それでも人は生き続ける
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『催眠アプリ』リリース10周年!!
クラスの気になるあの子、部署の気に入らない上司、
誰でも思い通りにできるあの催眠アプリは
今日でリリース10周年を迎えました!!
ユーザーの皆様におかれましては、長年のご愛好まことに感謝申しあげます。
今後ともサービスの向上に努めてまいりますので、よろしくお願いいたします。
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今から10年前、2020年の年明けは世界秩序の破滅とともに訪れた。
日本時間の1月1日0時0分ちょうど、何者かによって、スマホなどの複数のプラットフォームで『催眠アプリ』が公開された。起動中のアプリ画面を任意の誰かに見せることで、その人間の精神をコントロール下におき、『命令』に従わせるというアプリだった。
原理不明、開発者不明、公開意図不明。
だが当時の人間たちにその謎を解き明かす余裕はなかった。
リリースから数10分後、一人のSNSユーザーが『催眠アプリ』の画面録画をネット上に公開した。彼は『催眠アプリ』を一種のジョークアプリだと認識していた。録画の中で、彼はふざけながらフォロワーに自死を命令したという。
彼の投稿を見た数1000人のフォロワーがこのアプリの歴史上最初に犠牲者となった。
年を越してすぐということもあり、犠牲者の中には家族・友人共に過ごしていた人も多かったことだろう。その場にいた人間が犠牲者の再生していた録画を見てしまう、といった事故も起きていたはずだ。
被害が拡大すると稀有な例というものも出てくる。すなわち、録画は再生しなかったもののこの投稿の危険性には気づいた人々だ。
ある者は警察に通報を行い、ある者は知人たちを叩き起こしてアプリの効果を伝えて回った。
リリースから数時間のうちに、『催眠アプリ』のダウンロード数は1000万を超えた。
多くの人々が冬の寒空の中で街に繰り出して、アプリを使って窃盗・殺人・拷問・放火・その他犯罪を楽しんだという。国外でも現地時刻、天候に違いはあれ全く同じ地獄絵図が広げられた。
日本では夜が明けて初日の出を迎えるころまでに、警察と自衛隊を含む国家機能がほぼ完全に喪失されていただろうと予想されている。『催眠アプリ』を手に官邸や庁舎や駐屯地を掌握するのはさぞかし気分がよかっただろう。
人類がその誕生から500万年かけて気付き上げた文明は、超常の技術で構築された『催眠アプリ』によって木っ端みじんに破壊されてしまった。
しかし、人類は滅亡したわけではない。
生き残った人々はこれからも生き残り続けなくてはいけないのだ。例え未来の展望が見えなくとも、一度終末を迎えた世界を彷徨わなくてはならないのだ。
隙間風の吹く傾いた住居の中で、一度壊してしまえば二度と直せない遺物に囲まれて、知識を後世に伝えるために書かれた書物を燃やして暖を取り、消費期限の切れた缶詰と見よう見まねで栽培した作物を口に運ぶのだ。
終末によりあらゆるインフラが停止した2030年は、一日を生き抜くだけでも大変な労力が必要になる。その日の食料と飲料水を確保したうえで住処の安全を守るというのは、とても一人だけでできる仕事ではない。
「響くん、そろそろ私が持つよ?」
そういって、荷物持ちのためについてきたはずの私に申し訳なさそうな目線を送る女の子。
彼女の名前は火垂川蛍。年は私と同じ18歳。
短髪のボサボサした黒髪に、誰のおさがりだかも分からない汚れたパーカーとカーゴパンツ。
年頃の乙女のはずなのに、男の姿の私より雄々しいのは、人の目を気にしないファッションのせいか私より一回り大きい身長のせいか......
蛍は満タンのウォータータンクを軽々と両手に持って、普段と変わらない足取りでアジトまでの道を進んでいく。そして私のウォータータンクをこっちに差し出せと、手で合図をしてくる。
どれだけ体力が余っているんだ。そしてお前も両手にものを持っているのにどうやって全部運ぶつもりなんだ?
