謝罪は結構、婚約はお断りです
婚約者に謝ってもらうより先に、ケルミナには立ち上がる許可が要るらしい。
「謝るまで立つな。リゼットが傷ついているんだ」
レオネルが彼女の肩から手を離した。侯爵家の客間で、伯爵令嬢のケルミナは床に膝をついている。お茶会の席から立った彼に肩を押され、よろけたところだった。
目の前には割れた眼鏡がある。侍女のフリダが落としたものだ。
「フリダ、待って。そこは触らないで」
手を伸ばした侍女を止め、ケルミナは手袋を外した。細かな破片はそれに包み、眼鏡の枠を拾い上げる。
「お菓子を渡したのはわたくしです。あなたにも先ほどお伝えしましたでしょう」
レオネルの幼馴染リゼットが、長椅子で顔を覆う。
「でも、家のものを勝手に持ち帰ったのは本当じゃない」
「持って帰って召し上がって、とわたくしが言いましたの」
フリダには今日、母親の見舞いの休暇が出ていた。菓子を包んだのはケルミナだ。彼女も侯爵夫人から残りをもらってよいと言われていた。
レオネルは口元だけで笑った。
「たかが菓子で揉めるな。君が謝れば済むだろう」
腹が立った。菓子の大きさと嘘の大きさを同じにしないでいただきたい。
「フリダ、こちらを持っていて。針仕事もできそうにない眼鏡ですわね。わたくしの刺繍のほうがまだましです」
フリダの唇が動いた。少しだけ笑おうとして、失敗した。
ケルミナは眼鏡を渡し、自分で立った。
「わたくしが渡しました。彼女は盗んでおりません」
「だから、もういい。リゼットもそれでいいな?」
「レオネルがそう言うなら……」
リゼットが顔を上げた。目元を押さえたまま彼の袖を引き、隣に座るよう手で示す。
彼はケルミナから背を向け、そこへ腰を下ろした。
「フリダを叱っておいて。母上の許可があるとしても、先に僕に言えばよかったんだ」
「申し上げました」
「もう揉めるなよ」
茶の冷めたカップが彼女の席に残っていた。ケルミナはそれを飲まず、荷物を取りに来た従僕へ帰りの馬車を頼んだ。
客間にはほかの客もいた。どこを見ればよいか分からない顔で、カップへ手を伸ばしたり膝の上の扇を開いたりしている。
廊下へ出たところでレオネルが追ってきた。
「待て。そんな顔で帰ることはないだろう」
彼女が足を止めると、彼はようやく彼女の膝を見た。淡い色のスカートに床の汚れがついていた。
「……悪かった。少し強く言いすぎたな」
「肩を押したことも、でしょう」
「悪かったと言った。これでいいだろう?」
ケルミナは汚れを払う手を止めた。
「いいえ。あなたとは結婚いたしません」
彼は口を開けたあと、小さく息を吐いた。
「大げさだな。今日はもう帰って休め」
手が伸びてきたので、彼女は半歩離れた。彼の手がその場で止まる。
「お父上にもお話しいたします。お会いする日時を、わたくしからお願いしておきます」
「両親まで巻き込むのか」
「婚約のお話ですもの」
ケルミナは礼をして階段へ向かった。
謝罪に頷かなかったことより、押された肩のほうがずっと痛かった。
帰宅して母に話すと、イネッサは娘の膝ではなくドレスの染みを見た。
「次に着るまでに落ちるかしら」
「落ちなければ、短くして庭歩きにいたしますわ」
「そういうことではありません」
母は額を押さえた。娘が上手に受け答えできなかったときの癖だった。
「謝ってくださったのでしょう。そこで収めておけばよかったのよ」
「わたくしが立つことまで、あの方に許していただく必要がございますの?」
「その言い方をやめなさい。侯爵家のご子息に向かって」
ケルミナは母の向かいへ座った。膝を曲げると少し痛んだので、スカートの下で脚の位置を変える。
「わたくしはあの方の妻になるつもりでした。召使になるお約束はしておりません」
「召使だって、いつも頭を下げているわけではないわ。あなたがいちいち逆らうから」
「お母様」
