第12話「夜の支配者」
柚子は両手に荷物を抱え、街道を歩いていた。
その足取りは矢絣の着物の袖が軽快に揺れるほど軽い。
(これでしばらくは安心かしら)
鹿鳴館での出来事から毎日アランが三日月堂へ訪れるようになり、その度に菓子作りに励んだ。
その結果、菓子作りの材料が底をついてしまった。だが定期的に仕入れまであと一月はある。
それでは確実に間に合わないため、柚子は市場で仕入れをすることにした。
明日の早朝に店へ納品してもらえるよう手配をすませると、いつの間にか日が傾いてしまっていた。
闇が夕日を追い出すように呑み込むまで、あと僅かだ。
(日が長いから油断していたわ)
ゆっくり進んでいた歩みは、すでに駆け足寸前だ。
夜の帳が下りれば、そこはもう人間の世界ではなく、吸血鬼のように闇を生きる異形の世界へと変わる。
その前に、家へと帰らねばならない。
吸血鬼は招かなければ家へと入ることができないため、自宅が一番安全な場となる。
荷物を抱きしめる両手に力が入っていることに、柚子は気がついていなかった。
墨をぶちまけてしまったような黒が、じわりじわりと近づいてくる。
ガス灯が普及し始めたとはいえ、それは大通りに限った話だ。
少し中道へと入れば途端に静かな闇がそこにはある。
焦りが頬を伝い、柚子はたまらず駆け出した。
通り慣れた道だというのに、知らない街に来たと錯覚しそうだ。
歩みを進める度、漆黒が影と混じりはじめ焦燥感を煽る。
一心不乱に駆ければようやく見慣れた白い外観の三日月堂が視界に入った。
柚子はほっと胸を撫で下ろし、安堵を顔に浮かべる。
足早に進んでいた歩みも徐々に普段の速度へと落ち着いていく。
柚子が扉に鍵を差し込んだ瞬間。
「来ないでっ!! いやぁああ!!」
女性の悲鳴が聞こえた。
柚子は素早く荷物を店の中に置き、近くにあった瓶をひっつかんで走り出す。
あれほど早く帰らなければと感じていた心はすでにない。
無心で声の聞こえた方へ駆ける。
袖が少し煩わしいがたすき掛けをする余裕もなかった。
暗闇に慣れた目は、細道の奥ですすり泣く女性と今にも襲いかかりそうな男を捕らえた。
「止めなさい!!」
柚子が叫ぶと、二対の目がこちらを向く。
縋るような黒い目は女性のもので、もう一つは血のように赤い双眸だ。
見定めるようなその赤い目に引きつけられるのは、肌が白すぎるからだろうか。
血色の悪い肌を見せつけるように真っ白な髪を後ろに流している。
それだけであればただの色男だ。
しかし、異様な雰囲気を醸し出す部分が一つある。
犬歯だ。
弧を描く唇から見える犬歯が異様に長い。
「っ、吸血鬼……!」
「今夜はついてるなぁ。二品も食べられるなんて」
吸血鬼はうっとりと笑う。
それはまるで上等な葡萄酒でも前にしているかのように、飢えと歓喜を滲ませた微笑みだった。
「私達はあなたの食事ではないわ」
「そんな美味しそうな匂いを漂わせておいて、つれないことを言うなよ。俺はまだ、食事前なんだ」
柚子は道の真ん中でうずくまる女性へ目を向け、首筋を確認する。
吸血鬼の言う通り、まだ手は付けられていないようだ。
血を吸われていないことに安堵した柚子は、退路を確認する。
(……追い詰められたのね)
灯りがなく見えにくいが、女性の後ろは壁だった。袋小路のため道は続いていない。
柚子が立つ場だけが、唯一の逃げ道だ。
強者の余裕か、吸血鬼は柚子が思案していることにも気がつかず、喋り続ける。
「あぁ安心して。君はメインディッシュだから、この女を食べてからじっくり味わってやろう」
「ひっ!」
女性へと手を伸ばした吸血鬼へ、手に持っていた瓶を投げつける。
それは父から吸血鬼に襲われた際に使うよう言い含められていたものだ。
どのような効力があるかは定かではない。
しかし、ほんの僅かな隙さえできれば、女性を逃がす自信があった。
簡単に避けた吸血鬼だったが、割れた瓶から溢れ出た水を浴び、小さなうなり声を上げる。
「ぐっ、なっんでこんなもん持ってんだよ!!」
顔から焼けるような音と共に白煙が上がった吸血鬼は、苦しげに後退する。
驚くべき効果に柚子は目を見開くが、すぐに頭を切り替えた。
目に見えた好機に、柚子は怯えきった女性に駆け寄って手を引く。
「逃げますよ!」
「っ、はい!」
二人は来た裏路地を駆ける。
石畳を踏みならし、柚子の腕に縋るように走る女性を引っ張りながら。
ひたすらに足を動かすが、焦りと恐怖から足元がもつれそうになる。
耳にまで心の臓の鼓動が聞こえ、柚子は浅い呼吸を繰り返す。
ぬるりと迫る気配に、背筋が凍った。
息を呑むような殺気が二人を包む。
柚子の腕を掴む女性の手が、がたがたと震え始める。
すでに肩で息をしている彼女を守りながらでは逃げ切れない。
そう察した柚子は、角を曲がった先で足を止め、女性の肩をぐっと押した。
「大通りまで出れば、灯りがあります。後ろを振り返らず、真っ直ぐに逃げてください」
「で、でも、それじゃあなたが……!」
「私、こう見えてちょっと強いんです。だから、走って!」
砂利を踏みしめた音が聞こえ、女性の背を押した。
駆けだした背に安堵しながら、柚子は振り返る。
素早く瓶の蓋を開け、闇の中からにじみ出てきた吸血鬼に向けて中身だけをぶつけた。
「ぎゃあ!」
白煙が立ち、焦げ付くような臭いが鼻につく。
だが、敵は痛みを堪えながらも、じりじりと柚子との距離を詰めてくる。
(やっぱり足りない!)
