顔だけと侮られ婚約を切られましたが、後ろ盾も紹介もこちらが先に頂いております。上のお家へまいりますわ
「顔だけの婚約者は、もう要らない」
ローレンスの声に、エレノアの筆先がわずかに沈んだ。紙の繊維へ黒い点がひとつ生まれ、それ以上は広がらなかった。
「今夜をもって婚約は解消する。父上も承知している」
「家として決めたことだ」
伯爵は長椅子の中央で脚を組んだ。左右に並ぶ親族も、待っていた合図を受けたように頷く。
「ええ、それがよろしいでしょう。お顔のおかげで客間も華やぎましたもの」
「三年も飾れば、十分ではありませんこと?」
扇の陰で、笑い声が重なった。
エレノアは便箋の上へ視線を戻した。今朝、使者が届けてきた返事へ礼を述べるための一通で、宛名の上にはまだ彼女の左手が置かれている。
「理由を伺ってもよろしゅうございますか」
「言っただろう。君は顔だけだ」
ローレンスは言葉を切り、卓上の銀盆を指で叩いた。エレノアが一度も身につけなかった宝石を、買い与えた記憶でも確かめるような手つきだった。
「愛想よく笑って客を迎える。それだけなら、別の令嬢にもできる。伯爵家にはヴァレリー侯爵夫人の庇護がある。君がいなくとも、紹介も引き合いも変わらない」
「侯爵夫人は、当家を見込んでくださったのだ」
伯爵の声に、親族たちがまた揃って頷いた。一人がエレノアを見て口の端を上げると、隣の者も同じ角度で扇を傾けた。
エレノアは筆を動かした。黒い点から続く文字は、先ほどまでと同じ細さに戻っていた。
「承りました。では、この便りを書き終えましたら、わたくしの荷をまとめます」
「聞いていたのか、エレノア。君にはもう、ここで手紙を書く必要もない」
「今夜までにお返しすると、お約束しておりますので」
「相手には当家から断りを入れる。君が余計なことをすれば、先方も困るだろう」
筆先が最後の一画の手前で止まった。エレノアは砂を振らず、封筒にも手を伸ばさなかった。
傍らでハロルドが便りの束を揃えていた。破棄という言葉が落ちてから、彼の手だけが止まっている。
「ハロルド」
「はい、伯爵閣下」
「明朝までに、この者の荷を馬車へ載せろ。家の名で受け取った書状はすべて残させるように」
家令は束の端を親指で押さえた。皺ひとつない紙の角が、その指の下でわずかに反った。
「かしこまりました」
エレノアは顔を上げず、書き終えた宛名を指でひとなでした。その方が昨日どんな声で話したかを思い起こしてからでなければ、最後の一字を閉じることができなかった。
◇
三日前、エレノアは温室に近い小部屋で、薄紫の花を一輪ずつ取り分けていた。見舞いの便りへ添えるには香りが強すぎず、寝台のそばに置いても差し障りがない。
「奥様は昨夜、半杯だけ召し上がったそうです」
使いから聞いた言葉を、ハロルドが低く伝えた。エレノアは花鋏を置き、侯爵夫人の名を指先でなぞる。
「では、茶葉はお送りしないでくださいませ。飲まねばならないものを増やしては、かえってお疲れになります」
「花だけにいたしますか」
「ええ。お返事も要らないと添えて」
用意してあった文章から二行を削り、余白を広くした。近頃の伯爵家については一字も尋ねず、窓辺の花がようやく開いたことと、前に教わった焼き菓子を焦がさず作れたことだけを書いた。
次の便りは、娘の縁談を相談してきた夫人へ宛てたものだった。エレノアは紹介できる家を並べず、娘本人が大勢の集まりを好むか、少人数の卓でよく話すかを確かめた。
「先方は、伯爵家との縁がなくなった後も、わたくしからの紹介を受けたいと仰せでしょうか」
「そのように尋ねてよろしいのですか」
ハロルドの声は、普段より半音低かった。エレノアは便箋の端を揃え、封蝋を脇へよける。
「家名を頼ってのお話なら、家へ残すべきものです。わたくしを頼ってくださるなら、途中で放り出すわけにはまいりません」
「婚約の件は、まだ正式には何も」
「昨日、仕立屋がローレンス様の礼装を測り直しておりました。わたくしに合わせて選んだ色を、すべて外して」
ハロルドは問いを重ねなかった。代わりに、返事を待つ便りだけを細い青紐で束ねた。
