私の義
慶長五年九月十五日、関ヶ原。
霧の立ちこめる陣は静かで、まさかこれから戦いが始まろうとは思いもしない。しかし戦とは、いつもこのような始まり方ではなかったかという思いもあった。
「お館様! 石田治部少輔様よりご伝令!」
声を出そうにも、血まじりの咳がようやく出たのみであった。従者が苦しむ私に駆け寄ろうとしたが、手の動きで制する。
この身を蝕む病はもうすぐ、私の命を奪うだろう。しかし、友のために戦えるだけの時間を残してくれたと思えば、複雑な感謝すら覚えていた。
三成の伝令が、私の前に姿を見せる。
「お館様から大谷刑部様へのご伝言!」
「わかっている。あまり前には出るなと申しておるのだろう?」
私は相手の先をとり、穏やかな声を発してみせた。血まじりの痰を飲み込み、全力で澄んだ声を相手に聞かせる。これで伝令は三成に、私の状態はよく戦いにも支障ないと伝えるだろう。
それから、伝令を通じて三成の案とやらを聞いたが、いずれも左近が考えたものであろうと思えた。しかしどうせ、夜襲案を蹴ったのであれば、これから目の前の戦いに挑むに変わりなく、三成のためにこの身を投じるだけである。
思えば、三成は誤解をうけやすい男だ。
皆が、自分のように物分かりがよく、清廉潔癖で、裏表ないと信じているのではないかと思えるほど、まっすぐな男だ。これが多くの反感の原因であると伝えても、きょとんとした顔を見せるほどで、ああ、これだから私は彼が好きなのだと笑えたのである。
残された命を、三成のために燃やそう。
私は白い頭巾をかぶり、従者の助けを借りて輿に乗った。
旗下には諸将の軍を併せて約五五〇〇。
戦の音が、聞こえてきた。
始まった。
終わりの、始まりだ。
「お館様」
側近の五助が、声をかけてきた。
「こちらも始まるだろう。前面の敵は? 霧は晴れるか?」
「今しばらく」
大量の鉄砲が、轟音を発した。
びりびりと空気が揺れたように、霧は戦いの熱気に払われていく。
「藤堂! 京極!」
五助の声と同時に、鉄砲の発射音が連続的に鼓膜を打った。
敵は、旧知の者たち。
内府がたくらみ、三成が利用された結果、豊臣の下に集まっていた諸将が割れた。
内府には、不思議と恨みはない。
嫌いでもなかった。
しかし、三成が敵とするならば、私にとっても敵である。
藤堂隊の攻撃と、京極隊の動きはまったく連携がとれていない。ただ、こちらも諸将の連合であるから条件は同じである。とすれば単純に数が多いほうが有利となるが、局地的にみれば、南側は我々に利があった。
銃声、矢の唸り、兵たちの絶叫。
午前は、我々が敵を押した。
多数の敵を、受け止めて押し返すのは簡単ではないが、私の指揮はこれまでにないほどに冴え、諸将の動きも私を満足させるものであった。
しかし、私はかねてからの疑惑が、より深まることに心穏やかでいられない。
松尾山の小早川隊が攻撃をすれば、藤堂隊と京極隊に横撃をくわえて大きく後退させ、内府本隊へと迫ることで、三成と宇喜多隊に肉薄する敵の後背を脅かすことができた。しかし松尾山は、戦が始まっていないのではないかと思うほどに静かだ。
三成の使者が、幾度も松尾山に出向いているのは知っている。
しかし、金吾はまだ動かない。
金吾は、裏切るのではないか。
金吾は朝鮮で功を焦ったと、三成が太閤殿下に讒言したことで、彼は減封されていた。また殿下亡き後、その冷遇は誰の目にも明らかである。そういう事情を知る内府が、金吾へと調略を働いていたことを掴んでいたゆえ、三成にそうと伝え気を付けるようにと注意した。
しかし三成は、金吾は殿下への恩に重きをおき、豊臣家のために戦うと約束してくれたのだと喜々として私に話した。
私は、こういう男だから尽くそうと思うのである。
