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夏はきみの残り香

作者: 白沢 遼

 夏の景色は何もかもが鮮やかだ。

 瑞々しい緑で覆われた山々も、抜けるような青空も、山よりも大きく見える入道雲も、ありふれているもののはずなのに、やけに輝いて見える。

 強すぎる太陽の日差しが世界の輪郭をはっきりとさせているのだろうか。

 それとも、夏という季節に期待しているからだろうか。

 男は書斎の窓際で外の景色を眺めていた。

「あら、先生。原稿の進捗はいかがですか?」

 男の背後から聞き慣れた女性の声がする。

「8割は終わった。あとは書くだけさ」

「またそんなカッコつけた言い方をして……いつも締め切りを破っているじゃないですか」

 呆れた調子で彼女は男の両肩に手を置く。

 ひんやりとした色白の指が、男の身体をすり抜ける。

「まだ慣れないかい?」

「勝手を掴むにはもう少しといったところですね」

 男は振り返り、彼女の姿を視界に収める。

 日差しを入れても薄暗い書斎の中で、少し透明な女性が宙に浮かんでいた。

 切れ長の瞳が自身の手のひらを不思議そうに見つめる。

 女性は白百合の刺繍が入ったワンピースの裾を揺らしながら床板の少し上を滑るように移動する。

「ところで、新作はどんな話になさるつもりですか」

「しばらく暗い話を書いていたから王道のボーイミーツガールで一本。普段の作風が好きな読者からは顰蹙ひんしゅくを買いそうな内容だ」

 男は肩を竦めて微笑む。

「まぁ、陰気な作風が売りの先生がそんなものを書いたらいたいけな少年少女が酷い目にあってしまうじゃないですか」

 女性はわざとらしく口元に手を当てる。

「僕は君の物言いが一番酷いと思うぞ」

「ふふ、でも先生のそういうところ好きですよ」

 彼女は男が望む言葉を歌うように紡ぐ。

 昼下がりの日差しが机に置かれた白紙の原稿用紙を照らす。

「それでは私はそろそろ退散しますね。原稿がんばってください、先生」

「応援どうも、百合さん」

 百合は閉じられたままの扉に向かって身体を滑らせて、そのまま外にすり抜けていった。

 静かになった書斎で、男は机の引き出しに手をかける。

 男は引き出しから一枚のハガキを取り出して裏面を見る。そこには百合の三回忌の案内が書かれていた。



 男の前に死んだはずの百合が現れたのはこのハガキが届いた1ヶ月前のことだ。

 夏の終わりに交通事故で亡くなった百合が、幽霊として同じ季節に現れた。

 男はとうとう自分が狂ったと思った。

 しかし、恋人だった百合との再会を望んでいた男にとって、ある意味理想の壊れ方だった。

 それから男は自分にしか見えない百合との同棲生活をはじめた。

 幸い、一軒家でのひとり暮らしだったため異変に気付くような人は誰もおらず、平穏で充実した日々を送っている。作家活動も以前に増して捗っていた。

 男は百合のことを自身が生み出した幻のようなものだと頭の中で言い聞かせていたが、それでもひとりになると不安になった。明日目覚めたらあの悪戯な笑みを浮かべる最愛の人が消えているかもしれない。そう思うと、胸が締め付けられるような悲しみと恐怖に飲まれそうになった。

