を叫ぶ。

 少年は少しの間首を傾げていたが、苦々しくつぶやいた。


「何だよ、姉ちゃん。やっぱり俺らは嫌われ者じゃん」


 少年の物悲しげな声音に、瑠璃羽は少しどきりとする。


「何で」

「ん?」

「何で……この石が欲しいんだ?」


 少年は瑠璃羽がこれまで遭遇してきた妖怪とは少し事情が違う気がした。これまでの妖怪たちは自分の力の底上げのために“妖の雫”を狙って来ていたが、少年にはもっと別の深い事情がありそうな気がしたのだ。

 少年は目を見張り、真剣な顔になって言った。


「力が欲しいんだ」


 どろっとした怒りが少年の目に宿る。


「姉ちゃんが俺よりずっと強い妖怪に囚われてる。次の満月の夜には喰われっちまうんだ。だから俺はそいつより強くなって、姉ちゃんを助けなきゃいけない」

「……そっか」


 次の満月の日はもう三日後に迫っている。少年の話が本当なら、瑠璃羽を襲う理由も理解できる。相手の妖怪がどれほど強力かは分からないが、“妖の雫”を食べれば少年の妖力は飛躍的に増すのだろう。

 しかし瑠璃羽は少し悲しそうに顔を歪めると、きっぱりと告げた。


「ごめんな。これはあたしのものじゃない。預かりものだから、あんたにはあげられないよ」


 だから、と瑠璃羽は笑った。


「欲しいならあたしを倒して奪って行け」


 少年は静かに瑠璃羽を見上げていたが、そうだなと頷いた。

 瑠璃羽は胸元に揺れる“妖の雫”を片手で握りしめる。

 少年はすっと片手を上げると手の平に淡い朱色の光の粒子を集め始めた。すぐに光の粉は凝縮して、きらきらと本堂の闇を払拭する小さな玉を作り上げる。

 綺麗な色合いだが、当たればただでは済まないだろう。


「……まったく、今日は最低な朝だ」

「そうだろうな」


 一触即発の空気の中で二人は互いに苦笑いを零した。





――結果的に言えば、二人の決着は永遠につかなかった。決着どころか、少年が瑠璃羽を倒すことも、瑠璃羽が逃走することもなかったのだ。





「なぁに、共感し合っちゃってるのかな、二人とも」


 低く艶やかな声が緊迫した空気に水を差した。

 その声にぞくっと瑠璃羽と少年は同時に身体を震わせる。

 いつからそこにいたのか、少年の背後に音もなく人影が立っていた。人影は自然な動作で少年の首元に手をかけ、少年から抵抗を奪っている。

 瑠璃羽は人影を確認した瞬間にすっと心の底を冷やした。


(人型が二人も……!)


 正直な話、瑠璃羽は少年一人を相手にするなら逃げ切る自信があった。少年は人型で強力な妖怪のようだが、人間を追い詰めることに関してはまるっきり素人だ。何度か出し抜けば十分に五体満足で逃げ切れたはずだ。

 しかし二人目の人型は――強かった。直接相対しなくても分かる。


(こいつからは逃げ切れない)


 現状において絶体絶命なのは少年の方だが、瑠璃羽は冷や汗が止まらなかった。

 何より、どんな状況下でもほとんど反応を示さなかった“妖の雫”が熱く発光し始めていることが不安を煽る。以前この石が同じ反応を示した時は、片手を骨折して脱臼までした。


「だ、誰だ」


 少年が震える声で気丈に背後の人型に問う。


「さぁ、誰だろうね。君は一体、誰のものに手を出していると思って、その質問をしているんだい?」


 くすっと人を小馬鹿にしたような笑みを人影が洩らす。


(ん……?)


 瑠璃羽はここに至って、小さな違和感を覚え始めていた。何か、記憶に引っ掛かるものがある。しばし悩んで違和感の正体に気が付いた時、瑠璃羽はすくっと祭壇に仁王立ちしていた。