この騙し、騙されることが当たり前の今……人を騙しても知恵者であるという評を得られてしまう不埒な世に、一人くらい、まっすぐな男が国の大事を担ってもいいではないかと思うのだ。
金吾。
裏切るなら裏切れ。
その裏切りすら、私の義で跳ね返してみせる。
三成を、勝たせてみせる。
この思いを知ってか知らずか、その時がきた。
正午のころ、松尾山が動いた。
小早川隊が向かう先は……我が隊のほうである。
やはり。
「裏切り!」
誰かの叫びにも、動じることはない。
「五助、備えておいた一軍を率いる。参れ」
私は、金吾の軍が裏切った時のために備えていた隊を率いる。
正面の藤堂隊、京極隊には、諸将が相手をしていれば問題ないほどの優勢ぶりで、ここはなんとしても側面を金吾の裏切りから守らねばならない。
「撃て! 撃たれたら撃ち返せ! ひるむな!」
私は、声を、血を、吐き出す。
足軽たちの動きに連動し、騎馬の一隊が小早川隊前衛の側面を突く。乱れた隊列へと鉄砲を撃ちこみ、矢を浴びせ、足軽が槍先をそろえて突っ込んだ。
裏切りの奇襲を浴びせてきた小早川隊は、まさか私が待ち受けていたともしれず、統率のとれた逆襲を前に後退する。
それでも、金吾の狂ったような指揮で小早川隊は遮二無二突っ込んでくる。
馬鹿か!
こちらを少数だと思って侮るな。
工夫ない前進など、数が多くても怖くない。
怒りながらも冷静な私の指揮で、愚かな金吾の軍を大きく押し戻す。
しかし、ここでそれは起こった。
運命の歯車は、そこで軋みをあげて壊れたのだ。
脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保。
いずれも旧来の西軍将。
その旗が突如として翻り、我が陣の側面に襲いかかる。
一瞬、私は何が起きたか理解できなかった。
五助も、諸将の隊が小早川隊と我が隊を間違えたのだと思ったらしく「味方だと叫べ!」と皆に怒鳴っていた。
瞬きを二度、三度として、私は事態を理解した。
「五助、皆、敵である」
私の声は、自分でも驚くほどに掠れていて、聞き取りにくいものであったが、五助は唇を噛みしめて血を流すことで、理解していると伝えてきた。
鉄砲の火線が、我が隊を斜めに貫いた。
藤堂・京極が前から迫り、小早川が背を討つ。
我が兵は押し潰され、叫び嘆きは銃声に呑まれた。
多勢に無勢で、横と後方から攻められてたちまち劣勢となった。
兵たちは懸命に戦い、できうる限りの時間を稼ごうと努めるも、それはすぐに限界を迎える。
私は、ここまでだと理解した。
「降ろしてくれ」
私は従者の手を借り、輿から降りた。
三成、すまない。
お前の世を、手伝ってやることはできそうにない。
不思議と、心に乱れはなかった。
あの光景が、脳裏に蘇る。
病で爛れた私の顔は、茶を飲む時、皮膚から茶へと膿を落とした。それを回し飲みさせられる者たちは気の毒だと、私自身も思っていた。ゆえに、誰もが飲むふりをするなか、当然だろうという気持ちで眺めていた。
しかし、三成は表情を変えず、茶を飲んだ。
私は、病は自分の心すら蝕んでいたと、その時に気づいた。皆が私に向ける視線は、仕方ないものだから諦めるしかないと思うように、自分を騙していたのだ。
三成が、茶を飲んでくれた時、心の底から感謝をし、自らを騙していた己に気づいた。
ゆえに私は、二心なくつきあってくれる友の味方をしつづけることを、あの時に誓ったのだ。
すまない、三成。
お前の味方を、もうできなくなってしまう。
許してくれ。
友でいてくれて、感謝する。
「五助、私の首は埋めて、敵にさらすことがないように」
「は……」
私は今日、初めて空を見ることができた。