午後には二人、夕刻には三人から使いが戻った。伯爵家への挨拶ではなく、エレノアが次にどこへ移るのかを、どの使いも声を落として尋ねた。
彼女は答えを持っていなかった。持っていないまま、一人ずつの名に触れた。
「人の心は、先に手を尽くした者に報いますのよ」
それは母が客を迎える前、花瓶の向きを直しながら口にしていた言葉だった。エレノアは自分のために使ったことはなく、届いた問いへ返す一文を選ぶときだけ、その声を借りた。
夜、侯爵夫人から私信が届いた。封筒には伯爵家の名がなく、エレノアの名だけが、老夫人らしい右上がりの文字で記されている。
『あなたがどちらへ行かれても、次のお茶はあなたといただきます。返事は、お顔を見てからで結構です』
読み終えたエレノアは、燭台の芯を少しだけ短くした。火の揺れが収まり、便箋の文字がまっすぐ見えるようになった。
◇
親族たちの相槌が途切れたのは、客間の扉が開いたときだった。
「ヴァレリー侯爵夫人がお見えでございます」
伯爵はすぐに立ち、上着の裾を払った。ローレンスも椅子を引き、先ほどまでエレノアへ向けていた顎を下げる。
「これは侯爵夫人。お身体が優れないと伺っておりましたのに、わざわざ当家へ」
侯爵夫人は伯爵を見た。次にローレンスを見て、最後にエレノアへ目を移した。
「婚約をお切りになったそうね」
「は。息子には、より家にふさわしい縁を選ばせることにいたしました」
「顔だけの婚約者を置いておくわけにもまいりませんから」
ローレンスが言うと、親族の一人が笑いを含んだ息を漏らした。侯爵夫人はその顔へ一度だけ目を向けた。
「そう」
杖の先が絨毯へ下りた。侯爵夫人は伯爵の前を離れ、一歩ずつエレノアのいる書き物机へ進んだ。
伯爵が差し出しかけた腕は、宙に残った。侯爵夫人はそれを取らず、エレノアの椅子の横で足を止める。
「エレノア」
「はい、侯爵夫人」
「顔を見せてちょうだい」
エレノアが顔を上げると、侯爵夫人はしばらくその目元を見ていた。それから杖を反対の手へ持ち替え、彼女の隣へ立った。
「あなたがどちらへ行かれても、私はあなたに会います」
伯爵が椅子の背へ置いた手に力を入れた。ローレンスの唇が開いたものの、声は続かなかった。
「しかし侯爵夫人、当家とのお付き合いは、今までどおりに」
「今まで、どなたが私の苦手な花を覚えていてくださったのかしら」
「使用人に申しつければ、その程度は」
「眠れない夜に、返事の要らない便りをくださったのは?」
伯爵の指が、椅子の木肌を一度擦った。親族たちは誰からともなく顔を逸らし、閉じた扇の先ばかりを見ている。
侯爵夫人は机の上へ手を置いた。そこには封をしていない便りと、使わなかった薄紫の花が一輪残っていた。
「私は家の壁とお茶を飲んでいたのではありません。エレノアと飲んでいたのです」
「では、息子の婚約が解消されても、当家へのご助言は——」
「お話は、それだけ?」
侯爵夫人は伯爵の返事を待たず、エレノアへ向き直った。肩書より先に名を呼ぶ声は、先ほどと少しも変わらない。
「今夜は私の馬車をお使いなさい。行き先がお決まりでなければ、客間を整えさせます」
「ですが、急にお伺いしては」
「あなたの部屋については、家の者が私より先に相談を始めておりますよ」
侯爵夫人の口元にだけ細い線が生まれた。エレノアは膝の上で指を重ね、やがて一度、頭を下げた。
「お世話になります」
書きかけの便りへ戻り、彼女は宛名に触れた。昨日の声が胸の内へ戻るまで待ってから、書き終えた便箋を静かに伏せた。
今夜、この家から送るものではなかった。
◇
翌朝、玄関に最初の馬車が着いた。降りた夫人は出迎えた伯爵へ挨拶を返すより早く、エレノアの滞在先を尋ねた。
「ご用件でしたら、当家で承ります」
「エレノア様に娘の相談をしているのです。ご当家への用ではございませんの」
夫人は名刺を置かなかった。御者へ短く告げ、その馬車はヴァレリー侯爵夫人の屋敷へ向かった。
二台目の馬車から降りた紳士も、紹介を頼みに来たのではなかった。エレノアへ渡してほしい封書をハロルドに預け、伯爵が客間へ招く前に踵を返した。
