58 魔素と魔物
「僕、森に住んでいたけど、この辺りになると全然分からないな……。ディアンはよく分かるね?」
「分からねえでどうする……」
朝からの快晴を通りすぎ、ディアン効果の切れてしまった空には、徐々に雲が増え始めた。さすがに雨は降らないだろうけど、思ったより早く暗くなってしまうかも。暗闇は、人間に不利すぎる。
でも、こうしてディアンの案内で行く森は、あの時の不安定な森とは全然違う。暗くなるのと到着が同時くらいかと思っていたけれど、きっと大丈夫。
「もう結構来たよね? 思ったより早く到着できるよね!」
切り捨てた魔物を拾い上げたディアンに、収納バッグの口を開けて差し出した。
僕が魔法を使うと、ちょっと獲物としての質が落ちてしまうものだから、もっぱらディアンが魔物を倒している。もっと素材の勉強をしないといけないね……。
「魔物避け、使う?」
「使わねえよ。勿体ねえ」
獲物は、獲れる時に獲るらしい。
でも、この調子だと到着までに結構な襲撃に遭うと思うんだけど。
気休めに回復魔法を使おうと思ったけど、それも『勿体ない』と言われてしまった。
「魔物、多いんだね……。以前は魔物避けの効果が凄かったんだね」
それでも、あんな群れに襲われるくらいだもの。
師匠の家は、そこまで奥地じゃない。あの時ディアンが襲われていたトカゲが、個体として一番強いあたりじゃないかな。
それでも、思っていたより随分危険なんだと気を引き締める。
「いや、多い」
「え?」
「魔物。急ぐぞ」
眉根を寄せたディアンが振り返って僅かに逡巡し、足取りを速めた。
「魔物、いつもより多いの? そういう日もある?」
また僕が魔法を押さえすぎていただろうかと慌てたけど、そうではなさそう。
「ある。厄介だ。手応えも違う……なんでだ」
「手応えって?」
「違う魔物みてえな……たまにいる、デカめの個体みてえな感じだ」
「個体差あるもんね?」
普通のことじゃないんだろうか。
首を傾げて駆け足する僕に、ディアンも訝しげな顔をしている。
「個体差はある。けど、個体差の上限ばっか出てきやがる」
「それってもはや、上限じゃなくてそれが普通って言うんじゃ……」
「そんないきなり魔物の強さが上がってたまるか!」
そんなこと言ったって。実際、そういうことはあるじゃない。
「でも今、魔素が濃いでしょう? じゃあそうなるのも想定内じゃない?」
「は? なんで魔素が……」
「なんでって、自然と濃くなる時ってあるじゃない。ディアンだって言ってたでしょう、ゴブリンの魔石、揃って大きいって」
足を止めたディアンが、僕を見下ろした。
「……どういう意味だ。今、魔素が濃いのか」
「分からないけど、どの魔石も大きくなってるなら、そうじゃないの? 魔物が強いのも、濃い魔素の進化圧じゃないの?」
ディアンが、息を呑んだのが分かる。
硬い表情を見上げ、僕も口をつぐんだ。
何か、マズイことが起きている――それだけは伝わってくる。
バッと来た道を振り返ったディアンが、舌打ちして急に動いた。
「わっ?!」
「引き返せねえ! 魔物避けを使え!」
「え、う、うん!」
何か、恐ろしいことが起こる。
小脇に抱えられてもみくちゃになりながら、必死に魔物避けを取り出した。
「野郎のシールドは、信用できんだろうなぁ?!」
「師匠、の?! もちろん、だよっ! 破られた、ことなんてっ、ないっ!!」
猛然と駆けるディアンの、荒い息遣いが聞こえる。
自分で走るとは、言えない。
「一体、なに、がっ?!」
「魔素災害っ……! クソ、気付かなかった!!」
魔素災害……? 魔素が増えたこと? でも、人間は魔力恒常性があるはず。
影響を受けるのは、魔物だけのはず。
もう一度口を開こうとした時、ふいに拘束が解けて、藪に放り投げられた。
――グルアァッ!
思わず目を閉じたと同時に聞こえた、激しい唸り声。
「ディアン!」
「構えろ! 木を背にしろ!」
飛び掛かって来た魔物を足で止め、押し返す勢いで踏み込んで一太刀――!
悲鳴を上げて転げた魔物が、すぐさま跳ね起きた。
ディアンの倍ほどもある魔物に、一気に心拍数が上がる。
「僕は放つ、炎の矢!!」
加減なく込めた魔力の矢で、魔物は断末魔とともにゴッ、と燃え上がった。
周囲の温度がぐっと上がり、弾けた木の枝がパチパチ音を立てた。
「気ぃ抜くんじゃねぇ!! 走れ!」
ほ、と力の抜けた僕を怒鳴りつけて、ディアンが僕を引っ張った。
言い様のない胸のざわつきに呼応するように、森も、ざわめいている。
遠くで、悲鳴が聞こえた。
近くで、唸り声が聞こえた。
ギィン、と鋭い音が、目の前で聞こえた。
「……クソがあっ!」
どこから現れたのか、僕には見えもしなかった大蜘蛛。
その牙を受けとめ、力任せに投げ飛ばす。
「僕は放つ、水のっ、槌!!」
――怖い。
森が、急に大きな音で満ち始めた。
木がへし折れる音、藪が踏み荒らされる音。
魔物とも人ともつかない悲鳴と、獰猛な鳴き声。
「ディアン、ディアンっ……! なに、これ何?!」
「うるせえ、集中しろ!」
もう一体の蜘蛛を切り捨て、再び走り始めるディアンを必死に追いかける。
鼻をつき始めた、折れる生木の匂い、土の匂い、獣の臭い。
生き物の、引き裂かれた臭い。
どんどん濃くなっていく音と匂いが、僕の呼吸を浅くする。
汗の吹き出す顔が肩越しに僕を振り返って、言った。
「クソ――狂うぞ、魔物が」
その瞳の色に、僕は口の中が干上がっていくのを感じた。