「あんた」


 じっと少年の影に隠れた人型の妖怪を凝視する。


「まさか……」


 半身半疑だった人影の正体を確信し、瑠璃羽はぎりっと奥歯を噛み締めた。


「緋侶っ!!」


 瑠璃羽の中で散り散りになっていた記憶の欠片が集まり、目の前の人影と寸分と違わずに重なる。

 昔、自分には名前がないのだと嘯いた年上の少年がいた。いつも人を小馬鹿にしたように、面白そうに笑っている奴だった。

 瑠璃羽は呼び名がないと不便だから、と彼の嘘か本当かも分からない戯言に乗せられて彼に名前を与えたのだ。

 緋色の瑠璃羽の友人。――緋侶、と。


「やぁ。十年ぶりじゃないか、ルリ」


 瑠璃羽に“妖の雫”を与えた彼は気安く片手を上げて笑った。


「あ……あんたって奴は……」


 ひくっと顔を引き攣らせて、瑠璃羽は首から垂れ下がる革紐をぶちっと力任せに引きちぎる。祭壇の上で顔を真っ赤にして“妖の雫”を握りしめ。


「この、ド畜生っ!!」


 ふんっと十年分の憤りを込めてぶん投げた。

 彼はきょとんと目を丸くして勢いよく投げられた“妖の雫”を難なく片手で受け止める。それから手の中の“妖の雫”を確認し、にこりと軽く笑って言った。


「ああ、これ。よく約束を守れたものだねえ。えらい、えらい」

「っ……!」


 子どもでもあやすかのような、瑠璃羽のこれまでの苦労をまるで顧みない発言に瑠璃羽は見る間に頭を沸騰させて腹の底から絶叫した。


「何がっ、えらいえらい、じゃこのボケぇええええええええええええ――――っ!!?」


 湧き上がる衝動のままに瑠璃羽は祭壇の段差を蹴り、笑っている彼に向かって大きく飛び蹴りを放った。十年間妖怪を相手に鍛えただけあって、下手な武道家より綺麗な蹴りである。

制服のスカートが翻り、中に履いた黒いスパッツが丸見えになるが気にしない。

 華麗に宙を飛んだ瑠璃羽の蹴りを彼は回避することもなく、ずぼっと身体で受け止めた。頑丈なことに数歩後ろにたたらを踏んだだけで、倒れない。

 ふんっと鼻息も荒く着地した瑠璃羽はその様子を見て悔しげに顔を歪めた。


「緋絽……、あんた、あたしにもっと言うことがあるでしょうが。騙してごめんとか迷惑かけてごめんとか、約束守ってくれてありがとうとかいろいろ!!」

「いやぁ、良い蹴りだったよ。よく鍛えられたみたいだね?」

「っ……このっ」


 さらりと瑠璃羽の言葉を無視した彼に瑠璃羽は額に青筋を浮かべる。しかし今度は怒鳴らずに大きく深呼吸を繰り返して気分を落ち着かせた。

 十年の時を超えて再び向かい合った二人は、それぞれ互いを無言で見つめる。

 彼の容姿は十年前の記憶とまったく変わっていなかった。当時は彼を“年上のお兄さん”という意味で少年と思っていたが、改めて見ると青年と呼んだ方がいいように思われる。

 瑠璃羽は鋭い眼差しを青年に向け、尋ねた。


「あんた、妖怪だったんだ?」


 彼はにこにこと笑顔であっさりと頷く。


「うん。知らなかったのかい?」

「……そんなこと、一度も聞いてなかったからな」

「ルリは他の人間よりちょっと鈍かったからね」


 普通の子は気付くのに、とちょっと可哀想な子を見る目で彼は言う。


「余計なお世話だ、馬鹿」


 否定したくても否定できないのが悔しいところだった。

 瑠璃羽は少しふてくされた顔で彼を見た。


「……約束」

「うん?」

「約束は守った。“妖の雫”、確かに返したからな」


 告げると瑠璃羽はふっと肩が軽くなるのを感じた。どれだけ彼を罵倒しようと、妖怪に追い詰められて怪我をしようと、瑠璃羽は彼との約束に縛られ続けてきた。守らなければならないと心に決めて過ごしてきた。その重荷がやっと今下されたのだ。

 彼は少しだけ目を見張ると感慨深げに頷いた。


「うん、そうだね。……まさか、またこうしてルリと会えるとは思ってなかったよ。君が約束を破って、こいつをどこかに捨ててしまうことも考えていたから」

「……あたしが約束を破るような状況に追い込まれると分かっていたんだな?」


 彼の言葉に再び怒りが湧き上がって来て、瑠璃羽は拳を握る。


「でも君は約束を守るだろうとも思っていた」

「……」


 よく見せる人をおちょくるような笑顔ではなく、穏やかな笑みに瑠璃羽は一瞬だけ絶句し、拳を解いた。苛立たしげに髪の毛を掻く。


(本当に手間がかかる奴だ)


