42 大人しくする日
ベッドで脚を揉みながら、随分と弾力が増した気がしてにまにましてしまう。
まだランニングを始めて三日目だけど、でも、違いが出ている気がする。
何より、筋肉痛がほぼ消えた。
毎日走ったら、毎日酷い筋肉痛になるのでは……。そう恐れていたのとは裏腹に、二日目はかなりマシに、三日目は相当マシになっている。やっぱり普通の内火と筋肉痛の内火は違うらしい。
「ねえディアン、僕筋肉ついてきたよ」
にっこり見上げると、心の底から馬鹿にした視線が返って来た。
どさり、乱暴に腰かけたディアンの重みで、僕の身体が弾む。
彼は、ぐっと自分のズボンの裾をまくり上げて足を投げ出し、口の端を上げた。
「何がどう筋肉だって?」
「……見た目は、まだかもだけど! 固くなってきたから!」
「へえ」
「いだぁっ?! 無理無理っ!」
僕の腿をぐっと掴んだ手を、必死に引きはがす。
食い込んでるから! それもう、筋肉痛以前の問題だから!!
「そんな力で掴んだら、筋肉あったって痛いよ!!」
仕返しと意気込んで、無防備に投げ出されている腿を掴んだ。片手ではとても掴めないから、両手で思いっきり体重もかけたのに。
……かったい。人間の身体って、こんな固くなるもの?
唖然とする僕をせせら笑って、ディアンが立ち上がった。
「俺は今日出る。貧弱なてめえは、大人しくトレーニングでもしてろ」
「どこ行くの?」
「俺は俺の依頼を片付ける」
一緒には、行かないのか。
だけど、明らかに足を引っ張るのが分かるだけに、何も言えない。
「朝ごはんは?」
「外で食う」
そのまま出て行こうとしたディアンが、戸口でちら、と振り返った。
「大人しくしてろ」
念を押すように言って、じろり、とにらみを利かせる。
別に用事もないし、僕は何も悪いことなんかしないけど。ディアンと違ってね!
見えなくなったディアンに、フンと鼻を鳴らして足を揉む。
……柔らかいな。見た目も、全然違ったな。
「――もっと走れるようになったら、一緒に行けるかな」
「る!」
返事をしてくれたグリポンに、にこっと笑う。
だって、魔法使いだもの。ある程度でいいってディアンも言ってた。
そして、それも大切だけど、僕……攻撃魔法そのものも鍛えなきゃいけないと思うんだ。
しばらくサボってしまっていた魔力訓練を再開しようと、目を閉じた。
体に満ち満ちる魔力を感じて、巡らせる。不思議だよね、こうして巡らせることはできるのに、これはディアンたちのような身体補助にならない。
いわば、これは血の巡り。身体補助は多分……こうじゃないんだ。身体自体に魔力を浸透させる、ような……きっとそういうものだ。
「地・水・風・火。――空間」
小さく小さく、限りなく小さく発動させた属性魔法。そして、全属性を併せて初めて可能になる『無属性』の古代魔法。この程度なら、無詠唱で大丈夫。そりゃあ、毎日練習しているからね。
「る?」
「ふふ、それも古代魔法文字だね。その文字は……これかな?」
グリポンが浮かべる精一杯の1文字を、書いてみせる。きらきらと魔力を内包して輝く、古代文字。
「るっ!」
「そう、上手! そうだ、君にも古代文字の本を貸してあげるね。これで勉強するといいよ」
これは、僕が何度も書き写した文字の一覧。グリポンがこれを見ても、分からないと思うけど……。
でも、もしペタルグリフのように、古代魔法文字で会話できるようになったら。幼児レベルの知能と言っていたから……文章とまでは無理でも、単語だけでも違うだろう。
「でも……君の言ってること、何となく分かるよ。大丈夫」
くすくす笑って、温かい羽毛に頬を寄せた。小さな耳が、ぴぴっと揺れて頬をくすぐる。
いいんだよ、もしそうなったら素敵だと思うことが、楽しいんだから。変わってほしいわけじゃない。今のままで、十分素敵なんだよ。
「きれいな文字が出せるようになったから、ご褒美だね! 君は甘いものが好きだから、いいものがないか探してみようか。師匠、甘いものはどうかな? 好きかな?」
「る?」
嫌いなわけがないでしょう、とでも言いたげな顔に笑った。そうだよね、甘いものが嫌いだなんて、あるわけないって思うよね。でも、師匠はちみつはあんまり喜ばないし。あれは、薬とセットだからかもしれないけど。
「よし、お買い物に行ってみようか? 僕、もう町を一人で歩けると思うんだ!」
「る……」
どこか心配げな瞳に、ちょっとばかり頬を膨らませる。グリポンまで、ディアンみたいに。
僕だって冒険者だよ? 町くらい歩けないと困るんだけど。
ちゃり、と引っ張り出したタグには、きちんと先日の記録が施されている。つい口元を緩めた時、開けっぱなしの扉をノックする音がした。
「おーい、朝飯はどうすんだ?」
「あ! ローラおはよう! 朝ごはん、食べに行くよ!」
ディアンがいないので、すっかり忘れていた。
ぴょんとベッドから飛び降りて駆けよると、ひょいと抱え上げられて仰天した。
「え、え?! どうして抱っこするの?! 重いよ!」
「ん~重くないねえ。柔らかくていい匂い~! ディアンの野郎はいないんだろ? 今日はローラ姐さんと一緒にいような?」
ローラのほっぺだって十分柔らかいと思うのだけど。
それにしても、まさか女の子に抱っこされるとは思わなかった。僕……ローラを抱っこなんてできないのに。
「あの、とりあえず下ろして……? 僕、今日はお買い物に行ってみようかと思ってたんだ」
「おう、マジか! 買い物デートだな、分かった!」
とりあえず飯だ! と引っ張って行かれながら、どうやらローラが買い物に付き合ってくれるらしいと笑った。安堵半分、挑戦が不発に終わった残念半分だ。
「ディアンだと、必要最低限以下の店しか行ってねえだろ! どこ行きたい? 服か、アクセサリーか? あんま金は持ってねえけど、連れてくことはできるぞ!」
「ふふっ! ありがとう! 僕、いろんな店に行ってみたかったんだ」
師匠へのお土産があるかもしれない。ディアンにも、何かお礼が買えればいいな。
にこにこのローラと朝食を食べながら、僕はやっと満足いく街歩きができそうだと、期待に胸を膨らませた。




