6 優しさの基準
「……失敗しちゃったな」
まだしょぼつく目をこすりながら、トボトボキッチンへ戻る。
僕……寝坊、してしまった。いつもちゃんと起きられるのに、今日はダメだった。
目が覚めた時の、いやなドキドキ感がまだ残っている気がする。
だから、今朝の師匠のごはんは、すぐに作れるパン粥。
案の定、あんまりパン粥が好きじゃない師匠に、ジロリと睨まれてしまった。でも師匠、パンそのままだと食べないんだもの……。
あんまりお腹が空いて、先にひとくちパン粥を食べてしまった。
ふわっと頭の中にまで広がりそうな、ほのかな甘み。もったいなくもとろけていくパン。師匠は嫌な顔をするけど、こんなに美味しいのに。
途端に持ち上がった心で、鼻歌さえ出てしまうくらいだ。
すっかりご機嫌でディアンの分をお盆に乗せ、お薬と一緒に運ぶ。
どうしたって吸い込んじゃういい香り。溢れる唾液を飲み込んで、そっと粗末な扉を開けた。
……汗と、薬と、傷の嫌なにおい。
「ディアン……?」
ぐったりと横たわるディアンに、恐る恐る声をかける。
大丈夫、だよね? 昨日ちゃんとお薬を飲んだし。
「……あァ?」
「僕ルルアだよ! 分かる?」
鋭い視線の焦点が曖昧だ。また熱が出ていると察して、眉尻を下げた。
僕が分からないのか、唸り声をあげそうに警戒しているディアンへ駆け寄り、起きようともがく背中にクッションを挟み込んだ。
毛を逆立てる獣みたいだけど、抵抗するほどの力がないのは、かえって助かった。
とにかく早く解熱薬を飲ませるため、強引にお薬のスプーンを突っ込む。多分今のディアンは味なんてわかってないだろう、と高を括っていたけど、盛大に顔を顰められた。
「あ、やっぱり苦いのは分かっちゃう?」
慌ててもうひとつの小さなスプーンを差し出すと、勢いよく顔を背けられてしまう。
「違うよ、はちみつだよ。甘くておいしいから!」
えい、とこれも強引に突っ込むと、凄い目で睨まれた。
そんなの慣れっこな僕は、牙を剥かんばかりのディアンへにっこり笑みを返して、頭を撫でてあげる。
「ちゃんと飲めて偉いね。大丈夫、すぐに熱が下がるから」
多分気に入ったのだろう、しきりとはちみつのついた口周りを舐めながら、ディアンがくたりと目を閉じた。
眠ったのだろうか。しばし上下する胸元を確認して、今のうちに足の処置にかかる。
足の薬を取り換えようと貼り薬を取り除いて、顔を顰めた。
「傷はいいけど……腫れが引かない」
回復薬は、外傷特化だもの。ディアン、傷を負ってから結構動き回っていたんだろう。
毒消しは飲んだけれど、それで完治とはいかないようだ。
「やっぱり、内火が……」
きゅっと唇を結んだ。
でも、傷の内火なら、原因の傷と毒さえ消えれば、そんなに大きなことにはならないはず。
傷自体は小さくなったけど、倍ほどに腫れあがる脚へ、丁寧に薬を貼り換えた。
師匠を蝕む内部の内火と、ディアンのこれは違うから。大丈夫、ちゃんと治るよ。
少し視線を下げた所で、呻き声が聞こえた。
「くっ……そ……」
「どうしたの?!」
半身を起こしたディアンは、間近にいる僕にビクっとしてから、自分の脚を指して苦笑した。
「お前、そんな虫も殺さねえ顔して、俺に好き勝手やるじゃねえか……。痛ってぇ……ついでに口ん中が死ぬほど甘苦い」
「あっ、ごめんね! もうほとんど傷がないし……寝ている間の方が痛くないかなって」
「いや……いい」
顔を覆って諸々を耐えているらしいディアンに、少しホッとする。昨日までのディアンだ。ちゃんと薬は効いたみたい。
だけど、内火の熱が下がるのは、薬が効いている間だけ。
「ディアン、今のうちにごはん、食べられる?」
「飯?」
もうかなり冷めただろうパン粥を差し出すと、ディアンの目が輝いた。
どうぞ、の声に生唾を飲むと、一気に掻きこみ始めて大慌てする。
「え、え、そんな風に食べちゃダメだよ、お腹がビックリするよ!」
「俺の腹はそんな繊細じゃねえ」
一滴すら残さないほどこそげて食べる様にぽかんとして、そしてぱあっと笑った。
「待ってて! おかわり持って来る!」
ふらふら頼りない自分の足元も忘れて駆け戻ると、ディアンみたいにきっちり鍋の底まできれいにこそげて器へ入れ、持って行った。
僕もお腹空いたけど、ディアンはもっと空いてそうだ。あんなに勢いよく食べる人を、初めて見た。
差し出したパン粥を猛烈に食べる姿を眺めて、満足感に浸る。
知らなかった。自分が食べなきゃ満足しないと思っていたけれど、人がもりもり食べるのを見ても、満足するんだな。お腹はぺたんこだけど、それよりもずっとウキウキする。
はふ、と息を吐いたディアンが、名残惜しそうにもう一度スプーンを舐めてから、カラリと手を離した。
「……うま。……飯、悪いな」
濃い橙の瞳がそう言って、きちっと僕を見た。
しっかりと絡む視線にうれしくなって、満面の笑みを浮かべる。
「ううん。ディアンって、優しいね」
「は?!」
思い切り目と口を開けたディアンに、僕の方がビックリしてしまう。
「今までの俺のどこに、優しい要素があった?! いや、お前は命の恩人だからな、これでも邪険にしたつもりはねえよ。けど、優しくする余裕もねえ自覚はあるぞ?!」
「えっ……? どういうこと? ずっと優しいよ?」
「お前は誰の話をしてんだ?! あ……いや、怒ってねえ」
怒ってないことくらい、分かるよ?
意味が分からず、小首を傾げる。僕、こういう時の『悪い』は『ありがとう』だって解釈するようにしたのだけど、そこが違ったのだろうか。それにしたって、優しくないことにはならないと思うけれど。
はあ、と額を押さえたディアンが、再び口を開いた。
「ろくに知りもしねえのに、何を勘違いしてそう思ってんのか知らねえけど。俺は大概、怖がられるタチだ。俺がそう言われたっつったら、教会のヤツらがどんな顔するか」
くくっと笑った少し悪そうな顔が珍しくて、目を細めた。
師匠が笑ったら、こんな風かな。それとも、また違う顔だろうか。
「そうなの? でも僕、この二日で、1か月分以上お話ししたと思うよ? いっぱいしゃべったから、少しはディアンのこと知ってるよ! それに、ディアンは何も怖くないから大丈夫!」
どうして自分が怖いなんて思っちゃうんだろう。
ふふ、と笑って頭を撫でてあげると、またギョッと身を引いた。
師匠に似た橙の瞳が、視線を彷徨わせる。
「……お前、怖いもの知らず……いや、世間知らずにも程がある。つうか師匠ってヤツと暮らしてんだろ? 碌にしゃべってないってどういうことだ」
まだ、おしゃべりしてもいいのだろうか。
色々、伝えてもいいだろうか。師匠のこと、僕のこと、日常のこと。
いそいそ隣に腰かけた僕は、それこそ堰を切ったように話し始めたのだった。