 大きなため息を吐いて荒れ狂う感情を収め、瑠璃羽はちらっと状況に置いて行かれたもう一人を一瞥した。

 つい忘れてしまいがちだが、この場には別に妖怪の少年が一人、きちんといるのだ。

 彼も瑠璃羽の一瞥に気が付いて少年を見やる。


「それでだけどさ」


 瑠璃羽は少し離れた場所で警戒している少年を見て言った。


「あの石の本来の持ち主はこいつ。石が欲しいなら、緋絽に頼め」

「へぇ。君、これが欲しいんだ?」


 見せびらかすように“妖の雫”が繋がれた革紐を垂らし、彼は笑う。

 途端にびくっと少年は身体を震わせて叫んだ。


「っ……じょ、冗談じゃない。俺がそいつから石を奪えるわけがねーだろ!!」


 実力が違いすぎる、と少年は青褪めた顔で呻く。


「あんた、“御魂隠し”を完成させて、しかも“名前持ち”の妖怪なんて……姉ちゃんを攫ったやつより、いや、日本中探したって敵う奴がいないじゃんか!」


 正直なところ瑠璃羽には少年の話の半分も理解できなかったが、その最後の言葉に思わず胡乱な顔を彼に向けてしまった。

 彼が他の妖怪に比べて段違いに強いことは瑠璃羽でも分かるが、勝てない妖怪がいないほど――いわば最強の妖怪だとは思えなかったのだ。

 瑠璃羽の視線に気が付いた彼はあからさまに傷ついた顔になる。


「ひどいなぁ、その顔。嘘だと思ってるのかい」

「思うに決まってるだろ」


 即答すると彼はおかしそうにくすくすと笑う。


「まぁ、そうだろうね」

「……それで、えーっと、ミタマカクシって?」

「ぼくと君がしたことだよ」


 彼は手の平で“妖の雫”を転がしながら、何でもない顔でとんでもない説明を始めた。


「この“妖の雫”はね、ぼくの魂の半分なのさ。高位の妖怪の、その中でも一等強い妖怪だけが使える秘儀で作り出される。自分の魂を半分に分けて片方を“妖の雫”として具現化した妖怪は一定の期間を過ぎると不老不死になるんだ。ついでに妖力とか身体能力も上がるのかな。

 でもこの秘儀はすごくハイリスクハイリターンでね。“妖の雫”を生み出すのはひどく疲れる行為なんだ。“妖の雫”を作り出した妖怪は人間の時間にして十年間、眠り続けなければならない」


 十年間という年月に瑠璃羽は目を見張る。


「じゃあ、緋絽は今まで……」

「寝こけてたよ? 夢も見ないでよく熟睡できた」

「そういう言い方をされるとむかつくな」


 その寝こけている間に瑠璃羽は妖怪たちと命がけの追いかけっこを繰り返していただのから、いい迷惑である。

 瑠璃羽は彼を睨むと無言で説明の続きを促す。


「ねぇ、ルリ。妖怪が眠っている間に“妖の雫”はどうなると思う?」

「その妖怪が持っておくんじゃないのか」


 嫌な予感を覚えながら瑠璃羽が答えると、彼はくすっと笑って否定した。


「いいや。“妖の雫”は魂の半分だからね、いわば心臓。“妖の雫”が壊されるとその持ち主の妖怪は死ぬ。無防備に十年間眠っている時に“妖の雫”を持っていたら、偶然本体が見つかっちゃった時に“妖の雫”を奪われて良いように扱われて死んじゃうよ。だから妖怪は“妖の雫”をどこか安全な場所に隠すんだ。

 ところで“妖の雫”は他の妖怪にとって凄く美味でね、食べると妖力とかが格段に上がるから妖怪たちは皆こぞって“妖の雫”を欲しがる。つまりこの秘儀は“妖の雫”を作った妖怪がちゃんと安全な場所に隠して自分の命を守り切れるか、もしくは他の妖怪が“妖の雫”を奪うかの壮絶な競争というわけなんだ。

 そういうわけで、この“妖の雫”を作り出す秘儀を妖怪は“御魂隠し”と呼ぶ」


 彼の説明を聞く内に瑠璃羽の顔色は青から白へ変わり、終わった時には信じられないと言う顔で口をパクパクさせていた。


「あ……あ、あんたっ!! あたしに断りもなく、何とんでもないことをさせてくれてるんだ!?」


 彼の話を要約すると、瑠璃羽はこの十年間“妖の雫”を通して彼の命を守ってきたことになる。

 実際に奪われたことはないが、“妖の雫”を他の妖怪に奪われていたらと思うと血の気が下がる。運よく瑠璃羽が妖怪たちの魔の手から石を守りきれたから良かったものの、奪われたらどうするつもだったのか。

