50 選書空間
「な、んだ、これ……」
溢れるような金色の光と同時に、世界が一変した。
平衡感覚を乱したディアンが、わずかによろめいて驚愕の目を向ける。
明るい草原だったはずのそこは、既に面影もなく、辺りはしんと静かな薄闇に包まれていた。
一気に背丈が縮んだ錯覚を覚えるような、巨大な書棚が林立する……静謐な異空間。
師匠の書庫と同じ気配。同じ空気。
しっとり温かい暗がりの中、幻のような書棚はどこまでも続いて見える。
きらきら煌めく古代魔法文字が、とりわけきれいだ。
大きく息を吸い込んで、にっこり微笑んだ。
「これが、『選書空間』だよ。空間魔法の、頂点に等しい魔法。でもね、僕は師匠みたいに維持できないから……長居はできないよ」
お膳立てされた借りものの空間ですら、二人分支えるので精一杯。
まだ遠い師匠の背中を感じて、少し眉尻を下げた。
「ほら、来るよ」
声もなく僕を見つめる橙の瞳へ、促すように薄闇の奥を指す。
書棚の間をふわり、淡く光をまとって引き寄せられてきた本は、1冊。
そうだと思った。ディアンには、まず1冊がいい。必要な本は、きっとあまりにたくさんあるだろうから。
そうっと、手のひらに着地した本を、そのままディアンに差し出した。
ずしりとくる重みは、幸いこの本に実体があることを伝えてくれる。
よかった、選書空間で読むには、厚い本だから……僕が維持できる時間内には無理そうだったもの。
どこか呆けたように受け取ったディアンへ、にこりと笑う。
「きっと、ディアンの助けになる本だから。選書の魔法使いから英雄冒険者へ、最初のプレゼントだよ!」
「……何言ってやがる」
やっと我に返ったらしいディアンが、ふいと視線を逸らし、自然と手に収まっている本を見た。
どんな本なのかな? 戦闘系? それとも、リーダーの心得とか、そういう系統だろうか。
早く見せてほしいけど、それをやると集中が怪しくなりそう。
「ディアン、選書空間を解除するよ!」
宣言と共に、書棚が、暗がりが、空間が現実味を失って薄れていく。
ひらり、ひらり、ヴェールを一枚一枚重ねていくように。
遠くへ、行ってしまうように。
そして相反するように、徐々にクリアになっていく視界と、眩しい日差し。
やがて選書空間が幻となって消えた時、僕たちはただ、ぽつんと平原に立っていた。
……なんだか、夢が覚めてしまったような……微かなもの悲しさ。
だけど確かに、ディアンの手には分厚い本がある。
ぱちり、瞬いて息を吐き、くるりと向き直った。
「ねえ、どんな本なの?」
わくわくしながら駆け寄ると、棒立ちになっていたディアンが、ハッと息をした。
そして、改めて手の中へ視線を落とし、何とも言えない顔をした。
「……合ってんのか、これ」
「え? どういう意味?」
首を傾げて手元を覗き込み、そのタイトルを読み上げる。
「あれ? 戦闘系じゃなさそうな……ええと『演劇実践上級編――役への理解』……うん?」
想像と大分違うタイトルに、ぱちりと瞬いてもう一度タイトルを読み直した。
どう見ても、演者用の本だね。それも、結構実践的な内容の本。
どうして、これをディアンに?
「不発だったんじゃねえのか」
「そんなことないよ?! こうしてちゃんと選ばれたから。間違うってことはないと……思うんだけど」
そんなこと、あるのかな? 僕が、上手にできなかった?
首を傾げつつ、そっとディアンの腕を折り込んで、本を胸に抱えさせる。
「読んでみて。選書の本はね、その人が読まないと分からないの。間違ってるのか、合ってるのかも他人からは分からないから」
「いや……さすがに見りゃ分かるだろ。これは俺に関係ねえ」
「うーん、この中の何がディアンに必要なんだろうね? 僕も知りたいから、とにかく読んで!」
「は? だから間違いだって――」
いいからいいから、と返そうとする本を押し戻し、にこっとする。
「大丈夫! 僕、間違っている感じがしないもの。プレゼントなんだから、ちゃんと読んで! あ、そうだ。これ……もうひとつプレゼント! すっごく美味しかったよ。本を読みながら食べて」
「何だ……? 蜜漬け?」
「そう! ディアン、はちみつ平気だったから、甘いのも好きだよね」
「俺らが食い物をえり好みすると思うか」
それはそう。僕だって嫌いなものなんてないからね!
