第3話 運命の日
綾音はあれから来るべきその日に備えてあらゆる策を弄していた。
周辺地域一帯の地形と建物、道路の配置運命把握し、当日自身がいるべき場所を明確にする。
綾音は複数の案を考えていたが、自身をトラックから遠ざける上で最も確実なのは、当時の所定の時間に船に乗って海のど真ん中を航海している状態にある事であると考えた。
当然、そのための予約は取ってあるが、しかし、人員と物資のみを輸送する小、中型船は天候によって航行が中止になる可能性が高く、大型船はトラックが積み込まれるリスクがある時点で危険と言わざるを得ない。
その為、綾音はプランBとして道路から離れた山奥に臨時的な避難拠点を用意しておく必要があった。
綾音は出来るだけ道路から離れた山中を放課後の時間を活用したり、仮病を使ったりして何日も練り歩き、ようやく古い時期に放棄されたと推定される頑丈な二階建ての小さな建物を発見する。
発見した翌日にはその建物の中を調べ上げ、そこが本当に誰にも使われていない安全な建造物であることを確認すると、さらにその翌日に丸一日が確実に滞在出来るだけの水と食料を運び込んだ。
当日、他の人物の侵入によってこの建物から出ざるを得なくなるリスクを防止する為、扉を厳重に施錠出来る設備を用意し、窓は全て鋼板を打ち付けて塞いだが、二階の窓の一箇所だけは緊急の避難路として開けて置いた。
気づけば、その来たるべき日は翌日に迫っていた。天気予報は案の定最悪の結果を示していた。
「なんとなく予想してたけど、まさか台風とはね」
綾音はスマホ片手にそう呟く。
当然、周辺地域一帯の船は航行中止になり、飛行機や電車もほとんどが運転を見合わせるほどの規模の台風が迫っているらしい。
この時期にこの規模台風が来るのは珍しく、現在SNSもテレビもその話題で持ちきりだ。
天候などの影響によって避難拠点への移動が制限される事を恐れた綾音は、鼠色に曇った空の元、いつも使っている鞄を肩にかけて早々に移動を開始した。
自転車を力いっぱい漕ぎ、避難拠点が最も近い路肩に着く、そこに自転車を乗り捨て、木々が生い茂り非常に歩きづらい山中を、無理矢理走って避難拠点に着く。綾音はすでにパラパラと雨が降り始めているのに気づく。
綾音は避難拠点に入り扉を厳重に施錠すると、2階の部屋へ上がり、既に搬入してある暖房を起動させ、布団を敷き、明日に備えて早めに就寝した。
それから綾音が目を覚ましたのは朝の6時30分の事である。綾音は目覚ましをかけることはなかった。何故なら、自身が気づき上げたこの要塞とも言える厳重な封鎖が施された避難拠点を信頼していたからである。
もし、それでも綾音が唐突に目を覚まさなければならない何かがあるとしたら、それは恐らく――
ゴゴゴッ ガタン!
それは綾音が就寝していた部屋中に響き渡った。
「ん…地鳴り!?まさか、」
綾音は全てを察する。その音が示す真実を。
綾音が立てこもった建物はかなり頑丈である。それについては綾音が幾度となく調査を重ね、全く無知であった建築関係の知識を無理矢理頭に詰め込んでまで調べ上げた事である。
しかし、今、この周辺一帯で発生している事象は、建物がいくら頑丈であろうとも、決して防ぎようもない事態であった。
綾音が先日ここについてから、地鳴りを聞いて目を覚ますまでの間、この地域では記録的な豪雨が止むことなく降り続けていたのだ。
それにより地盤は脆くなり、おそらくこれから大規模な土砂崩れが発生するであろう。
綾音はすぐに暖房を消し、綾音は窓から周囲を伺う。
既に大地には幾つもの亀裂が入っており、不用意に動くには危険だと綾音は判断した。
幸いこの建物は頑丈でかつ自分のいる場所は二階なので事が起きても大丈夫だと踏んでいたのだ。
しかし、事はそう容易くなかった。
数分が経ったのち、唐突に事は起こった。
大地が動いてる。そう表現出来る有様であった。綾音が立てこもった建物の周囲一帯の地面が山を下るように流れている。大地の端々は摩擦に耐えられずに崩壊し、それによって発生した土砂や岩石、周辺の木々はこの建物にぶつかった。
大地には幾つもの亀裂が入り、そして綾音のいる建物は激しく揺れていた。
綾音はこの揺れの中では動くことも出来ず、身をかがめ事が終わるのを待つしかなかった。