 思わず怒鳴り、彼の服を掴み上げる。


「緋絽!!」


 どういうつもりだと叫ぶために大きく口を開けた瞬間。彼はにっこりと笑顔で瑠璃羽の口に何かを放り込んだ。

 ごくん、と反射でそれを飲み込んでしまう。


「「「……………………」」」


 沈黙が場を支配した。

 彼はにこにこと笑みを浮かべ、少年は唖然として、瑠璃羽は彼に掴みかかった状態で数秒硬直した。


「い、今。あたしに何を飲ませた」

「さぁ、何だろう」

「吐け、緋絽。いいからさっさと吐け」

「何だと思う?」


 なかなか教えようとしない彼をがくがく揺さぶっていると、少年が呆然と答える。


「……“妖の雫”」

「何だって?」

「あんたが飲み込んだの、あの石だ。――“妖の雫”」


 少年の言葉に瑠璃羽の頭は真っ白になった。


「…………は?」


 一つ、間抜けな声を洩らして彼を見上げる。


「美味しかった?」


 彼は笑顔でわざとらしく小首を傾げる。

 その瞬間。ぶちっと瑠璃羽の中で何かが切れる音を聞いた気がした。


「こぉぉのぉ、すかぽんたんのおたんこなすび――――っっ!!!!」


 ぐわしっと元々掴んでいた彼の服の襟をしっかりと握りしめ、足払いを仕掛け、流れる動作で瑠璃羽は彼を背負い投げた。一本! と審判がいたら叫びそうな見事な背負い投げが決まる。

 いたたた、と木目の床に叩きつけられた彼は笑い混じりにつぶやいている。

 至近距離から彼に迫り、瑠璃羽は低く脅した。


「緋絽。何考えてんだ、本当に。あんなもん食わせて何がしたい、答えろ」


 瑠璃羽の怒気もどこ吹く風で彼は答えない。瑠璃羽はぎりぎりとその首を絞めつけるが、それで妖怪の彼を殺せるはずもない。

 代わりにまた少年が答えた。


「盟約だ」

「何だ、それ」

「一生連れ添う相手に自分の一部を飲ませて、交わる儀式のこと。本来は大量の血とかを交換して軽く命を落としかけることがあるんだけど……普通、“妖の雫”を飲ませるかよ……、あんた、厄介なのに見初められっちまったんだな」


 少年の同情の眼差しに瑠璃羽は情けない表情を返し、自分の下に押さえつけている彼に恐る恐る尋ねた。


「緋絽。まさかとは思うけど……あたしが好きだとか、言わないよな。あんたはロリコンじゃないよな?」


 妖怪の夫婦がする儀式を何故彼が瑠璃羽にさせたのか、さっぱり分からない。ただ彼と瑠璃羽の間に愛や恋なんて甘い関係は一切ないことは知っていた。何せ最後に会ったのは瑠璃羽が年端も行かない子どもの頃である。彼が当時の瑠璃羽に恋情を抱いていたのなら、恐ろしいものがある。

 幸いなことに彼はその邪推を否定した。


「まさか。友人として大好きさ」

「だよな、あたしもだ」


 ひとまずほっと息を吐くが、疑問は一切解消されていない。


「何でだ? 緋侶、何であたしなんかに“妖の雫”を持たせて、飲ませた? そんなことは将来もっと好きな女性としろよ。それって友人同士でするものなのか?」


 怒りの気配を消し、ただ困惑している瑠璃羽に彼は妖しく笑った。するっと瑠璃羽の下から抜け出し、代わりに瑠璃羽を床に押し倒して身体の上下を反対にする。


「緋絽」


 瑠璃羽の非難も押しのけて、彼は言った。


「ルリ。君はぼくの友人だ。愛してるなんて馬鹿みたいなことを言うつもりはないよ」

「ああ、そうだな。言ったらあたしが殴ってやるよ」


 真顔で言い返しながら、瑠璃羽は背筋が寒くなるほどの嫌な予感に襲われていた。はまってはいけない穴にはまり、侵入してはいけない場所に侵入してしまったような危険な気分だ。

 彼は至近距離で漆黒の瞳にどろっとした感情を浮かべ、ささやく。


「でもね、何でかな、ぼくは君が大好きなんだ。君のすべてを欲しいとまで思わないけど……君が離れて行くのも、ぼくが手放してしまうのも耐えられない」

「……」

「ルリ。ぼくは別に他の人と一緒に居るなとか、ぼくだけを見てとか、そんな器の小さいことを言うつもりはないけどね。――君に一番近い場所にいるのはぼくであって欲しいんだ」