つまり、好きってことだ! と笑うと、ディアンはプレゼントで埋まった両手を眺め、舌打ちして視線を逸らしたのだった。
◇
「ここの教会の人ってすごいね、小さい子も文字が読めるんだね!」
興奮した様子で駆けこんできたルルアが、勢いのままばふっとベッドに飛び込んだ。そのまま一回転するのでは、という勢いで持ち上がった両脚が、すんでのところでぱたんと地面へ戻る。
お礼に、とミラ婆やローラにも選書をするのだと息巻いて行ったのだが。どうせ、色んなヤツにせがまれたんだろう。
「ミラ婆がうぜえからな」
「ミラ婆さんってすごいね! 何をあげれば一番役にたつか、本当によく知ってるんだね。良かったねディアン、大事な大事な宝物をもらえて」
きらきらした瞳に、そんな大層なものだったろうかと眉根を寄せる。
ミラ婆と年長者による強制的な『お勉強の日』。嫌でたまらなかった記憶しかない。
確かに、文字を知らない孤児なんてごまんといる。読めるに越したことはないな、と一応納得の表情を浮かべたところで、こちらを見上げるルルアがふんわり笑った。
欠片も邪気のない笑み。
まともに目を合わせられなくなるような、温かい光の笑み。
人間は、こんなに透明な笑顔を浮かべられるのだと、こいつを見て初めて知った。
「あのね、僕思うんだ。ディアンがCランクなのは、実力あってのものだけど、でもミラ婆さんのおかげもあるんじゃないかなって。知識があるとないでは、世界が違うよ」
「そんなわけ……」
ない、と続けようとした言葉が途切れた。
依頼がスムーズに読めるかどうか。すらすら文字を書けるかどうか。
当たり前の常識を、知っているかどうか。
ああ、確かに自分は大事なものをもらったのだ。
些細な石でいちいち躓くことなく、まっすぐに走ることができた。
「……そんなもん、孤児じゃなけりゃ持ってるモンだろ」
「そうかな? そうかもしれないけど、でもディアンも持ってるでしょう?」
「俺が持っていても、他のヤツも持ってんだから意味ねえよ。俺らは孤児だ、結局出遅れてんだよ」
フン、と鼻を鳴らして目を眇めても、ルルアは変わらない。
不思議な色の瞳が、まっすぐディアンを見る。
「うん。でもディアンはCランクになったもんね! 出遅れても、いっぱい走ったから。1等賞って一人だから難しいんだけど、目的地まで行くだけなら、遅れたって構わないじゃない?」
くすりと笑うルルアが、ころころ転がった。飛び上がったグリポンが、ディアンの肩に乗って腰を落ち着ける。
「ディアンはさ、不利だって拗ねなかったんだよね。僕もそう思うんだ。だって、もったいないもの。誰だって、他の誰かより不利だよ。だからって行くのを諦めるのは、もったいないよ」
静かな瞳は、恐ろしいほどに揺るがない芯をもって、ディアンを射貫く。
こいつは、この小さな身体でどれほどの努力をしたのだろう。こんなに、あっけらかんと笑える強さに舌を巻く。
「……お前が、そう在るのは、本のせいなのか」
「えっ? どういうこと? 僕って普通じゃない?」
キョトンと腕をついて起き上がった、その間抜け面が腹立たしい。
ピッと肘を弾くと、簡単に崩れて顔面からベッドに着地した。
「ふぶっ?! ……ディアン?! なんで?!」
「顔がうぜえ」
「ひどい?!」
ぱんぱんに膨れた頬を見ながら、ディアンは思った。
本を――、読んでみてもいい。




