魔術
「説明をしている暇はないから、今は私の言葉を信じてもらうしかない。もちろんもしこの魔術具を上手く使えなくてもそれを理由に罰したりすることはないから安心して欲しい。そして私の頼み事はこの魔術具を君に使って欲しい、ただこれだけだ。」
この突拍子も無い事を簡単に信じられる程に私は現実を知らない訳ではなかった。
失敗したら、という不安もあったが、先程の中年男の言葉があった事、それとともに現状の生活を変えられるかもしれない、自分という存在は魔力のある特別な人間なのかもしれないという期待が私を突き動かした。
「やって、みます。」
緊張で震える声を絞り出した。
そして中年男から受け取った魔術具を両手で大事そうに包み、横たわる少女の前に立ち、指示を待った。
「そんなに緊張する必要はないよ。まずはリラックスして呼吸を整えて。」
目を瞑り、中年男の声に集中する。そして深呼吸を繰り返した。
「そう、上手いね。次はそのまま身体の中心に意識を集中させて。身体の中にある魔力をコントロールすることが大事だ。自分の魔力を意識できたら、次に蝋燭をイメージしてみて。そこに魔力で火を灯してみよう。」
深い集中の中で中年男の言葉を忠実に再現していく。
途端に室内に澄んだ空気が満たされ、私の漆黒の髪をふわりと待ちあげた。
私の見せた予想以上の才能に中年男は驚き息を呑んだ。
「素晴らしい。出来たようだね。その蝋燭の火を身体の中心から足の先、手の先と隅々までゆっくり流していこう。」
額に汗が滲む。
中年男の指示に従いイメージに集中すると不思議とすんなり理解できた。
しばらくして身体の隅まで魔力が生き渡ると、私はゆっくりと目を開いた。
「なにこれ」
魔力を纏った身体は、まるで自分のものではないかのように思えた。
温かい膜のようなものが全身を包み、普段よりも軽く感じる身体と全能感に私は興奮していた。
そんな中で遠い昔、誰かに絵本を読んでもらった事を思い出した。それは魔法使いの本で、絵本の中の魔法使いは自由自在に箒で空を飛んでいた。心の奥底で忘れられず、絵本の魔法使いに密かに憧れていたのだった。もしかして自分にもそれが出来るのだろうか、それとももっとすごいこともできるだろうか。これからの可能性に胸が躍った。
「初めてで成功するなんて驚きだ。」
中年男の声でハッと我に返った。
「次はどうすれば?」
「今と同じ要領で集めたエネルギーを魔術具へ送るんだ。そうすれば魔術が発動しこの娘を治療してくれる。」
言われた通りに魔術具に魔力を送った。
するとコンパクトが淡く光り、身体がほんのりと温かくなるのを感じた。他の変化は特に見られず、これで良いのだろうかと考えていると
「おお!君のおかげで回復してきたようだ。」
横たわる少女を見つめながら中年男が私に声を掛けた。
言われるがまま少女に目を向けると先程まで酷かった顔色が嘘のように血色の良いピンク色の頬をしており、呼吸も正常なものに戻っていた。
自分で治療したという実感は驚くほどになかったが、目に見えて回復している少女に安堵した。
「この娘を寝室で休ませてくるから少し待っていてくれるかい。」
私がうなずくと中年男は微笑み、少女を横抱きし部屋から出て行った。
中年男の姿が見えなくなると途端に力が抜け、私は部屋にしゃがみこんだ。
「はははは。」
緊張が解け、乾いた笑いが込み上げてきた。
信じていなかった。中年男の話など。ただの金持ちの戯れだと思ったのに。出来てしまった。
全身を纏う魔力の膜がまだ残っているかのような、不思議な余韻を感じていた。その為か気持ちが高揚したままなかなか収まらなかった。
人生を変えられる。期待で胸が押しつぶされそうだった。魔術が使えたら平民だとしても引く手数多だ。何よりも安定した収入があればもうひもじい思いをしなくてもすむ。お腹一杯食べるのだって夢じゃないだろう。そして今のように野ざらしの生活ではなく、屋根の下で暮らす事が出来るだろう。先程の全能感も相まって、それこそ何でもできる気がした。
自分の世界に浸り、これからの事に思いを馳せていると先程中年男が出て行った扉がガチャリと音を立て開いた。ビクリと驚き急いで姿勢を正し立ち上がった。途端、ふらりと身体が傾く。咄嗟に中年男は駆け寄り私の身体を支えた。
「おっと、急に魔力を使ったんだ。無理もない。色々と聞きたい事もあるだろうし、座ってゆっくり話でもしようか。」
確かに聞きたい事は山程あった。魔力の事、魔術の事、知りたい事だらけだった私は、中年男の提案に従い、先程まで少女が寝ていたソファへと腰かけた。