「アジトはもうすぐそこだし自分で運ぶよ」
と言ってはみたが、蛍はまだ納得のいかない顔をしている。確かに私がついてこなくても、蛍が一人で二往復したほうが仕事は早く終わったかもしれない。ただ、この世界で女性が一人になるのは危険が過ぎる。蛍はどうもそれが分かっていないらしく、どうしても心配になってしまう。
蛍と私の関係は決して浅いものではない。出会いは10年前、当時8歳だった私たちは『催眠アプリ』に端を発する戦火により家族と家を失った戦災孤児という共通点を持っていた。
あの終末から生き延びることができた人間には2つの種類がある。1つ目は単に運がよかった人間。そしてもう1つは、先天的な特性により『催眠アプリ』の効きが悪かった人間だ。
普通の人間ならアプリの画面を見た瞬間に意識を失って『催眠状態』に入ってしまうが、アプリの催眠の効きやすさは人によって異なるため、中には画面を数秒間見つめないと『催眠状態』に入らない人間もいる。
蛍と私はその耐性を持っていた。ある時は画面を向けられた後にその場から逃げ出したり、ある時は『催眠状態』に入ったふりをして画面から目をそらし逃げる隙を伺った。
アプリは一瞬画面を見せるだけで相手の人間の生殺与奪を握ることができるが、ほんの少しの耐性を持っているだけで生き延びる手段が格段に増える。
だが、二人で生活するようになってもっとも役に立ったのは蛍の人を引き付ける力だった。川からキャンプに水を引こうとする難民のために一緒に泥だらけになったこともあったし、食料に困っている難民のために古い防災倉庫の位置を突き止めて、彼らを連れて潰れたコンテナハウスから備蓄を掘り出したこともあった。
男所帯のあのアジトを女の蛍が指揮できているのは、それだけ彼女の活躍が認められているということだ。
私たちのアジトは東京の北部にある、「荒川」という川の管理用の施設だった建物だ。この川の堤防の内側、河川敷は夏になると毎年一度は増水によって沈む。まともな人間はこんなところに住み着こうとは思わない。だが、実は川の管理用の施設は堤防と一体化しており増水時でも水に沈むことはないのだ。この発見をしたのもまた、私の横を歩く火垂川蛍その人である。
管理用の施設の正門は堤防の上の目立つ場所にある。そして、数10メートルの高さがある堤防の上を人が歩くとひどく目立ち、遠くからでも人影が見える。施設をアジトとして使っているのを盗賊に見つかれば面倒ごとは避けられない。だから、私たちは普段川の取水口近くにある非常口から遠回りをして施設の中に入る。
だからその日も、私たちは非常口を目指して歩いていた。
取水口を目前にして、私がその時施設の正門に目を向けたのは偶然だった。
高低差数10メートル、距離100メートルほどの先にある正門を見ると、なんと、正門のゲートが開いたままになっていた。
ややこしいが、私たちにとっては施設の非常口がアジトの正門で施設の正門がアジトの非常口なのだ。施設の正門は堤防の上にあり人の目を引くため、人が住んでいると悟られないために滅多なことでは開け閉めすることはできない。その扉が開いているということは、アジトを捨てて脱出する必要があるような非常事態が発生したということだ。
すぐにこの場を離れよう、と私が体を動かす前に、蛍は私の考えと真逆に正門に向かって走っていた。
馬鹿が!お人よしが過ぎる!
正門を開けるような事態だ、十中八九レイダーだ!
この世界では、スマートフォンなどの端末を充電できる設備を持つ人間は限られている。私たちのような難民は電池切れのスマホを手にすることがあっても、アプリを起動することはできないのだ。
レイダーと呼ばれる『催眠アプリ』持ちのごろつき集団は、アプリを持たない人間を『催眠状態』に陥れて攫ったり、その持ち物を奪って生計を立てている。
そんなやつらに向かっていって、いったい何ができるのだろうか。
私たちはアプリへ耐性を持っているとはいえ、それは催眠をやり過ごす手段であって対抗する手段ではない。
蛍の衝動的な行動には、今回ばかりは付き合っていられない。
私は蛍を見捨てることにした。死にたくないから、彼女を置いてここから逃げることにした。
逃げることにしたのだ......
どう考えても、生き残るためには無鉄砲な彼女を置いていくしかない。
だが、彼女を置いて生き延びて、そこに何の価値があるのだろうか。
10年前、父と母を失い戦災孤児となった私は、終末を生き延びたことよりも一人でこの世界に取り残されたことを呪った。なまじ『催眠アプリ』に耐性があったせいで私は生き残ることができたが、永遠に死に場所を失ってしまった。
そうして彷徨うはずだった私を救ってくれたのは、同じ境遇で同じ耐性を持つ蛍だった。
彼女はこの世界に生き残ったことを呪っていなかった。この世界を再建するために地道に動き続けていた。そして、彼女に集う人々はこの荒廃した世界で、より良い明日を信じれるようになった。
皮肉なことだ。
私が今生き残りたいと思えているのは、彼女がこの世界の未来への展望を示してくれたからに他ならない。
それなのに、生き残りたいから彼女のことを置いていくというのはあまりに滑稽な論理じゃないか。
私がうだうだと考えている間に、彼女の背はもう見えなくなっていた。
私は夢中で正門に向かって、堤防の坂を駆け上がった。
正門の前にはレイダーが3人、片手にスマホを持って立っていた。動きやすそうな作業着を身にまとい、身体の各部位にプロテクターをつけ、フルフェイスのヘルメットを被っている。
彼らの目の前には『催眠状態』に落ちたアジトの男衆たちが並べられている。どうやら尋問か何かの最中のようだ。
蛍は男衆の列の端でうずくまっている。途端に総毛立ち、最悪の想像をしてしまったが、血は見えない。どうやらレイダーに腹を殴られて、痛みで地に伏している。『催眠状態』の人間は意識を失い単純な命令しか受け付けなくなるので、耐性を持つ蛍が拷問を受けているようだった。
レイダーのうち鉄パイプを片手に持った男が、蛍の頬に鉄パイプをピタリとあてて、底冷えする声で彼女に問いかける
「この辺に、アプリに耐性を持っている女がいると聞いた」
「どこにいるか知らないか?」
どうやらこのレイダーは蛍を男だと思っているらしい。もし女だとバレていれば、問答無用で連れ去られていただろう。
蛍はレイダーの問いかけには答えず、無言を貫く。その対応が気に入らなかったのだろう、レイダーもまた無言のまま鉄パイプを振りかぶる。
「やめろ!」
私は声を張り上げる。レイダーはこちらを見て、鉄パイプをそっと下した
「女の居場所を知っている。だからみんなを開放しろ」
これは無理な要求ではない。レイダーは人々から継続的に物資を奪うため、『催眠アプリ』は使うが殺しは最小限に抑える傾向がある。だがこの平和的な要求を通すには、レイダーの要求がかなえられることが大前提だ。
私は身に着けていたシャツのボタンをはずす。第4、第5ボタンをはずすと、シャツの下の胸元に着けていた衣服が明らかになる。それはスポーツブラだった。私の胸にはささやかながら、確かなふくらみが二つ。
「私がお前たちの探している女だ」
私の名前は枇々木響。身を守るため中世的な格好をしているが、れっきとした女性である。