三台目は門前で行き先を聞いただけだった。窓からこちらを見ていた婦人は、伯爵家の玄関を一度もくぐらなかった。
昼になっても、客間の茶器は伏せたままだった。いつもならハロルドが三度は入れ替える花も、昨日の形で水へ沈んでいる。
伯爵は人の気まぐれなど、二、三日もすれば収まると思っていた。後ろ盾さえ家に残れば、エレノアには打つ手がない。
彼は侯爵夫人へ面会を申し入れた。最初の使者は返書を持たずに戻り、二度目は門を通されず、三度目には「ご当家からのお話を伺う予定はございません」と口頭で告げられた。
「私が直接行く。馬車を出せ」
玄関にハロルドはいなかった。呼び鈴へ応じた若い従僕は伯爵の帽子を受け取る手順を違え、馬車の用意を命じられると、どの御者へ伝えるべきかを確かめに奥へ走った。
伯爵は外套を着たまま、誰もいない玄関に立っていた。来客を迎える花は傾き、扉の向こうを馬車が二台、止まらずに通り過ぎた。
◇
侯爵夫人の屋敷では、朝からエレノア宛ての封書が届けられていた。銀盆が一つでは足りず、古い籐籠にも便りが重ねられている。
「お休みになっていてもよろしいのですよ」
「返事を待たせている方がおります」
「では、こちらをお使いなさい」
侯爵夫人は廊下の先にある扉を自ら開けた。庭に面した部屋には大きな机が置かれ、左右の棚にはまだ何も入っていない。
机の中央には、青い紐が一本あった。伯爵家でハロルドが返事待ちの便りを束ねていたものと同じ幅だった。
「これは……」
「伯爵家の家令から、結び方を教わりました」
「ハロルドから?」
「昨日、馬車へ荷を積む前に訪ねてきたの。あなたの便りが新しい場所でも迷子にならないように、と」
侯爵夫人は籐籠から一通を取り、机へ置いた。宛名には伯爵家の名がなく、エレノアの名だけが記されていた。
「皆様、ご当家へお願いがあるのではございませんか」
「私の家へ来たのは、あなたに会うためです。私に用がある方なら、私の名を書いてくださるでしょう」
侯爵夫人は空の棚を杖先で示した。上段には便りを、中段には紹介を求める者の控えを、下段には見舞いの品を置けばよいという。
「ここで、今までどおりになさい。いいえ、今までより、あなたのお名前が見える形で」
「わたくしの名で、人をお迎えしてもよろしいのですか」
「私の客間を一つ空けます。どなたをお呼びするかは、あなたがお決めなさい」
侯爵夫人は椅子を引かなかった。座るかどうかまでエレノアへ委ねるように、机から一歩離れた。
その日の午後、以前から手紙を交わしていた老夫人が訪ねてきた。エレノアの顔を見るなり持参した菓子箱を開け、次のお茶もここでよいかと尋ねた。
「侯爵夫人のお屋敷なら、少し遠くても参れますよ。あなたがいらっしゃるのでしょう?」
「はい。しばらく、お世話になります」
「では、しばらくと言わずに予定を頂戴。あなたの便りが来ないと、孫が私より先に封を探すのです」
エレノアは手帳を開いた。伯爵家の名が印刷された古い紙を外すと、その下から白い頁が現れた。
◇
十日目の午後、ローレンスが侯爵夫人の屋敷を訪ねてきた。伯爵も同行し、二人とも先触れへの返事を待たずに玄関へ立っていた。
「エレノアに会わせてほしい。家の話だ」
取次ぎに出た者は、エレノアへ面会を強いることはできないと告げた。するとローレンスは、廊下の先に彼女の姿を見つけ、名を呼びながら足を踏み入れた。
「エレノア。エレノア、待ってくれ」
エレノアは書斎へ運ぶ便りを抱えていた。足を止めると、後ろから侯爵夫人が杖をついて現れる。
「客間を使いなさい」
「侯爵夫人、これは当家の内輪のことで」
「ここは私の家です」
伯爵の声が喉の奥へ引いた。侯爵夫人はエレノアを先に客間へ通し、自分は扉の外に立った。
卓を挟んで向き合うと、ローレンスは腰を下ろさなかった。伯爵も立ったまま、持参した書状を卓上へ置く。
「家として、もう一度話し合う用意がある」
「どのようなお話でしょう」
「婚約解消は、少し性急だった。君も三年いた家を、こんな形で離れたいわけではないだろう」
エレノアは返事をせず、抱えていた便りを一通ずつ机へ置いた。どれも彼女個人へ宛てられ、封蝋の色だけが違っている。