「幼馴染の方と張り合うのがおかしいのよ。あなたは婚約者でしょう。立場が違うと分かっていれば、そんな小さなことに」
ケルミナは両手を膝に乗せた。
母へ話せば、一度は自分の肩を見てくれると思っていた。侍女に菓子を渡したことを叱るにしても、そのあとでよかったはずだ。
「小さなことにしてしまうのは嫌ですわ」
イネッサの目が細くなった。
「あなたが好きに振る舞えるのは、お父様の名があってこそよ。あの方が亡くなってから、誰がこの家を守ってきたと思うの」
「お母様です。それは存じております」
「なら、分かりなさい。あちらの家と縁ができれば安心できる。今はよくても、この先まであなた一人で暮らせるとは限らないわ」
母は亡くなった父のためにも、娘の縁談を立派にまとめたかった。ケルミナが子供の頃から、娘のドレスの色と同じくらい熱心に夫の候補を選んできた人だった。
レオネルとの婚約が決まった日には、娘より嬉しそうに笑った。
ケルミナも嬉しかったのだ。
婚約して間もない春、レオネルはこの家の庭を一緒に歩いた。彼女が池に来る鳥の話をすると、足を止めて聞いてくれた。
「そんなに面白いなら、今度はパンを持ってこよう」
あの頃は彼から次の約束をしてくれた。彼女も何を話そうかと、庭に出るたび小さな出来事を覚えておいた。
母の指が卓を叩き、ケルミナは顔を上げた。
「聞いているの?」
「ええ。ですけれど結婚はいたしません」
「わたくし、もう侯爵夫人にお手紙を書いたわ。娘が失礼を申し上げたようで、と」
ケルミナは母の横にある封筒を見た。封は閉じられ、使いの者が来るのを待っている。
「まだ出していらっしゃらないなら、お待ちください」
「もう使いを呼んだの。これ以上こじらせないで」
イネッサは娘の首元へ目をやった。母から借りている真珠の首飾りがそこにあった。
「そんなに自分で決めたいのなら、わたくしの物まで当てにしないでちょうだい。この家も、身につける物もよ」
「首飾りはお返しいたします」
留め具へ手をやると、母が眉を寄せた。
「今ここで外せという意味ではありません」
「では、外したらお部屋へお持ちしますわ」
ケルミナは立った。
自室へ戻り、首飾りを箱へ収めた。それから父の家の管理人へ便箋を広げる。
母に反対されたら何もしない、では話が終わってしまう。
机の引き出しには父の形見の小さな鳥の置物があった。旅先で買ってくれた安物だが、これは彼女の物である。
「あなたはお引越しですわよ」
丸い腹を撫でて箱に入れると、鳥はひどく得意そうな顔をした。
父の遺した家は王都から馬車で行ける領地にあった。今も管理人が庭と建物の手入れをしている。
ケルミナは自分に遺された金額を確かめ、毎月の暮らしに必要な費用を書き出した。
母の家と同じような暮らしはできない。それでも寝室があり、食べる物を買えて、仕事を手伝ってもらう人を雇う余地はあった。
部屋の数だけで住めるか決めてはいけない。暖房に使う薪のことも、水を運ぶこともある。
管理人に尋ねた返事が届くと、彼女は食事の途中で封を切りかけた。
「お嬢様。先にパンを飲み込んでください」
訪ねてきたフリダが慌てて水を渡した。
彼女の眼鏡は新しいものに替わっていた。枠が少し大きくなり、ずり落ちるのを指で押し上げる。
「似合っておりますわ。よく見えまして?」
「はい。お嬢様の指先のパン屑まで」
「あら。手ごわい眼鏡ですこと」
ケルミナが指を拭くと、フリダは少しだけ笑った。
「お母様はお変わりなくて?」
「菓子を喜んでおりました。あの……お礼を申し上げるのが遅くなって」
「気になさらないで。わたくしのほうこそ、ついてきていただけるものと決めてしまうところでした」
フリダが瞬いた。
「ここへいらしたのはお仕事のお話です。もちろん、お茶も飲んでいただきたいけれど」
ケルミナはパンの皿を脇へずらし、管理人の返書を見せた。
