王道――とある勇者の物語――
帝都にて、小さくも民衆に愛されるパン屋があった。そこの一人息子はえらく働き者で、一体どれだけの者が母親からパン屋のヴェイルを見習えと小言を聞かされた経験があることか。
そんなヴェイルには、生まれながらに決められた運命というものが科せられていた。魂に刻み込まれ、逃げることが不可能な重責。歯車は、彼がパンの配達の帰り道で倒れていた一人の老人を助けたことから回り始める。
老人は枯れ木のような手でヴェイルの腕を力強く掴みながら言った。
「ワシのような薄汚れた相手でも躊躇なく、分け隔て無い優しさを与えられる美しい心根を持った者を探しておったのだ」
そうしてヴェイルの額に触れ、何やら怪しげな古語を唱える。老人は世界の理を知る呪術師だった。
人差し指の先、触れ合う箇所を中心に、額では白銀に光る美しい紋章が浮かび上がっていた。それは目を開けていられないほど輝くと、一瞬にしてヴェイルの体内へと消えていく。
迫力に気圧され、されるがままであったヴェイルが正気を取り戻した時には、目の前にいたはずの老人は消えていた。家に戻ってから額を確認したがこれといって変化はなく、そこに幾何学的な紋章が浮かんでいたことを本人は知らない。
とても印象的な出来事だったが、穏やかな日々が数年続いたことで、いつしかヴェイルの中でそれは夢として片付けられた。記憶は薄れ、彼はパン屋を継いで働き者の立派な青年へと成長する。
けれどもある年の、皇帝陛下の誕生祭が帝都にて盛大に開かれた日だった。城にてその皇帝陛下が暗殺されるという大事件が起きてしまう。国の重鎮たちは事実を城内に留め事態の収拾を図ろうとしたが、黒幕の思惑通り尽力虚しく国は混乱した。
近隣諸国がここぞとばかりに帝国を狙って侵略を開始し、そこからさらに新たな戦いが繰り広げられ、そうして戦乱の世が生まれた。
戦火は瞬く間に帝都を包みこみ、民衆は家を国を捨て、逃げ延びることに必死となる。パン屋のヴェイルもそうだった。
けれど予想以上に進軍が速く、ヴェイルが逃げる頃には帝都の周囲は敵兵だらけになってしまう。最早自国の軍人は、国と共に散る覚悟は持てても、民を救う活路を切り開く術はない。地に伏してしまった者達のほとんどが、背に傷を負っていた。
そんな中でもヴェイルは、日々パン生地をこねて鍛えた腕で年老いた母を背負い、父を労い、けっして見捨てようとせずなんとか街の外れまで逃げていた。
けれど無情にも、まず母が流れてきた矢によって帰らぬ人となってしまう。父もまた、ヴェイルを庇い血を流した。二人はどちらも、彼に生きろと言って光を失う。
ヴェイルは悲しみに咆哮する。そんな彼の目の前で、流れる剣技によって敵軍に奮闘する人物がいた。見るからに高貴な服を血と泥で染め、仲間が次々と倒れてもその青年だけは諦めを映さず舞っていた。
父の亡骸を抱きながら、あまりの美しさでヴェイルは思わず見入ってしまう。けれど、その人物もまた、剣に矢に屈する時がくる。我に返るも、出来ることはなにもない。
青年の心臓へ矢が、背中では剣が振り上げられていた。ヴェイルが叫んだのは必然であった。
「やめろ――!」
その瞬間、忘れていた記憶と共に真のヴェイルが目覚める。額から紋章が浮き出て光の矢が生まれ、青年を今まさに襲おうとしていた脅威を跳ね除ける。爆発的な力は、その場の敵を一掃していた。
視界に広がる複雑で摩訶不思議な紋章は、徐々に速度を上げて回転しながら収縮していき、状況が呑み込めず呆然とするヴェイルの右手の甲へと居座ってしまった。全身に何かが満ちる感覚は、まるで生まれ変わった気にさせた。
悔しくも父を瓦礫の上に寝かせ立ち上がったヴェイルは、たった一人救えた剣士の青年へと近づく。呆然としていたのは同じだが、ヴェイルが動いたことで動揺を押し殺し剣を構え直す。
僅かに怯んだヴェイルだったが、それでも彼は勇気を振り絞って声を掛けた。
「あの、お怪我は?」
「貴様、何者だ」
自分と歳の変わらない青年には、気品と呼べるものが満ちていた。
ヴェイルは瞠目する。青年の顔には良く覚えがあった。おそらく帝都の民衆であれば、知らない者など居ないだろう。