「……意味が分からない」

「そうだね。ぼくも意味分からないよ」

「おい、何だそれ。責任持てよ」


 瑠璃羽は妙な気分になって彼を押しのけて立ち上がる。

 同じように彼も立ち上がり、二人は互いにじっと見つめ合うと苦笑した。


「大した独占欲だな、緋侶」

「意味が分からないとか言いながら受け入れる君も凄いよね、ルリ」


 結局のところ、互いに何がしたいのか分かっていない状況だった。

 瑠璃羽は一つため息を吐く。


「緋侶。あんた、絶対あたし以外の友人がいないだろ。だからそんなことを言うんだ」

「確かにいないけどね」

「あたしが思うに……緋侶は、血の繋がりみたいに、あたしと――友人と何か形のある大切な繋がりが欲しかったんじゃないのか。だって友情なんて、口にしていても目に見えない。簡単なことで壊れてしまいそうで、怖かったんだ」


 口にすると余計に瑠璃羽は自分の説に納得した。彼は昔からどこか無茶苦茶だった。行動原理もその結果も、たいていが意味不明で原因不明。彼の突発的な行動は瑠璃羽をいつも驚かせ、振り回すのだ。

 彼は瑠璃羽の言葉に目を瞬かせると頷いた。


「ああ、そうかも」

「……方法はいくらでもあるのに一番度肝を抜く行動をするところがあんたらしいよ」


 呆れ顔でつぶやき、瑠璃羽は自分の身体を見下ろした。


「妖怪が“妖の雫”を食べたらパワーアップする。じゃあ人間が食べたらどうなる?」

「古今東西聞いたことがないから知らないよ」

「あたしが突然変異を起こしたらどうする気だったんだか」


 ぞっとして瑠璃羽はもう一度自分の身体を確認するが、何も異変は感じられない。少なくともこの場でいきなり化け物になることはなさそうだ。


「あ、そうだ。話は逸れたけど、あんたはどうするの」


 くるりと瑠璃羽は状況を傍観していた少年を振り返り、声を掛ける。

 少年は二人に呆れと諦めの混じった顔を向けた。


「どうするも何も、目的のものはあんたの腹の中だし……。もう奪えるとも思ってなかったけど……」

「お姉さんのことは?」

「……。別の方法を考えて、駄目なら特攻する」


 どこか弱々しい表情で少年は肩をすくめた。

 返す言葉がなくて瑠璃羽は黙る。少年に対して謝るのも、お礼を言うのも筋違いな行為だ。


「見逃してくれるなら、俺は帰る」


 ちらりと彼の方を確認して少年はあっさりと二人の前から消えようとする。

 気が付くと瑠璃羽は一歩前へ踏み出し、それを引き止めていた。


「待った」

「何だよ?」


 いぶかしげな少年の視線に瑠璃羽は視線を彷徨わせて、最終的に彼に視線を向けた。


「緋侶。あんた、その子のお姉さんを助けに一緒に行ってあげて」


 瑠璃羽の提案はどちらにとっても予想外で、それぞれに驚きを表す。


「ちょ、待ってくれ! あんたたちには関係な」

「君は黙ってて!!」


 ぎろっと瑠璃羽に睨まれて少年は口を閉じる。

 彼は面白そうに瑠璃羽の言葉を待っていた。


「だいたい、今思い出したけど、あたし緋侶からまだ謝罪もお礼の言葉も受け取ってないんだけど。理不尽じゃないか。というわけで、緋侶、罰としてその子のお姉さんを助けてあたしの前まで連れてきて。もちろん無傷でその子も一緒に、だ。それまであたしの前に顔を出すな。もしものうのうと顔を出したら今度こそ絶交してやる!」