「父の家へ移ろうと思っております。そこで働いてくださる方がほしいの。あなたはいかがかしら」
「私で、よろしいのですか」
「お願いしたいから伺っているのですわ。けれど、お母様のおそばにいらしたいなら無理には」
「侯爵家を辞めたいと、申し出てまいりました」
フリダは両手を揃えた。返事をするまでに迷った時間が、指を重ね直す動きに見えた。
「受け入れていただけました。眼鏡のお金と、お詫びのお金も頂いております」
「では、お顔を見せるのもお辛かったでしょう」
「もう頂いたのだから気にするな、とレオネル様には言われました」
ケルミナは手を伸ばしかけ、膝へ戻した。
「それで、あなたはどうしたいの?」
フリダは顔を上げた。
「お嬢様のおそばで働きたいです。母のところへも、休みに帰れるのでしたら」
「ええ。そのお約束は最初に決めましょう。お給金も」
ケルミナは白い紙を引き寄せた。二人で条件を書き留め、母親に見せてもらう分も用意する。
フリダが帰ると、今度は侯爵宛の返書を書いた。
先に出していた面談の申し入れには、ぜひ来てほしいと返事が来ていた。息子から事の経緯を聞き、夫人にも菓子の許可を確かめたという。
会って取りなしたいとは書いていなかった。彼女の話を直接伺いたい、とあった。
ケルミナは出向く日を返した。自分の母も同席すると伝える。
フリダの名を書いたところで筆を止めた。あの子も来たほうがよいと、自分一人で決めるところだった。
まず本人に聞こう。
最後に、自分がレオネルへ渡す返答を別の紙へ書いた。
署名の欄は空けておく。あちらの家へ送るためではない。本人の前で渡すために持っていく。
封をせず、机の引き出しへ入れた。
昼下がり、ダヴィスが母の家を訪ねてきた。
亡父の旧友の息子で、伯爵家を継いだ彼とは幼い頃から行き来がある。彼が庭を歩きに寄るのも珍しくはなかった。
「顔色がいいな」
「よく食べておりますもの。今日は焼きたてのパンもございました」
「それは何よりだ」
彼は彼女の返事だけを聞いて頷き、婚約のことを尋ねなかった。
ケルミナは歩きながら自分から言った。
「お母様と喧嘩をいたしました」
「同席すればよかったか?」
「いいえ。お母様があなたのお話ばかり聞いて、わたくしのお話が終わらなくなります」
「私はそんなに喋らない」
「あなたのお父様の昔話を始めるのよ。ご本人がお留守でも、立派に長話ができましてよ」
ダヴィスは思い当たったらしく、苦い顔をして笑った。
ケルミナは庭の小屋から羽根と板を取り出した。退屈な片づけばかり続いたので、少し遊びたかった。
「お相手をしていただける?」
「先に言っておくが、練習はしていない」
「存じております。練習していたら、わたくしが驚いてしまうわ」
彼が上着を脱いでベンチへ置くと、ケルミナは芝へ降りた。
「左です。ダヴィス様、左!」
ケルミナの声につられ、彼は右へ跳んだ。羽根は二人の間を抜けて芝に刺さる。
「あなたの左はそちらでしたの?」
「君から見て左だと思った」
「まあ。わたくしのせいにするのがお上手ね」
ケルミナが笑い、彼も笑った。父がいた頃からこの庭へ来る彼は、なぜか羽根つきだけは上達しない。
彼女は羽根を拾って渡した。
「今度はこちらからどうぞ」
彼が打つと、羽根は頭上の枝へ引っかかった。
ケルミナは枝を見上げた。彼の顔を見て、もう一度枝を見る。
「木にまでお相手を頼むことはございませんわ。わたくしが退屈に見えまして?」
「君といると退屈する暇がない」
「それはわたくしの台詞です」
彼が笑う顔は好きだった。自分が失敗しても、彼は笑う。もっと気をつけろと叱るより先に、次は自分がやると袖をまくる。
彼は木の下に落ちていた長い枝を拾った。
「これなら届く」
「それで打ちますの?」
「拾うためだ」
「冗談ですわ」
彼は枝を伸ばして羽根を落とし、拾って彼女へ渡した。