「ニコラ第一皇子……殿下」
それが、後に大国を築くこととなる者達の出会い。二人は国を失った日に、唯一無二の友を得る。
パン屋のヴェイルの運命に翻弄される人生は、そうして始まった。
帝国が崩れた後も、戦乱の世は一向に静まる気配をみせなかった。元皇子ニコラは、国の再建を胸に誓い水面下で生き延びていた。その隣には、かつてはただのパン屋であったヴェイルが居る。
呪術師であった老人から幼少の頃に授かっていた世界の理にも繋がる力は、強大故に使いこなせるまでに長い修行を必要とし、実力を身に付けた頃のヴェイルはもはや心優しき青年ではなくなっていた。
それは友ともなったニコラの大願を現実とする為に、ヴェイルが払った犠牲であったのかもしれない。慈しみを失った彼は、いつしか冷酷な呪術師と呼ばれるようになってしまう。仲間が増え、守るべき者達が増えればさらに、非道な所業が目立っていった。
敵は敵として切り捨てなければ、かつて経験した全てが炎に包まれる地獄絵図が再現されてしまう。ヴェイルはもう失いたくなかったのだ。母や父のような悲劇を繰り返したくなかった。
それはニコラもまた同じであった。彼等は平和の世を作り上げるため必死だった。その為に時には目の前の不幸を見ない振りして無視したこともある。
けれど、多くの苦悩と悲しみを乗り越えたことで、神は二人に微笑んでくれた。帝国が滅び戦乱の世が訪れてから数十年。自分たちの幸せをそっちのけで血の道を駆けてきた男たちはとうとう、いくつかの国をまとめることで新たな国を築きあげた。消えた国は全て、こぞって戦争を起こしてきたところである。
パン屋の心優しき青年ヴェイルは、この時には畏怖を込められ国崩しの覇者ヴェイルとなり世界に名を馳せていた。彼が居なければ、ニコラの野望は潰えていただろう。
だからこそニコラは、新たな国の王冠を戴くのは自分ではないとそれを補佐することを望んだ。ヴェイルは拒絶したが彼の意思は固く、平和と共に築かれる新たな国の戴冠式によって誕生するのはパンを作れる王となった。
しかし、それは新たな不安も同時に作ることになってしまう。二人は確かに戦乱の世を治め、平和を取り戻してくれた。けれど、それまでの道のりには多くの悲しみもまた存在した。国崩しの覇者によって国を失った者も多い。
戴冠式の朝、中々起きてこないヴェイルを案じたニコラが寝室を訪れた時に広がっていた光景は、彼らの業だったのだろう。真っ白なシーツに広がる赤い染み。ヴェイルは大量に吐血し、既に手遅れな状態だった。
「ヴェイル!」
「ニ……コラ、悪い……」
ヴェイルの傍らには、毒が仕込まれた水差しが転がっていた。
急いで医者を呼ぶも間に合いそうになく、こんな所業が出来るのは信頼を置いていた者の誰かという事実がさらにニコラを打ちのめす。けれどヴェイルは笑っていた。
「やっぱ、俺には、無理みたいだ」
「ヴェイル、しっかりしろ!」
「約束……頼む、な?」
それが、友の為自らを染めた者の末路だった。
力を失い滑り落ちる手をニコラが強く握っても、二度とそこに意志が宿ることはない。
そうしてパン屋のヴェイルは、笑顔溢れる国を取り戻したいと願った友との約束の礎を築き、その一生を終えた。
大国の王冠は結局ニコラの頭上で輝き、彼は失った友も含めそれまでに流れた多くの血を背負って赤いマントを翻す。大国はたったの一代で、長きに渡り世界を平和にしたという。歴史の始まりに真人と呼ばれた王になれなかった者を宿して――
雲一つない青空と長閑な森が広がる空間で、一人の女性が透き通る湖を覗き込んでいた。
不思議なことに空はあれど鳥は飛ばず、森はあれど動物は見当たらず。風も木の葉を揺らそうとしない。
女性は水面に映っていた世界の一部を鑑賞し終えると、鼻歌混じりに振り返る。すると背後には一人の男が佇んでいた。彼は閉じていた目を抉じ開けると、乱暴に口元を拭う。
そして鋭い眼光を女性に向けた。
「ふざけんなよ、おい!」
「いやー、おしい! 未だかつてないほど、最高におしかった!」
「おしいじゃねぇよ、意味わかんねぇ。完璧だっただろうが!」
