40 認める言葉
「――あれが、『選書魔法』」
お店を離れてしばらく、ディアンがぽつりとつぶやいた。
お礼にもらったリンゴのパンを頬張りながら、僕はにっこり頷いてみせる。
「そう。綺麗でしょう? 僕の、大好きな魔法だよ」
「……初めて見た」
それはそう。だって師匠と僕しか使えないもの。
屋台通りの木樽に腰かけ、ディアンはパンを食べもせずに、じっと石畳を見ている。
「魔法使い、珍しいんだもんね。あ、もしかして普通の人には魔法自体が珍しかったりする?」
「戦闘に関わるなら、珍しくはねえ。ただ、町中なら別だ」
「そうなんだ……魔法って、戦闘にしか使わないんだね。それとも、使っていても意識してないのかな」
だって、こんなに身近に古代魔法文字が使われているのに。
首に掛かった冒険者タグを意識する。僕の体温を吸って、肌に違和感なく馴染んでいる。そこには、近々初めての数字が刻まれるんだ。
「あんな、静かな魔法は初めて見た」
「……そう?」
もう一度言ったディアンに、ちょっと首を傾げて見上げた。
他所を向いていたディアンの橙が、ちらりとこちらを向く。
そしてゆっくり姿勢を変えて、まっすぐ僕を見た。
「すげえ、よ。お前」
「――あ……ありがとう」
目を丸くして瞬いて、つっかえながら……ようやくそれだけ口にした。
忙しく目を瞬かせて、今度は僕が石畳を見る。
ディアンは、何も知らないのに。僕、それを分かっているのに。
どのくらい勉強を頑張ったか。
どのくらい繰り返し練習したか。
誰にも、師匠にも、知られない僕の軌跡を、ひっくるめて全部。その全部を認めてもらえた気がして、喉が詰まった。
「ありがとう、ディアン。――あの、ね。僕、けっこう……がんばったんだ」
今なら、言ってもいい気がして、僕は小さく小さく付け足した。
聞こえなくても、自分の中から出してあげたくて、素直に口にした。
それは何気ない思い付きだったけれど……。
効果は、びっくりするほど現れた。
視界は明るく、つかえていたものが外れて、ふっと身体が軽くなったような気さえする。
そして。
「だろうな」
ちょっとためらった手が、僕の頭を押さえるように、くしゃりとした。
ほんの一瞬で離れた手の感触が、まだ髪に残っている。
呆気に取られて見上げると、不機嫌そうに『なんだ』と言われた。
思わず首を振って、急いで残りのパンを口に詰め込む。湧き上がる衝動で、大声を上げたくなっちゃうから。必死に内に留める僕のほっぺは、きっときらきらの真っ赤だ。
ねえディアン、僕これから、ものすごく頑張れるかもしれない。何だって、どんと来いだ。
その手に、一言に、どのくらい力があるのか、きっとディアンは知らないだろうけれど。
なにかが胸いっぱいになって、今すぐディアンにお返しをしたくなる。
「ね、ディアンにも選書魔法使ってあげるよ! どんな本が選ばれるかな? ディアンは、今何を知りたい?」
「厄介なチビを遠ざける方法」
「ひどい?!」
意気込んだ僕は、即答された冷淡なセリフに打ちのめされ、思い切り頬をふくらませてむくれた。
くっと笑ったディアンが、誤魔化すようにパンを頬張る。
「そもそも、どこで使うつもりだ。本がねえとダメなんだろ」
「それはそうなんだよね……。だから、師匠の『選書空間』が最強なんだけど」
「選書空間?」
「そう。すごいよ? 世界の本が集まってる」
選書魔法は、その場にある本から選ばれるものだから、当然本の数が多ければ多いほどいい。
王様の選書をするときなんか、特に。
だから師匠が作り上げた、世界で一番本の多い場所が『選書空間』。
「世界中の本を集めるとか、無理でしょう? だから、写しが多いんだけど」
「写しだって無理だろ」
「うん、普通の写本じゃなくてね、魔法の写し。師匠はお金を払って、本屋丸ごと魔法で写して回ったんだ。写しは、選書空間の中だけで読める、存在のない本だよ」
「は?」
そう、『は?』だよね。くすくす笑って、若かりし師匠の馬鹿みたいな行動力を思う。最強の移動能力をもつペタルグリフと、師匠の実力。あとは国の力があってこその力業。
「選書魔法はね、この『選書空間』あってこそなんだよ。だから、僕は選書空間を引き継げるようにしなきゃいけないの」
「全然分かんねえ。引き継げばいいだろ」
「そうなんだけど……引き継ぐだけでは、管理ができないよ」
選書空間自体は、僕だって使えるのだけど。その一部が、師匠の家にある書庫だから。
超高度な空間魔法を自在に操る力と、膨大な魔力操作。それがないと、借り物のままだ。
まだまだ、僕には力が足りない。
「僕ね、冒険者になって魔法をたくさん使う方が、魔力操作とか魔力量の成長なんかにいいと思って。それもあって、外に出ようと思ったんだ」
「つまり、マジで冒険者として働くつもりか」
「もちろん! 色んな薬草とか、治療法を探すにもいいと思うから」
ディアンが、訝しげな顔をする。
「それこそ、選書魔法で見つかるんじゃねえのか」
そうだよね。だから、もしそれで見つからなかったら? もし、選ばれた本が、『心残りのない最期』を迎えるための本だったら?
何も言わずに微笑んだ僕を見て、察したらしいディアンが、そうかと言って立ち上がった。
「ひとまず、てめえが冒険者になるっつうなら――ついてこい」
「え、ちょっ……待って?! 待ってディアン?!」
「遅ぇ!」
違うよ、ディアンが速いよ! 駆け出したディアンに、必死で追いすがる。一気に息が上がって、お腹が痛くなり始めた。
何、もしかしてこのまま教会まで帰るつもり……?!
嘘でしょう、まだまだ遠いよ?!
「止まんな、走れ!」
「止ま、って、ない!」
「冒険者になりてえなら、この程度で弱音吐かねえよな?」
「もち、ろん!」
息も絶え絶えの僕を振り返って、ディアンがにやっと余裕の笑みを浮かべた。
……悔しいな、僕はディアンの思い通りだ。
弾む息の中に、重苦しい何かが混じって霧散していく。
きっと到着した時、僕の中に残っているのは、ただ疲労と、高揚だけ。
前を行く背中をちょっと睨みつけて、それから、笑った。