彼女が笑うと、彼は一拍遅れて笑った。
何も片づけなくていい時間だった。彼の機嫌を取り直す必要も、自分の役目を探す必要もない。
「来週、引っ越しますの」
「……そうか」
「寂しいときは寂しそうにしてくださっていいのよ」
「していなかったか?」
彼は本当に驚いた顔をした。
「顔じゅうに出しているつもりだった」
ケルミナは羽根で口元を隠した。隠しても頬が上がってしまう。
「でしたら、見送りにいらして。わたくしもお会いしたいわ」
彼はすぐに頷いた。彼女の新しい住所を、今度は左右も間違えずに書き留めた。
レオネルとのことを尋ねられたのは、遊びを終えて手を洗ってからだった。
「話せることなら聞く。話したくないなら、見送りの日だけ教えてくれ」
ケルミナは自分から婚約を断ったことを話した。理由も、長い説明にはしなかった。
彼は濡れた手を拭くのをやめ、彼女の肩へ視線を向けた。
「ケルミナ」
「もう押されるところへは戻りません。お母様のお許しも待っておりませんわ」
言い終えてから、少し早口になったと気づいた。
ダヴィスは頷いた。
「分かった。見送りには行く」
「ええ。お待ちしております」
彼は扉へ行きかけ、振り返った。
「君の家にも、遊べる庭はあるのか」
「ございます。木もありますけれど」
ダヴィスはさっき羽根が引っかかった木を見て、口元を押さえた。
ケルミナはそれを見てまた笑った。
侯爵家へ出向く前の日、フリダは雇用の条件を書いた紙を持ってきた。
母親にも読んでもらい、お願いしたいと返答をもらったそうだ。ケルミナは彼女を部屋へ招き、お茶を頼んだ。
「もうお支度を始めていらっしゃるんですね」
フリダは隅に置かれた箱を見た。
「ええ。片づける前より散らかるなんて、納得がいきませんわ」
「箱へ入れる前に、ご自分であれこれお試しになるからですよ」
羽根つきの板が長椅子へ置いてあった。ケルミナはそっと箱の後ろへ立てかける。
「お話があるの。明日、わたくしは侯爵家へ参ります」
フリダの笑みが消えた。
「存じております。夫人から、私にもお声がかかりました」
「一緒にいらっしゃるかしら。あなたが嫌なら、お断りしようと思っております」
「私が何か申し上げるのでしょうか」
「わたくしが話します。あなたに言わせてから信じてもらうお話ではないわ」
フリダは眼鏡へ触れた。
ケルミナは返事を急がせずに待った。お茶が運ばれ、菓子の皿が二人の間に置かれる。
「……ご一緒してよろしいですか。そばにいるほうが、落ち着くと思います」
「では、ご一緒に」
「お嬢様も、お一人で済ませるおつもりだったのでしょう」
ケルミナはカップを持ち上げかけて止まった。
「そんなに分かりやすいかしら」
「はい」
今度のフリダは怯えずに笑った。
ケルミナは小さく頷き、明日の待ち合わせを決めた。
フリダが帰ったあと、母が部屋へ入ってきた。手にはレオネルの手紙がある。母宛のものだった。
「ほら。あの方も反省していらっしゃるでしょう」
広げられた便箋には、侍女の件も謝ったこと、明日ケルミナにも改めて詫びることが書かれていた。
その先には婚礼の打ち合わせを進めたい、とある。
「お話し合いができてよかったですわ、でいいのよ。何か言われたら、わたくしもそばにいますから」
「お母様。わたくしのお返事は、わたくしがいたします」
「せっかく折れてくださるのに」
「わたくしが諦めて、あの方と結婚するとお思いですか」
母は唇を結んだ。
ケルミナは手紙を母へ返した。取り上げて破る必要はない。自分宛のものではなかった。
「もう寝ますわ。明日もよく食べたいので」
「あなたは本当に、こんな時まで」
「ええ。お腹は空きますもの」
母が帰ったあと、ケルミナは皿に残った菓子を食べた。蜂蜜を使った堅めの菓子で、お茶に浸すとちょうどよくなる。
引越しの荷物より先に、こちらは片づいた。