「侯爵夫人との関係まで断てとは言っていない。君が間に立てば、以前の付き合いへ戻せる」
「紹介を待っている者も多い。家へ戻れば、今までどおり采配を任せよう」
「今までどおり、でございますか」
伯爵は卓上の書状をエレノアの側へ押した。ローレンスも身を乗り出し、畳みかける。
「そうだ。君の役目は残す。婚約についても、君が態度を改めるなら考え直していい。顔だけの婚約者などと言ったのは、言葉が過ぎた」
「エレノア、君なら侯爵夫人を説得できるだろう。エレノア、紹介先にも、当家を避ける必要はないと伝えてくれ」
彼女は客間の机で、書きかけていた便りへ筆を下ろしていた。その筆が、一度だけ止まった。
エレノアは顔を上げた。
「戻すも何も、あの方々のお心は一度も伯爵家の持ち物ではございませんわ」
ローレンスの指が卓の縁を掴んだ。伯爵は押し出した書状を引き戻せず、空いた手で上着の釦へ触れた。
「人の心は、先に手を尽くした者に報いますのよ」
エレノアは視線を便箋へ戻した。止まっていた筆が、次の一字を書き始める。
「待て。せめて侯爵夫人への面会だけでも取り次げ」
「お断りいたします」
「エレノア、伯爵家が孤立すれば、君にもよくない噂が立つ。三年も関わっていたんだぞ」
「三年、関わっておりました。ですから、皆様がどなたを見て、どなたの声を聞いてくださったか存じております」
伯爵は書状を掴み、折り目のない封筒へ爪を立てた。ローレンスはもう一度エレノアの名を口にしたが、彼女の筆は止まらなかった。
扉が開き、便りを届けに来ていたハロルドが入ってきた。伯爵の外套とローレンスの手袋を腕に掛け、一礼する。
「馬車の用意が整いました、伯爵閣下」
「遅いぞ。帰る」
伯爵が外套を受け取ると、ハロルドはその肩へ掛ける手伝いをしなかった。ローレンスにも手袋だけを渡し、扉の脇へ下がる。
二人が廊下へ出た後、伯爵は振り返った。
「ハロルド、お前も戻れ。玄関がまるで回っていない」
「恐れながら、お願いがございます」
「帰ってから聞く」
「わたくしは本日をもって、お暇を頂戴したく存じます」
伯爵の足が敷物の端で止まった。ローレンスはハロルドとエレノアを見比べ、握った手袋を片方、床へ落とした。
「何を言っている。お前は長年、当家に仕えた家令だ」
「はい。長く、お仕えいたしました」
「ならば家を捨てるというのか」
「エレノア様が三年かけてお一人ずつのお名前を覚え、声を覚え、必要な便りを選んでこられたことも、長く拝見いたしました」
ハロルドは拾った手袋をローレンスへ差し出した。受け取られると、今度はエレノアの前へ進み、深く頭を下げる。
「お許しいただけるなら、これからも便りを運ばせていただきたく存じます」
エレノアの指が、筆軸の上で動きを止めた。ハロルドの袖口には、青い紐の細かな繊維が一本ついている。
「侯爵夫人のお許しを、先に伺わなくてはなりません」
「もう頂戴しております」
扉の外から、侯爵夫人の声がした。杖の先が一度床を鳴らし、伯爵とローレンスのために道を空ける。
「こちらの家令は、人を見る目がございます。置物より、ずっと役に立ちますわ」
侯爵夫人はそれだけ言い、口元を閉じた。伯爵は何も返さず、ローレンスを連れて廊下を進んだ。
玄関扉が閉じる音のあと、ハロルドは客間へ戻った。卓上の便りを宛先ごとに分け、端を揃え、青い紐で結ぶ。
「明朝の便でよろしいでしょうか」
「いいえ、この一通だけは今日のうちに。お待ちの方ですから」
「かしこまりました」
◇
新しい机には、午後の光が長く差し込んでいた。上の棚には届いた便り、中の棚にはこれから会う人々の名、下の棚には薄紫の花が一輪置かれている。
ハロルドが青い紐の束を運び、机の左へ置いた。侯爵夫人は客間から、次のお茶に誰を招くのかと尋ねている。
エレノアは白い便箋を取り出した。宛先の控えから最初の名を選び、その名を指でひとなでする。
昨日の声が戻ってから、彼女は筆を執った。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




