60 無様な最期
しがみついた体が、わずかに揺れた。
両腕の中に、しっかりと質量を感じる。
上から下まで、真っ黒な人影は、確かにここにある。
「師匠……どうして」
わずかな身じろぎで、背中の長い髪が視界を通り過ぎた。
ちらりと肩越しの視線が下りてくる。
お月様のような、温度の低い琥珀色の瞳。
ああ、師匠だ。……師匠だ。ただ、ただその事実が僕の中でいっぱいになる。
「俺のセリフだ。なぜ指輪がここにある」
いつも通りの不機嫌な声。
指輪……? あ、と自分の手を見た時、咆哮と共にビリビリ空気が震えた。
師匠の舌打ちが聞こえる。
「……相手が悪い。簡易シールドではもたん」
「そんな……師匠早く! 家に戻ろう!」
「勝手に戻ってろ」
ドン、と響いた音と、ビリビリする魔力の歪みを感じる。今にも、シールドが壊れそう。
僕は、静かに佇むばかりの師匠を引っ張った。
「逃げなきゃ、師匠!」
だって――師匠は、魔法を使えない。
魔道具だけでは、ドラゴンには勝てない。
なのに、簡単に僕の手を振りほどいた師匠が、鼻で笑う。
「逃げるか。都合がいいじゃねえか。邪魔をするなら、どこかへ行ってろ」
「師匠!」
邪険に押しやられ、歯を食いしばった。
嘘ばっかり! 分からないと思う?! そんな最期でいいのなら、いつだって選べたはず。
穏やかで、苦痛のない最期を望んだからこそ……!
「そんなこと言うなら、僕だってここにいるからね?!」
「ヤツの意識がお前に向く。迷惑だ、向こうへ行け」
暴れるドラゴンの魔法が、シールドを揺らす。もってあと、数回分。
違うよ師匠、その役目は、僕だったじゃない。
離れない僕にまた舌打ちして、藪の方を指した。
「……なら、アレを回復しろ」
そうだ、ディアンだけでも逃げてもらわなきゃいけない。
荒い息をするディアンに駆け寄り、土・火・水・風全ての回復を施していく。
「くっ……!」
回復の途中で跳ね起きたディアンが、そのまま僕を担ぎ上げて立ち上がった。
「えっ?! ディアン?!」
一瞬――琥珀と橙が、視線を交わした気がした。
スッと視線を下げたディアンが、僕を怒鳴りつける。
「何やってんだてめえは?! さっさと逃げろ!」
「でも、師匠が!」
「知るかよ!!」
外そうとした腕が、ぐっと締まって顔色を変える。
「ディアン?!」
ディアンは、もう僕を見ない。ただ、クソが、と師匠を睨んで、背中を向けた。
いくら暴れても、びくともしない。
どうしよう。何を、何を言えば師匠は逃げてくれる?
「ダメ、師匠が! 師匠っ、手紙! 手紙読んだでしょう? 僕、お土産があるから! ねえ、僕、選書魔法で役に立ったよ! 町で、町でね、人を殴ったよ! 喧嘩して勝ったんだよ! ねえ、聞きたいでしょう、見たいでしょう?!」
フッと口角を上げた師匠が、じっと僕を見て、ディアンを見た。
ディアンが、僅かに師匠を振り返って僕を揺すり上げる。
「……じゃあな。礼は言わねえぞ。コレで、おあいこだろ」
「うるせえ」
フン、と互いに視線を切って、そして。
ディアンは駆け出した。
僕の渾身の声は、悲鳴のように森に紛れて消えていった。
◇
使えもしない魔力が、ただただ、内側で体を蝕んでいるのが分かる。
こんなはずではなかった。
ただ、俺の最期に都合のいいガキを拾っただけ。
崩れゆくシールドの中には、まだ悲痛な声が、尾を引いて残っている気がする。
周囲の騒音が、それをかき消してくれるのが幸いだ。
「……殴った、だと?」
はっきり笑みをかたどった口元に触れ、唇を結ぶ。
そして、ぎりりと歯噛みした。
……やってくれる。
「……クソ」
胸の内が焼けつくのは、きっと病のせいではなく。
大きな空間の揺らぎに、ゆっくり顔を上げる。
思い描いていた最期とは真逆の未来が、シールドを破壊するのを見た。
一歩踏み込んだそれに、咄嗟に魔道具を投げる。
激しく轟いた雷鳴は、確かにドラゴンに悲鳴を上げさせはしたけれど。
僅かに焦げた鱗を見ながら、後退する。
都合が、よかったんじゃねえのか。
なぜ、抵抗する。
空間を切り裂く尾を、すんでのところで躱した。
ああ、噛まれるよりは、あれを受けるほうが楽だろうに。
クソ、クソ……見なければよかった。
聞かなければよかった。
湧き上がってくる渇望が、切望が、邪魔をする。
なんであんなことを言った。
知らないままでいれば――。
攻撃を避けた身体が、よろめいて膝をつく。
矢継ぎ早の攻撃を避けて、飛び込むように無様に転がって立ち上がる。
泥まみれになって、睨み上げた。
「邪魔だなてめえは!!」
先が、見たいと思ってしまった。
あいつの、行く先を。
持っていなかったはずが……生まれてしまった。未練が。
「……あいつ、性格が悪ぃ。何も、こんな時によ」
どうしろっつうんだ。こんな場面で。
なあルルア。俺をこんな泥まみれであがかせて。
どうにもならないか。
どうにか、ならねえか。
再び転がった先で、立ち上がろうとした足から力が抜ける。
目の前のドラゴンが、勝利の雄叫びを上げた。
無様だ。こんなに、必死になった挙句。
無様だ。こんな時に浮かぶのが、あんなガキの顔とは。
大泣きしていたルルアと、殴る、がどうしても結びつかずに笑った。
荒い息の合間に、小さくその名を唱える。
ああ、バカな名をつけたものだと思ったが、そうでもなかった。
そしてもうひとつ、俺が謝罪すべき名を口にした。
お前の言う通りだった。こんな時に――。
踏み込んだ巨大な足の下で、バキリと倒木の折れる音がした。
無粋な俺の『最期』が、まだ走馬灯の途中だというのに、牙を剥いて飛びついてくる。
「……腹でも壊せ」
どうにも動かない体で、悪態をついた。