「残念でしたー、そうじゃありませーん。コボナの村で女の子を一人助けて、んでもってその子が恩返しに現れて惚れちゃうも愛ゆえに見守り、そのくせちょちょっと遊んだだけなはずの侍女を後宮に入れれば、まだいけたかもしれないけどね!」
全身で憤慨する男は驚くべきことに、先ほどまで女性が眺めていた光景で何度も映っていたヴェイルその人だった。けれど、彼女に対する態度がおおよそニコラなどが知っているヴェイルからは程遠い。
しかも、女性に一歩近づくごとに身体が変化していき、彼女の肩を掴む頃には歳も顔もヴェイルとは全く違う溌剌とした青年へと変貌していく。
「まじかよ! だったらそっからリセット、リセットしろ!」
「だめですぅー。そんなシステムございませんー。しかも残念ながら、丁度今そのルートも仕様済みとなりましたぁ」
「はあ? お前神様だろうが、そんくらいちょちょっとやれって」
「ちょちょっとできたら神様なんていらないじゃん! そもそも、今回のは全体的に覇王ルートをギリ避けてたって感じでイマイチだったしぃー」
二人はそれが当たり前なのか、驚く素振りは一切見せず、何やら熱く言い合っている。
女性は小馬鹿にした態度でどこからか分厚い本を取り出し、男に見せながら唇を尖らせていた。
聞き間違いだろうか。いや、女性は確かに神と呼ばれている。にしては威厳も何もあったものではない。
「失礼な! 心優しいパン屋の息子からの世界最強の呪術師、んでもって恐ろしい国崩しの覇者のどこにイマイチと言われる要素があるんだよ」
「だって結局、あの皇子さまの分も泥被っただけじゃん?」
「それを言ったらお前、元も子もないだろうがよー」
打ちひしがれたように草の上に手を付いた男の背中を椅子に、女性がケタケタと朗らかに笑う。とても楽しそうだ。
女性は世界の理そのものでもあり、それを管理する立場でもある神と呼ばれていた。そして男は、彼女に選ばれた勇者を名乗る人間。二人はかつて、世界が危機に瀕した際に出会い、戦い、そうして一つの契約を交わした。
きっかけは、命を掛けて戦ってくれた勇者に対し、神様がささやかながらも褒美を与えようとしたことだ。
願いを一つ叶えよう。そう告げた慈悲深き神へ、心根の真っ直ぐな勇者は言った。
「私を神にして下さい」
一体どこに勇者らしさが込められているのだろう。強欲としか言えない。
けれどその瞬間、美しき女神は爆笑した。どこに慈悲深き神らしさがあったのやら。心行くまで笑った後、繰り出された突っ込みは大抵の人間なら死ぬであろう強力な雷だった。
「無理だ、馬鹿者」
「いやだって、王様とかー、なにもいりませんとかー、そんな回答ありきたりじゃん? 世界平和が言葉一つで可能なら、俺ってば必要なかったし?」
「ありきたりが嫌なのか」
そうして始まったのがこのゲーム。ありきたりが嫌いな勇者へ、ちょっとズレた神様は言った。だったら誰もなったことのない王になってみよ、と。前例のない王とならない限り王冠を戴くことはできないがその代わり、それまでならば何度も生まれ変わらせてやろう。
神様ゆえの悪趣味な提案は、そうして世界を救った勇者を何度も殺した。始まりを作れば、もしかしたら神となれるかもしれないと期待を込めているなど、本人には絶対に言えない。
けれど、神様も知らない。勇者が実はいつだって王道から外れてしまわないよう、細心の注意を払っていることを。
自分が勇者になった時とゲームを始めたばかりは、この空間に入ることすら出来なかったことも、忘れることばかり得意な神様は覚えていないだろう。死に続ける限り、彼女が一人に戻ってしまうことはない。
そんなわけで、とある世界の勇者は、ある時を境に生まれなくなったそうだ。
しかし、勇者を必要とする出来事が生じる度に、必ず王になれなかった王という存在があるらしい。彼らは誰しもが、志半ばであるにもかかわらず、笑顔で逝ったという。
それは神を愛した不届き者の末路。心根がある意味真っ直ぐで、したたかな勇者が愛しき者に会う為の唯一の手段。世界は彼の手によって、幾度となく救われた。
お粗末さまでした。
くだらなさ満点な短編でしたが、楽しんでいただければ幸いです。
ストーカー気質な勇者がいたって良いじゃない。