翌日、ケルミナは母の首飾りをつけずに侯爵家へ出向いた。
隣にはフリダがいる。使用人のための入口へ回ろうとした彼女へ、迎えた家令が正面の扉を開けた。
「皆様、客間でお待ちでございます」
ケルミナはフリダと目を合わせ、それから並んで玄関を入った。
客間には侯爵夫妻とレオネルがいた。母も先に到着していて、夫人の隣に座っている。
リゼットの姿はなかった。
侯爵が立ち、ケルミナへ頭を下げた。
「先日は、当家で不快な思いをさせた」
「お時間を作ってくださり、ありがとうございます」
ケルミナは礼を返した。フリダは客間の扉のそばで足を止めた。ケルミナは侯爵夫妻の向かいへ席を取り、自分の隣の椅子へ手を添える。
レオネルは卓の端に座っていた。その手元には婚礼の招待状が広げられ、まだ名前と日付の一部しか埋まっていなかった。
「ケルミナ、母上から手紙は受け取ったか?」
「夫人からのお手紙は頂きました」
「なら、分かっているな。リゼットにはもう来るなと父上が言った。僕からも言っておいた」
彼は彼女の顔を見た。褒められるのを待つような間ができた。
「それで、全部済んだと思っていらっしゃいますの?」
「まだ怒っているのか。だから、今日はきちんと謝ろうと」
母が口を開きかけた。侯爵が先に息子へ声をかける。
「まず、ケルミナ嬢の話を聞きなさい」
ケルミナは隣の椅子から手を離した。
「フリダを呼んでください」
ケルミナが頼むと、扉のそばにいた侍女が進み出た。レオネルの父が彼女のために椅子を引く。
「座っていていいのよ。今日はお話をしに来たのですもの」
ケルミナは隣を空けた。
レオネルが苛立った顔になる。
「その子にも金を払った。もう済んだ話だろう」
「お菓子を渡したのはわたくしです。あなたにもあの場で申し上げました」
「ああ。聞いた。だから謝っているんだ」
「では、皆様の前でもう一度。それでも彼女を泥棒と呼んだのはなぜですか」
彼の母が息子を見た。彼は襟に指を入れた。
「……リゼットが泣いていたから。君が先に折れれば収まると思った」
フリダの膝で手が握られる。ケルミナは卓の下でその手に触れた。
フリダが握り返した。ケルミナはその手を借りたまま、レオネルへ向き直った。
「わたくしが嘘をつけば、彼女が盗んだことになるでしょう」
「悪かったと言ってるじゃないか。何をすれば許してくれるんだ」
彼の母がカップを置いた。ケルミナの母は顔を伏せたまま、手袋を撫でている。
「わたくしに謝れとおっしゃったときも、そうでしたわね」
「だから、君に謝っているんだ」
「わたくしは謝りませんでした。彼女は盗んでいないからです」
「もうその話はいい。君の言うとおりだ。フリダも分かったな?」
フリダは彼を見ず、ケルミナの手を握っていた。
ケルミナは、その手を離して全部を済ませたくなる自分を止めた。今は借りたままでいい。
「謝ってくださったことは分かりました。婚約は解消してください」
彼は笑いかけて、やめた。
「だから、謝っただろう?」
「ええ。伺いました」
「だったら、どうして」
ケルミナは彼を見た。昔ならこの顔を見るだけで嬉しかった。今は向かいに座っているだけで、あの手がまた肩に触れるのではないかと背中が固くなる。
「もう、あなたとは結婚したくないのです」
声にすると、張っていた背中から力が抜けた。
レオネルは机の上を見た。書きかけの招待状を引き寄せ、彼女の前へ置く。
「来月の式は延ばしてもいい。君の好きな日にしよう。いつならいい?」
彼は招待状の日付の上へペンを構えた。
ケルミナは自分の用意した書面を出した。末尾に名前を書き、彼の手元に置く。
「お渡しします。婚約を解消するお返事です」
「待ってくれ。日取りを聞いているんだ」
「結婚する日は決めません」
彼はペンを下ろせなかった。招待状の二人の名前を見て、彼女の署名を見た。