 屁理屈をこねている内に本当に腹が立ってきた瑠璃羽は目元を険しくしてだんっと足を鳴らした。

 瑠璃羽のこじつけとしか言い様のない言葉に少年は唖然とし、彼は少し首を傾げた。


「うーん。絶交は困るね」


 分かったよ、とあっけないほど簡単に彼は瑠璃羽の要求を受け入れた。

 これには瑠璃羽も意外そうな顔をする。


「ふぅん。ダダをこねないんだ?」

「まぁ、十年ぶりの友人の我が侭くらい叶えてあげようと思って」

「……何でそんなに機嫌が良いわけ」


 眉をひそめて瑠璃羽は彼を凝視する。素直で機嫌が良い彼ほど不気味なものはない。


「まぁ、いっか。――それじゃあ、緋絽。あたしはもう帰る。めっちゃ疲れた。約束を果たすまで顔を見せるな」

 最後に一際大きなため息を吐いて瑠璃羽は少年と彼に背を向けた。すたすたと歩いて神社の本堂を出ようとして、振り返る。

「緋侶。あたしの家は覚えてる?」

「心配しなくても覚えてるさ」

「ん。じゃあ、またね」


 ひらりと手を振って、瑠璃羽は今度こそ神社から出た。時刻は朝で、もうそろそろ高校のHRが始まる時間帯だが、学校に行く気は壊滅的に失せていた。

 行きは必死で山肌を駆け上ったが、帰りはきちんと階段を下りていく。途中、ふと瑠璃羽は立ち止まって青褪めた。


「あれ、“妖の雫”を食べちゃったら、今度はあたし自身が狙われたりして……?」


 それは瑠璃羽にとって半分正解で半分間違った見解だったが、この時の瑠璃羽が知るはずもなかった。






 ******








 本堂に残された二人は瑠璃羽を見送ると無言で互いを見つめた。少年は疑わしげな目を彼に向け、彼はひょいっと肩をすくめて少年の視線を受け止める。


「ちゃんと約束したからねぇ。不本意だけど助けてあげるよ」

「……信用できねーよ。妖怪は普通、約束を守ったりしないじゃん」

「そりゃあそうさ。そもそも約束なんて概念を持ってないんだからね」


 それを言ったら、と少年は思う。“友人”という概念もまた人間特有のもので、妖怪の間にはないものだ。妖怪は基本的に自分本位で、群れることはあっても助け合うことはなく、馴れ合うこともない。強力な妖怪ほどそれは顕著だ。

 そんな少年の考えを見透かしたように、彼は言った。


「君はぼくと同じ“名前付き”だね」


 じり、と少年は後退する。

 “名前付き”とはその名の通り、固有の名前を持つ妖怪のことだ。基本的に妖怪は自分の名前を持たない。ほとんどの妖怪はそれぞれの“通り名”によって区別される。

 しかし稀に自分の名前を他者から与えられる妖怪がいるのだ。名前を与えた者と与えられた妖怪の間には血縁関係以上の深い絆が生まれ、名前を与えられた妖怪は名づけ親に存在を縛られる。

 それは自由気ままな妖怪にとって忌むべきことであったが、“名前付き”の妖怪は名前を持たない妖怪に比べて段違いに強くなる。

 妖怪とは『視』える者を選ぶ存在である。まったく霊感を持たない人間や生き物は妖怪の存在に気付かない。それは世界に置いて存在が希薄であることを意味し、“名前付き”となることで妖怪は世界に確固たるものとして認識されるようになる。その存在感の違いが妖怪に力の差として現れるのだ。


「君の名前は?」

「教える義務なんかねーよ」

「ああ、挨拶がまだだったかな。ぼくは緋侶。察しの通り、名付け親はルリだよ」


 まったく他人の言葉に耳を傾けない彼の様子に少年はげんなりとした顔になり、諦めて不機嫌そうに名乗り返した。


「……倞士」

「それじゃあ、行こうか、倞士」


 くるりと彼は踵を返すとすたすたと本堂を出て行こうとする。

 少年は慌ててその後を追った。


「ちょっと待てよ! どこに行く気だっ」

「君のお姉さんを助けに行くんじゃなかったのかい」

「あんた、姉ちゃんがどこにいるのか分かってるのか!?」

「知ってるわけないじゃないか。だから君がさっさと連れて行ってくれないと」


 くすくすと笑いながら振り返った彼を見て、少年は唖然とする。脱力に肩を落として本堂を出ると開かれたままの神社の木戸を慎重にぎぃっと音を立てて閉じる。


「……この町の北に八峰山ってとこがあるだろ。その山のどこかに姉ちゃんと姉ちゃんを攫った妖怪がいる」

「ふぅん。近場で良かったよ、今日中には解決できそうじゃないか。あんまり遅くなってルリに絶交されるのは嫌だからねぇ」

「姉ちゃんを攫った妖怪、そこそこ強いんだけど」

「それをぼくに言うの?」


 にぃと唇を歪めて、自信満々に笑う彼を見て少年は頭を横に振る。

 彼以上に強い妖怪は日本中を探してもそういないに違いない。彼ほどに強い妖怪が一時的にでも味方になったのだから、少年は安心してもいいはずなのに、湧き上ってくるのは頼もしさより不安が大きかった。