流れゆく大地は何かにぶつかったのか激しい音を立てながらその速度をゆっくりと下げていき、そして動きを止めた。綾音のいた建物は大きく斜めに傾き、一階部分は完全に埋まっている。
建物どこかに穴が鳴いたのか、部屋の中に泥の混ざった大量の雨水が急激に流れ込んでいる。また、傾いた建物に寄っ掛かるように大きな岩が乗っており、それが今にもその建物を押し潰そうとする。
建物全体にヒビが入り、ここが間も無く倒壊する事を察した綾音は、2階の窓を開けることで脱出を試みるが、建物が歪んでいるせいか窓がなかなか開かない。綾音はすぐにハンマーを手に取ろうとするが、それはもはや深い水底に沈み取れる状況にない。綾音は自身の拳を思い切り叩きつけて無理矢理窓ガラスを破り、脱出を試みるが、割れた破片は腕や顔などの部位に複数の切り傷を与えた。特に窓ガラスを叩き割るのに使用した手からは血が滴るほどの傷を負っている。
痛みに耐えながらなんとか建物から脱出した綾音は絶望的な光景を目にする事となる。
背後は、つい先ほどの建物とそれの寄っ掛かる大岩で塞がれ、右側は土砂によって削られ切り立った崖があり、左側は高く積み上げられた大量の木の残骸を含んだ土砂で埋まっている。
そして、正面には一本の車道が走っており、まるで狙ったかのようにそこまでの道のりはなだらな土の斜面になっている。
遠くから一台のトラックが走ってくる音が聞こえる。急いでその場から離れようと綾は動くが、地面が雨で滑っている影響でうまく走れず転んでしまう。
立ちあがろうとする綾音は顔を上げた綾音は大雨の影響で薄暗い路面を照らすトラックの明かりを目にする。
「はは、みこちゃんの言った通りじゃん」
綾音は絶望に顔を歪めて笑う。
この日、この瞬間トラックに轢かれる、その未来を回避する為だけにあらゆる施策を考え実行したにも関わらず、その全ては無為に全て打ち砕かれた。
止む気配のない豪雨の中、頬を大量の水滴が伝う1人の少女はもはや打つ手を無くしていた。
立ち上がる事を諦め、自身の震えた手を見て綾音は言う。
「本当はわかっていた、無理でだって事」
「私は知っていた。預言書が持つ真の力を」
「あれは世界の全て、この世に存在する全ての物質、それらを構成する素粒子の一つまでが、全て、私をこの真実に導く為に動く」
「その対象にはもちろん、私の体を構成する物質さえ含まれている」
「勝てるわけ、なかった」
綾音にとって決して認めたくなかった、何がなんでも否定したかった真実を、これ以上無いほど徹底的に突きつけられた。
もう何も、なす術は無い。
ここで仙童綾音の人生は、目の前から迫る一台の大型トラックにより幕を閉じ、そしてどこかしらの異世界に転生してしまう――
――かに思われた。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
それは本来、そこには存在し得ないはずの人影であった。
こんな何もかもが泥にまみれ、絶え間ない豪雨は降り続ける冷たい場所にそれは存在していいはずのない人物であった。
かの少女は一本のビニール傘を刺し、綺麗な黒髪を靡かせて、迫るトラックの前に立った。
「なんで、アンタが居るのよ…」
綾音は、涙を流しながら普段とはかけ離れた弱々しい声で言う。
「せっかく出来た友達のピンチに駆けつける事が、そこまで不思議かしら?」
鍵原夜月は笑って答えた。
トラックは夜月の目の前で横転し、滑りながら夜月に迫るが、それは彼女に衝突するギリギリで止まった。
綾音は事の全てを理解した。
彼女と出会った時点でよく考えれば、わかったはずだった。
もし、預言書の持つ力が、世界の全てを操り、私を一つの真実に導くものならば――
それと同質の力で対抗できるのでは無いかと。
夜月が持つ“不傷の呪い”。
それは世界の全てが彼女をあらゆる苦痛から遠ざかるといったものである。
では果たして、この2つの同じく世界に干渉し、その因果を捻じ曲げる力がぶつかり合ったらどうなるのか。
その答えが今、綾音の目の前で示された。
「えっと、これで今7時1分」
「これで綾音ちゃんの運命は変えられたって事でいいのかな?」
夜月は手元のスマホの時計を見ながら綾音に微笑みかけた。
こうして運命は打破され、全ては再び平穏な日常に戻るかに思われた。
しかしこれらは始まりに過ぎない。
ここで起きた事は、これから始まる全ての崩壊の開始の合図であり、綾音を取り巻く残酷な巡り合わせの一端でしかなかった。