第5話 異常事物研究機関
――何もない空間で私は泣いていていた。
ポタポタと涙が地面に落ちるのがわかる。
「ごめんね、何も出来なくて」
私は目の前に立つ小さな少女に語りかけた。
その少女はその背丈から想像出来る年齢の割には痩せていて、ボロボロの服を身に纏っていた。
「何で泣いているの?」
後ろから見知らぬ誰かに声をかけられる。
振り向くとそこには――
***
綾音が深い夢から目を覚ますと、自身の体が硬い椅子にロープで縛りつけられ、拘束されている事に気づく。
辺りを見回すと今自身がいるこの場所が窓一つないコンクリートの壁に覆われた部屋の中心である事がわかる。
天井には蛍光灯が取り付けられており、出口と思われる箇所は正面に一つある頑丈そうな金属の扉の他にない。
しかし、仮にこの拘束を抜けたところであの出口にはそう簡単には辿り着けないだろう。
何故なら――
「やっと目覚めたか、異常実体と関わりがあるとはいえ、教え子にはあまり手荒な真似をしたくなかったからちょうど良かった」
そこにいるのは綾音は所属するクラスの担任教師である柏木菜津子であった。さらによく見ると、彼女の近くに水の入ったバケツがある事にあるは気づく。
「あとどれくらい遅れてたらそれを浴びせられてたのかは知らないけど、教え子をこんなふうに縛りつけてる時点で十分手荒よ」
綾音は反抗的に言う。
柏木は全く意に返す事なく切り込む。
「単刀直入に聞こう。この本は一体なんなんだ」
そう言うと一冊の本を綾音に見せつける。
それは預言書と呼ばれる綾音にとって忌々しい事限りない代物であった。
しかし、綾音はすでにそこに書かれた預言を一度打破している。
それが一体、預言書に対してどのような変化をもたらすのか、綾音はまだ知らず、またそれに興味があった。
「その本になんて書いてあるのか、それを直接見せてくれたら、私もその質問に答えてあげるわよ」
綾音がそういうと柏木はため息をつきながら、その本の真っ白ページに書かれた一行の文章を見せる。
『仙童綾音は死亡し異世界へ転生する』
死因と時期が不明になっているだけで、その内容はほとんど変わっていなかった。
綾音は思わず絶句するが、柏木は構わず言う。
「さて、お前の要望には答えた、次はそっちの番だ」
そう言われると綾音は渋々答える。
「それは預言者って言われている、私の家系に伝わるクソみたいな本よ」
その一言を皮切りに、綾音は預言書について知る限りの事を話した。
「なるほど、概ね言っていることは本当のようだな」
柏木は特に驚くこともなくメモを取りながら発言する。
「もしかしなくても、最初から知っていたでしょ、それのこと」
綾音は柏木の発言からすぐにその真実を察し、柏木は綾音の言葉に答える。
「君の自宅からこの本に関する記述がなされた文書が幾つも押収出来た。そこからおおよその事はわかった。昨日の事を除いてな」
柏木は、すでに綾音の言っていた事については概ね知っていたのだ。なら柏木は何故あんな事を聞いたのか、その答えは一つしかなかった。
それは綾音が真実を言うか試したのだ。
おそらく、この尋問において本当に聞きたいことは預言書の事ではなく、綾音でさえ何が起きているのか分からなかった、あの豪雨の最中の出来事ついてである。
「さて、それでは聞こう、富士宮深言の持つ異常性について知っている事を全て話せ」
柏木はジャガーノートでも、あの亀裂の事でもなく、富士宮深言について質問してきた。
これは綾音を取り巻く人間関係について把握しているのであれば当然の事である。
柏木も流石に綾音があの場で起きた全てについて知っているわけではないと踏んだ上で、1番情報を引き出せそうな質問をしたのだ。
しかし、綾音はあれだけ深言と長く接していたにも関わらず、彼女が持つ力について知る由も無かった。
「それについては私が聞きたいくらいよ、何も知らないわ」
綾音はそう正直に答える。
だが、柏木は綾音を信用しなかった。