「なぁ、あんたは何で御魂隠しなんてしたんだ? そんな危険なことしなくたって、あんた元々充分強いだろ」


 少年の見立てでは、御魂隠しを成功させる前の彼でも姉を攫った妖怪より充分に強く日本屈指の妖怪であったはずだ。今更力を底上げしなくても良かったはずである。

 例え瑠璃羽との間に強く、確固たる絆を作り上げるためだとしても、方法が回りくどすぎる。彼がもっと簡単な方法を思いつかないほど愚かには見えなかった。

 彼は少年の懐疑の視線を受けて、うーんと首を傾げた。


「まぁ、君とはちょっと長いお付き合いになりそうだしねぇ。教えてもいいけど」

「長いお付き合い? あんたとはあんまり関わりたくねーよ」

「ぼくの勘はよく当たるんだよ」


 事実、二人は瑠璃羽という共通の友人を持つことによって長い付き合いになるのだが、そんなことはどちらも知らない。

 彼はすっと目を細めると、瑠璃羽が去って行った方角を見た。


「君はこの町に陰陽師の家系がいることは知ってるかい?」

「っ……陰陽師!?」


 少年はぎょっと目を剥く。

 陰陽師とは妖怪を滅することを生業とする、唯一妖怪と対等に渡り合う人間たちのことである。彼ほどの妖怪にとっては脅威ではないだろうが、少年にとっては充分な脅威だ。天災と同じで不遇にも出会ってしまえば簡単に滅ぼされかねない。

 少年はつかの間唖然として、慌ててそれを否定した。


「そ、そんなわけねーって。俺はもうずっとここに住んでるけど、陰陽師の噂すら聞いたことがないもん」

「うん、そうだろうね。その陰陽師の家系って言うのが、ルリのことだからねぇ」

「へ? あ、あの女、陰陽師だったのか!? でも、そんな気配は全然……」

「ルリ本人は自分の実家が陰陽師だなんて知らないよ。もちろん、自分が陰陽師の中でもトップクラスの霊力を持ってて、その血が妖怪にとってとっても美味だなんて知りもしない」

「……そ、そんなことがあるのかよ」


 少年はつい先ほどまで一緒に居た瑠璃羽のことを思い出す。彼女はただ妖怪が視えてしまうだけの少女だった。普通の人間と変わらないほどの強さしか感じられなかったからこそ、少年は彼女に目を付けたのだ。


「ん? だったら、もしかして……だから“妖の雫”を十年も守り切れたのか?」


 何の力も持たない人間が妖怪にとって最上級の餌である“妖の雫”を十年も守り切れるはずがない。これまで生きて来られたこと自体が奇跡だった。

 彼はくすっと笑う。


「ルリの周りには彼女の一族によって最大級の守りが成されてるんだ。だから、賢い妖怪はルリに近づかない」

「あんたはどうなんだよ」

「そう。ぼくは知り合ってしまったからねぇ、ルリと。でも、いくら生まれつき強い妖怪のぼくでも、ルリの傍に……陰陽師たちの目を誤魔化しながら、滅されずに居続けるのは難しかったんだよ」

「それじゃあ、まさか」

「分かったかな? ぼくはルリの傍に居ても、陰陽師たちがおいそれと手出しできないくらい強大な妖怪になりたかったんだよ」


 なるほど、と少年は小さくつぶやく。

 陰陽師はどんな妖怪にとっても天敵だ。どれほど強い妖怪でも陰陽師に徒党を組まれて襲われれば無事ではいられない。もちろん彼が瑠璃羽の傍に居続けることもできなかったはずだ。

 そこで彼は瑠璃羽から名を貰い受け、自らの“妖の雫”を預け、さらに大成した“妖の雫”を飲ませることで何人たりとも侵せない強すぎる絆を作った。

 瑠璃羽の一族も四六時中、その傍にいるわけではない。まさか瑠璃羽が“妖の雫”なんて希少なものを無自覚に持っているとは思わなかっただろう。

 彼の意図を理解した少年は呆れと感嘆の混じった視線を彼に向けた。


「……そこまでして、あの女の友達でいたかったわけ?」

「うん。君には分からないだろうけどね」

「分からねーよ」


 妖怪は束縛を憎む。他者との繋がりも束縛と捉える生き物だ。

 その点において、姉から名前を貰い人間社会に紛れて暮らしている少年も妖怪の例外の範疇に入るのだろう。

 そんな少年の目から見ても彼は異常だった。自ら束縛を望み、強固どころか複雑に絡み合って永遠に解けないほどの関係を、それも陰陽師の家の娘を相手に望むとは。

 理解できない存在を胡乱な目で見つめ、少年はふと息を吐いて北の方角を見た。そこに少年の姉は囚われている。


「でも。――名前を貰えるってのは、嬉しいよな」


 たいていの妖怪はその喜びを知らないだろうが、彼は笑みを深くして頷いた。




――その日の夕刻、八峰山において一人の妖怪がひっそりと消滅した。







 *****









 静かな夜だった。空には三日月が浮かび、雲が穏やかに流れる寝心地の良い夜。

 瑠璃羽は久しぶりに一人暮らしをする自宅でぐっすりと眠っていた。その胸元には十年在り続けた石はない。穏やかな寝息を洩らしながら瑠璃羽はごろりと寝返りを打つ。

 かた、と瑠璃羽が眠る部屋の窓が音を立てた。鍵が掛けられているはずの窓は難なく開き、夜風が部屋に舞い込んでカーテンを翻す。

 侵入してきたのは見た目も異様な存在だった。真っ赤な、燃え盛る炎のような髪は長く後ろ首で一つにくくり、纏う衣服は緋色と白の着ながしに似た衣装である。顔立ちは抽象的で、身体つきを見なければ女性に見紛いそうだ。

