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召喚とか聖女とか、どうでもいいけど人の都合考えたことある?  作者: 浅海 景


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最悪な日々の始まり

こつり、と歩くたびにヒールが硬い音を奏でて身が引き締まるような気持ちになる。


(怒らず、驕らず、先輩の言うことを素直に聞く。嫌なことがあっても顔に出さない。第一印象は大事。――よし、覚えた)


アパートの階段を下りながら、「先(・)生(・)」に言われた注意事項を瑛莉(えり)は頭の中で復唱する。早朝の空気は清々しく、余裕を持って会社に着くために早起きした甲斐があったというものだ。

社会人一日目としても良いスタートが切れた気がする。


エントランスのドアに手を掛け、一歩足を踏み出せば春の日差しに視界が一瞬眩んだ――ただそれだけだったはずだ。


「――え?」

かつん、と響いた足音は先ほどよりも固く目の前に映るのは見慣れた景色ではない。ぼんやりとした灯りに照らされたのはごつごつとした石づくりの床や壁だ。


周囲からざわめきが起こり、突然の事態に脳が追い付かずただ呆然と立ちすくむ。耳に届く断片的な言葉から自分の身に良くないことが起きていることは察したが、どうすれば良いか分からない。

不意に眩いばかりの金色が視界をよぎり、そちらに目を向ければ優雅な仕草で一礼する男性の姿があった。


「シクサール王国へようこそ、聖女殿。我々は君を歓迎しよう」

のちにエリー・ミゼッタと呼ばれることになる水谷瑛莉(みずたにえり)の最悪な日々はこうして幕を開けたのだった。




気品を感じさせる男性は微笑みをたえたまま、落ち着いた口調で続ける。


「私はシクサール王国王太子のヴィクトールだ。貴女の名前を聞いても?」


「――瑛莉です。エリ・ミズタと言います」


咄嗟に本名の一部を省略して伝えたのは、いつか読んだ物語が頭をよぎったからだ。

違う世界で本名を告げれば逃げられなくなるかもしれない。そう考えたことで、無自覚のまま状況を受け入れてしまっている自分に気づいた。


(でも、まだ考えちゃいけない。それよりも情報を得ることが先だから)


冷静な思考ができることに安堵しながら、瑛莉は眉を下げて困惑した表情を崩さないよう注意を払う。相手の油断を誘うためには無力な女性を装っておいたほうがいい。


「エリー・ミゼッタか。可憐な君に似合う愛らしい名前だな」


笑みを深めるヴィクトールに、瑛莉は間違いを訂正せずに俯いて目を逸らす。ふっと小さな笑い声に、瑛莉が恥じらったと思ったようだ。もちろんそう思うように意識したのだが、心によぎった思いが顔に出ないように努めた結果なのだが――。


「王太子殿下、そろそろよろしいですかな?」


別の声が聞こえて顔を上げると、白いローブを纏ったふくよかな中年男性がヴィクトールに向き合っていた。


「ああ、そうだな。エリー、まずは聖女認定を行おう。水晶に手をかざすだけだから、心配しなくていい」


(まずいな……)


聖女認定などされては困るのだ。


戸惑った表情を浮かべて、さりげなく周囲を窺い瑛莉は息を呑んだ。兵士のような恰好をした男性たちが遠巻きにこちらを見ているが、その足元には数人の白い衣服の人々が倒れていた。


「申し訳ない。聖女様を驚かせてしまいましたな」


場にそぐわない朗らかな口調でダミアーノと名乗った神官長は説明を続けた。


「あの神官たちは召喚のために力を使い果たして気を失っておるのです。儀式が終わるまではこの場を離れられないため、そのままの状態になっております」


薄暗い室内では彼らの表情を見ることは難しいが、その言葉を鵜呑みに出来ないと瑛莉は思った。


(あれは倒れているというより――)


よぎった考えを保留にして、瑛莉は納得した表情を作りダミアーノに頷いた。今はまだ何も悟られてはいけないし、余計なことを考えている場合じゃない。


退路を断たれた状況を何とかしなければと頭をフル回転させる。聖女として認定されれば厄介なことになるが、先程のダミアーノの発言からそれが終わるまで退出することは許されないらしい。

断れる雰囲気ではないし、逃げ出そうにも背後には帯剣した兵士が控えている。


(上手くいくかは分からないけど、今はこうするしかない)


覚悟を決めた瑛莉は一歩踏み出して、足の力を抜いた。がくりと落下する感覚の後に訪れる痛みを予測しながらも、全身の力を可能な限り抜くことを意識する。

衝撃と呼ぶには弱い感触に疑問を覚える前に、ヴィクトールの声が聞こえた。


「第二騎士副団長、不敬だろう。下がるといい」

これまでとは随分と異なる冷ややかな声に内心驚くが、反応しないようにひたすら自分に言い聞かせる。


「申し訳ございません。聖女様の尊いお身体が傷ついてはと思い、手を伸ばしてしまいました。どうかご容赦ください」


(この人は……どこにいた?)


背中に添えられた腕の感触から、地面に倒れ込む前に抱き留められたのだろう。だが周囲に人はいなかったはずだし、先程見た兵士たちの誰かだとしても駆け寄るには遠すぎる。

実は傍にいたのに気づいていなかっただけなのかもしれない。


「ダミアーノ神官長、聖女様は召喚によりお体にご負担がかかっているご様子。このまま認定の儀を行うのは難しいようですし、日を改めてはいかがでしょうか?」


望んでいた通りの言葉を伝えてくれた副団長に、心の中でガッツポーズを取った瑛莉は耳をそばだてる。


「……問題ないのか?」

「仕方がありませんな。体調が戻り次第早々に行なうことにしましょう。召喚が成功したのですから、適性がないわけではないかと」


渋々といった口調だが、狙い通りになったことに内心胸をなでおろす。


「それでは御前失礼いたします」

「待て、聖女は私が運ぶ。認定されれば婚約者になるのだ。他の男に不用意に触れさせるわけにはいかない」


(うわ、何その最悪なシステム……)


そんな重要な情報を先に伝えないぐらいなのだから、瑛莉の意思は尊重されないと思ったほうが良さそうだ。どう転ぶか分からない賭けだったが、取り敢えず時間の猶予が与えられたことに感謝するしかない。


「ヴィクトール王太子殿下自ら運ばれるとなると、かなり目立ってしまうのではないかと愚考いたします。殿下をお慕いする女性も多くいらっしゃいますから、聖女様に良からぬ想いを抱くものを下手に増やさないほうがよいのではありませんか?」


嫉妬ほどに厄介な感情もない。副団長の意見に瑛莉も大賛成だった。


「……仕方ない。今回はお前に任せよう」

「御意」


ふわりと空気が動き、しっかりとした足音が聞こえてどこかに運ばれていくのが分かる。


(早く一人になれますように……)


考えることはたくさんあったが、思考に意識を持っていきすぎて失敗するわけにはいかないのだ。焦る気持ちに蓋をして、瑛莉は再び耳を澄ませて聞こえてくる音に集中したのだった。

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