「……母君だって、こんなことは望んでいない」
ケルミナは母を見た。
「ええ。お母様には反対されました」
イネッサが顔を上げた。ケルミナはその目を見て頷く。
「それでも、わたくしは結婚いたしません」
母は何か言おうとして、言えずに口を閉じた。首飾りのない娘の喉元へ目が落ちる。
レオネルは父へ視線を向けた。
「父上、婚礼を延期すると言えば」
侯爵は差し出された書面を見たが、手は伸ばさなかった。
レオネルがまた彼女を見た。
「ケルミナ」
彼女は立ち、フリダの椅子を引いた。侍女も立ち上がる。レオネルの母が俯いた。
二人が並んだところで、レオネルがペンを持ったまま手を伸ばす。
「ケルミナ。僕は謝っただろう」
「ええ。伺いました」
彼女は一歩退き、フリダと扉へ向かった。
「謝罪は結構、婚約はお断りです」
レオネルのペン先から、招待状へ雫が落ちた。彼はもう日付を書かなかった。
ケルミナは扉を開けた。
フリダがその隣を歩いた。廊下の先で、二人は同じ速さになった。
婚約解消の連絡と贈り物の返還が済むと、ケルミナは引越しの最後の荷物を馬車へ運んだ。
母は玄関にいた。娘が差し出した首飾りの箱を開け、中を確かめる。
「お母様、家の鍵もこちらへ」
ケルミナは箱の横へ鍵を置いた。
「本当に行くのね」
「ええ。お部屋は空けてあります。お好きにお使いになって」
「戻るときに困るでしょう」
母は鍵を押し返しかけた。
ケルミナは受け取らず、背に置いた手を前で揃えた。
「自分の家の部屋を整えますわ」
イネッサは鍵から手を離した。
「あなたが小さい頃には、ここを出る日は泣くだろうと思っていたわ。花嫁姿で、わたくしの顔を何度も振り返るような」
「わたくしも、そう思っておりました」
ケルミナは母のドレスを見た。今朝もきちんと襟を整え、客を迎える日と同じ姿をしている。
母はこの家を守った。父が死んでからも、誰も招けない家にはしなかった。ケルミナも明るい客間や、人が来る前に磨かれる玄関を好きだった。
「お母様のお茶の入れ方、こちらでも真似してみます」
「あれは料理人が」
「ポットを温めてから湯を替えるでしょう。あなたのお茶は冷たい、って叱られたのを覚えておりますもの」
母の唇がわずかに動いた。
「お招きしても、おいしいお茶を出せますように」
ケルミナはそう言って礼をした。
母は行っていいとも、行くなとも言わなかった。
家の門を出るとダヴィスが立っていた。道の端でフリダが馬車の荷を確かめている。
「お待たせいたしました。今から出ますわ」
「何か忘れていないか」
「あなたがそうおっしゃると、忘れている気がしてしまいます」
二人で荷物を見た。フリダが上着を持ち上げ、ケルミナの鞄を示す。
「皆様、もう揃っておりますよ」
「でしたら、わたくしたちが乗るだけですわね」
ダヴィスが扉を開けた。ケルミナが手をかけると、彼は少しだけ扉を引く手を止めた。
「また、そちらへ寄ってもいいか」
「春になったら、わたくしの家まで歩いていらして」
「歩いて?」
「途中の橋まで迎えに出ます。あちらの川沿いは、散歩にちょうどいいの」
ダヴィスは頷きかけ、口を開いた。
「ケルミナ。友人の見送りで終わらせたくない」
彼女は馬車へかけた手を下ろした。
「今度は、君を好きな男として会いに行ってもいいか」
何と返すか考える前に、頬が上がった。
困った。上品に頷く練習はしていたのに。
「それなら、春までお待ちしなくてよくってよ」
彼の目が丸くなる。
「わたくしも好きですもの。そんなに長く待つのは嫌ですわ」
「来週、伺っても?」
「ええ。道を間違えないでね」
フリダが横から羽根を差し出した。
「これもお忘れですよ」
ケルミナは受け取り、ダヴィスの鼻先で振った。
「左へ曲がるのよ」
「分かっている」
彼が笑ったので、ケルミナも声を上げて笑った。