 静かに侵入を果たした彼は慎重に窓を閉め直し、ゆっくりとベッドで眠っている瑠璃羽に近づく。髪と同じ色の瞳が穏やかに細められた。


「……ルリ」


 彼は囁きかけ、瑠璃羽の顔にかかった髪の毛を優しく払いのける。瑠璃羽を起こすつもりはないらしくベッドの横に座り込む。


「約束は守ったから絶交はしないよね」


 少しだけ安堵した様子でつぶやき、彼は十年ぶりに見る瑠璃羽の寝顔に過去の姿を重ねた。

 昔、瑠璃羽と初めて会った時も彼女はこの部屋で一人眠っていた。


「……初めはちょっとつまみ食いしてやろうと思って来たんだけど」


 陰陽師の血肉は妖怪にとって美味だ。力の強い陰陽師ほど、その美味しさは増す。瑠璃羽は陰陽師の血筋でありながら陰陽師の力を自覚していない稀有な存在で、彼にとっては格好の餌だった。


「君が、ぼくに名前を付けたりするからだよ。そんなことをしなければ、苦労もせずにぼくの妖力の肥やしになっていたのに」


 十年前、彼の侵入に気が付いた瑠璃羽は寝ぼけ眼で彼を見つけ、首を傾げた。たった八歳で自宅に両親もなく、一人で留守をし続けてきた瑠璃羽には明らかな不法侵入者も良い話し相手に見えたらしい。

 人間の子どもの戯言に興味半分で付き合って、流れで名前を付けられてしまった。


『名前がないなら、あたしが付けてあげるよ』


 そう笑って瑠璃羽はいきなり国語辞典を取り出した。何をするつもりか、と彼が問えば彼女は不思議そうにさも当然という顔で言ったのだ。


『どんな名前にも意味がある。適当に付けていいものじゃないんだよ。だからあたしも適当に付けたりしないんだ』


 目を瞬かせて驚く彼を放置して、彼女は丸々一夜国語辞典を片手に彼の名前を考えた。


『――緋絽。綺麗な緋色をしてる、あたしの友達』


 人間に擬態していない、彼の妖怪としての本性の姿を見つめて瑠璃羽はそう名付けた。

 安易な発想だが子供が付けたにしては凝った名前を、彼は迂闊にも気に入ってしまったのだ。そうして彼に“緋侶”という名前が与えられ、緋侶は瑠璃羽を食べられなくなった。名付け親を喰らう妖怪はどこを探してもいない。

 ひと夏の間、緋侶は瑠璃羽の傍に居た。人間に擬態してまで彼女と一緒に居続けた。それは思いの外に穏やかで居心地のいい場所だったから、緋絽は手放すのが惜しくなってしまったのだ。

 だから無茶もいいところの約束を瑠璃羽に取り付けた。


『もし君がそれを守りきれたら……また会おう』


 何の説明もせずに幼い瑠璃羽に“妖の雫”を預けた。瑠璃羽がそれを守り切れるかどうかは五分五分の賭けだった。他の妖怪に奪われるか、瑠璃羽の親戚の陰陽師たちにその存在がばれるか、あるいは瑠璃羽が約束を守りきるのか。

 自分と瑠璃羽の命すら賭けた大博打に緋侶は面白半分、もう半分は真剣に挑んだ。


「……そしてぼくらは賭けに勝った」


 ことっとベッドの柱に身体を預けて緋侶は瑠璃羽に小さく笑いかけた。

 勝手気ままが信条の妖怪として、たかが一人の人間の子どもに振り回されていることを良しとしたわけではない。瑠璃羽を繋ぎとめようとする反面、瑠璃羽を殺して再び自由になることを望む気持ちもある。

 しかし昔も今も、緋侶がそれを試みたことはなかった。


「できないんだから、仕方がないよね」


 ただの友人よりも、心友よりも、恋人よりも、血縁よりも。何より強い絆を結んでしまった瑠璃羽を緋侶はもう手放せない。傷つけることなど論外だ。

 緋侶はカーテンから覗く月夜を見上げて小さく吐息を吐いた。


「――本当に。大好きだよ、ルリ」

 


 かくして妖怪と人間は交わり、夜は静かに更けていく。





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