柏木はすぐに腰に携帯してある拳銃を握ると、それを綾音に対して向け、引き金を引く。
パンッ!と大きな発砲音と共に銃弾が目に見えぬ速度で飛ぶ。それは、綾音の顔のすぐ横を擦り、後ろの壁に命中する。
「次は、そうだな、足か腕どっちかに当てる。それが嫌だったらさっさと正直に話した方がいいぞ」
そう言って柏木はあからさまに綾音を脅す。
しかし、その脅しが何かしらの意味を持つことは無かった。
「撃ちたかったら好きなだけ撃ちなさい、その本によれば私は遅かれ早かれ死んで異世界にでも転生するわ」
綾音は一度決して覆し得ぬ死の運命の前に立たされている。その死の恐怖に比べれば今更足やら腕やらが銃で撃たれる事に怯えるほど臆病では無かった。
柏木は呆れ果てながら言う。
「そうか、わかった。その様子だと本当に何も知らなそうだな。なら君には手伝ってもらいたい事がある」
そう言って柏木は綾音に対して一つの提案をする。
「今、この施設にはお前と同じように収容されている要注意人物がいる。察しのいいお前なら分かるだろ、誰のことか」
綾音は当然その人物が誰であるか察する。
そして、ここで為される提案の内容についても綾音はすぐに察した。
「要は、そいつの尋問を手伝って欲しいってことでしょ」
「話が早くて助かるよ、で、勿論応じてくれるよな」
「ええ、そいつについては私としても聞きたい事が沢山なあるわ」
それを聞くと柏木は綾音を椅子に縛り付けていたロープ切り始める。
「ちなみに逃げようとする試みは、私の近くにいる限り上手くいないぞ」
柏木はそう忠告すると、ロープを切り終え、綾音は立ち上がって体を伸ばす。
綾音は柏木が発したその忠告が確かなものである事を直感的に理解した。
綾音にはこの人物の一挙手一投足は無駄がなく洗練されているように見えた。
“こいつは自分より強い”、その真実をそれらのことから綾音は感じ取った。
柏木に連れられて部屋を出ると、同様に窓一つない長い廊下が続いていた。
各部屋につながる扉はどれも頑丈そうで、全ての扉にその部屋の用途を示すと思われる看板が取り付けれられている。
また、扉の真上には、赤か緑に点灯しているか、あるいは点灯していないLEDランプが取り付けられている。
綾音はここに来てから気になっていた事を柏木に質問する。
「そういえば、アンタたちって何者なのよ。警察って感じではないし」
柏木は答える。
「私たちは、国家公安委員会のもとで組織された、現状の科学では説明できない事象を取り扱う組織、“異常事物研究機関”と呼ばれる世間には秘匿された存在だ」
「なんで秘匿されてるのよ」
綾音は最もな疑問を投げかける。
柏木は直ぐに回答する。
「すでに私たちは幾つかの異常実体を収容している。犯罪組織にでも知られたらそれを利用してテロ行為などに利用されかねない、それに、異常実体の実在を知られれば、それを求めて一般民衆が動き出す割合が増加するリスクがある。そうなれば、一般に異常実体が暴露し、それらが被害を与える可能性が増加するだろう」
柏木は数ある理由を語り出す。
どれも確かな理由だが、実際はもっと色々あり、それらの事情が複雑に絡み合った結果、秘匿するのが最も安全と判断したのだと綾音は解釈する。
そうして、綾音はしばらく柏木と共に歩いていると、
「ここだ」
そう言って柏木は一つの扉の前で歩みと止め、綾音もそれに合わせて歩みを止める。
『臨時収容室008』
看板にはそう書かれている。
自身が閉じ込められていた部屋にもこのような看板が取り付けられていたのだろうか、それともこの人物だからこそ、このような看板をかける必要のある部屋に収容しているのかについて綾音は考えるが、結論は出ない。
柏木は扉を開け、その部屋に侵入する。
綾音もそれに伴って部屋に侵入するが、そこには予想通りの光景が広がっていた。
「みこちゃん…」
そこに居たのは、先ほどの綾音と同様に椅子に縛りつけれて拘束された富士宮深言であった。