みるみる焼けただれた皮膚が再生し、元の形へと戻っていく。
人ならざる物なのだと言われる所以を目の当たりにし、柚子は悔しげに唇を噛み締める。
吸血鬼は血走った瞳を向け、剥き出しの牙で唸るように言った。
「よくも俺の前菜を……」
「メインディッシュだけじゃ不満?」
柚子は挑発するように笑ってみせる。
逃げた女性に意識がいかないよう、強気に、艶やかに。
吸血鬼は頭に血が上ったのか、いともたやすく柚子の煽りに乗ってきた。
「ならお前を食ってから、あの女を追うことにするよ」
「やれるものならやってみなさい」
瞬間、柚子はからの瓶を投げつける。
吸血鬼は後ろへと跳ね避ける。地面に叩きつけられ割れた瓶からはなんの液体も出てこなかった。
げすびた笑みを浮かべた吸血鬼が楽しげに一歩一歩近づいてくる。
「はったりかよ、びっくりさせんなよな。まぁ女はそんなことでもしねぇと戦えないのか。可哀想な奴。あぁ、非力なお前に、一つ提案してやろう」
「……なに」
「五発だ。五発だけは攻撃せずに受けてやる。どうだ? 腹ごなしにもならない余興だが、悪くないだろ?」
吸血鬼はにたにたと笑い、歩みを止め両手を広げた。
まるで攻撃してくださいと言わんばかりの行動に、柚子は眉をしかめる。
(油断させる作戦? そんなのには乗りたくないのだけど……)
見下すような視線と、ふざけた態度。
いつでも好きに殺せると高をくくっている余裕が、柚子の気に障った。
(逃げるなら、鼻っ柱をへし折ってからでも遅くはないわね。一発入れて反撃しようとしてきたら即、離脱したらいいわ)
柚子は一足飛びに距離を詰める。
赤色の目が見開かれるが、視線は外さないまま、吸血鬼の懐へ入り込んだ。
低く沈み込んだ体勢から、膝のバネを活かして地を蹴り上げる。
柚子の右足が吸血鬼の腹を直撃し、鈍い音が響いた。
「一発がこの程度か。大口叩くわりにたいしたことねぇなぁ」
吸血鬼の顔から笑みは消えない。
それどころか痛みに呻く様子も、衝撃を殺すために後ろに下がる様子もなかった。
圧倒的な力の差がありありと浮かび、柚子は舌を打つ。
柚子はそのまま軸足をひねり、回し蹴りを側頭部へ叩き込んだ。
しかし、吸血鬼まだまだ余裕を見せている。
柚子は跳ねるように後ろに下がると、勢いをつけて飛び上がる。
全体重をかけた跳び蹴りを入れ、ぐさま振り向きざまに後ろ回し蹴りを放った。
「三、四。この程度か。かすり傷にもならねぇな。ほら早く次、攻撃しろよ。まぁそれがお前の最期だがな」
吸血鬼は低く、獣のように喉を鳴らして笑う。
早くしろと言わんばかりの態度を隠さないのは、早く食事をしたいからだろうか。
全身の毛が逆立ち、流れる風さえも敏感に感じ取ってしまう。
柚子は大きく深呼吸をする。その間も目線は吸血鬼に向けたままだ。
落ち着きが戻ってきた柚子は、覚悟を決めて間合いを詰めた。
吸血鬼の胸ぐらと腕を掴み、引き寄せる。
懐に潜り込んだ柚子は勢いのままにしゃがみ込み、足を突き上げた。
滑らかに、しかし一気呵成に、吸血鬼の重心が浮かび――巨体が宙を舞い、石畳の地面に叩きつけられた。
重たい音とともに、空気が爆ぜる。
大地が揺れるような音とともに、吸血鬼は呻いた。
飛び跳ねるように起き上がった柚子は、着物や髪についた砂も払わずに走り出す。
(受け身も取れないよう投げ飛ばしたのに呻くだけって……!)
持ち得る技でも一番威力の高いものを選んだはずだった。
しかし、只人であれば骨が折れ、失神するであろうものだというのに、吸血鬼はただ呻いただけだった。
柚子の背に、じりじりと殺気が焼き付いている。
「……はっ。やってくれるじゃねえか……!」
耳に届いた言葉に、思わず振り返った。
地面からゆらりと起き上がった吸血鬼は怒りに顔を歪めている。
もはや余裕の笑みは消え失せていた。
真っ赤な瞳に燃え上がるのは露骨な殺意だ。
「たかが人間風情が……調子に乗りやがって……! 今のは遊びだ、ここからが本番だ!」
地を蹴った吸血鬼の気配が、獣のそれに変わる。
一瞬にも満たない速度で距離を詰められてしまう。
力任せに振るわれた爪をすんでのところで避ける。しかし反対から襲いくる爪が頬を掠め、血を滴らせた。
伸ばされた手が柚子の首にかかる、その瞬間。
「下がれ」
低く、威厳に満ちた声が夜を裂いた。
星が煌めく空から、風のように男が現れる。
放心する柚子をよそに、宙に浮いた彼がそっと地に降り立つ。
銀髪の髪が月光を受けて淡く輝く様は、絵本の中のように幻想的だ。
整った顔立ちには冷たい静謐さが宿り、その金色の瞳には、敵意すらも凍らせる力があった。
「ア、ラン様……?」
「ユアハイネス……!」
柚子へと伸ばしていた手を胸に当て、吸血鬼が地に膝をついた。