 そんな時、百合は決まって男を驚かせるように現れては自分はここにいる。だから安心して、と言って聞かせた。

 男は百合の優しさに甘えながらも、死んだ彼女のことを都合よく慰めてもらうための道具として見ているのではないかという罪悪感を抱き続けていた。

 本来なら百合の冥福を祈るための三回忌も、今の彼女と別れる最後の日のように思えて、出席するべきか悩み続けている。

 男はハガキを引き出しに戻して原稿用紙を手繰り寄せる。

 プロット用のノートを隣に置いて無心で鉛筆を走らせる。仕事に集中すれば抱えている不安もごまかすことができた。

 日が傾き、手元の暗さに気づいた男は書斎の照明を点けて大きく伸びをする。

「今日はひとまずこれくらいで良いだろう」

「お疲れ様です、先生」

 まるで見計ったかのようなタイミングで百合がやってきた。

「私の身体で涼みます?」

「間に合ってるよ」

 男は苦笑いをこぼして窓際に歩いていく。

 夕方の空は燃えるような赤で染まり、昼間は爽やかな印象だった山も夕闇を含み妖しげな雰囲気を醸し出していた。

「黄昏時ですね」

「そうだな。最近は夜になれば鈴虫が鳴き始める。夏の終わりを感じるよ」

「そうですね。ところで、先生は夏は好きですか?」

 男は突然の問いかけに息が詰まった。

 眉間に握り拳を当ててしばらく考え込んだ男は百合の方に向き直り、真剣な表情で答えた。

「夏は好き嫌いだけでは言い表せない季節だ。百合が生きていた頃は深く考えずに好きだと言っていただろうし、死んでからは嫌いだと言っていたと思う」

「それじゃあ今はどう思っているの?」

 男は緊張する身体を落ち着かせるように大きく深呼吸をする。

「……今の僕にとっては、終わってほしくない季節だよ。陽炎のように百合が消えてしまうような気がして恐ろしいんだ。でも、きみはいつも鮮やかで、昔のままで……」

「うん」

「直接は触れなくても、心は触れ合える。百合に救われたんだ」

「そう言ってくれて嬉しいよ」

 百合は絹のように柔らかい声色でささやく。

「だけど、こんな言葉だけではきみへの気持ちを伝え切れない。こうやって喋るのだって、感情を乗せると身体が震えて、うまく、言えなくなってしまう」

「仕方ないよ。昔の先生は口下手だったじゃない」

「……百合」

「はい」

「僕の名前を呼んでくれないか。昔みたいに」

「しょうがないなー。いいよ」

 観念したように笑った百合はゆっくりと口を動かす。

「ずっと、愛してるよ。ーーくん」

 窓の外から場違いなセミの鳴き声が大音量で聞こえはじめ、男は耳を塞ぐ。



 思わず反射で閉じた目を開くと、そこは男の寝室だった。薄暗い部屋の外ではセミが忙しなく鳴いている。

 ふらつく身体をなんとか起こしてスマホで日付を確認すると8月1日ーー百合の三回忌のハガキが届いた次の日だった。

 男の今までの生活があまりにも鮮明な夢だったことに気づくまでしばらくかかった。

 百合がいない現実を目の当たりにして、大きすぎる落胆と仕方ないという諦めで男は大きなため息を吐く。

 おぼつかない足取りで書斎に向かうと、例のハガキが机の上に置かれたままになっていた。

 男はボールペンを握るとペン先を出席と欠席の間でしばらく泳がせた。そして意を決して出席側を選んだ。

 男は百合がいないという現実に2年たっても慣れていないのを改めて自覚した。

 互いに冗談じみた憎まれ口を言って笑い合っていた日々が永遠に失われた事実を彼の心が今も拒絶しているのだ。

 それでも、夢の終わりに百合が残した言葉は男の一番柔らかい心を優しく包んでくれた。それだけで男は救われた。

 ハガキを片手に玄関の扉を開けるとサウナのような熱風が吹き抜ける。

 最寄りのポストに向かうだけで大量の汗をかくことを直感した男は早足で外に出た。

 窓から見ていた景色は今日も鮮やかで、涼しげな緑の山を眺めながら歩く。

 陽炎で揺らぐ赤いポストまでの道のりが普段より長いような錯覚を覚えた。

 ポストの前にたどり着いた男はハガキを穴に差し込んで、底に落ちる軽い音を聞いた。

 汗で濡れた顔をTシャツの袖で拭っていると、不意に冷たい何かが首筋をなぞった。

 男が勢いよく振り返るとそこには誰もおらず、首を傾げる。

 百合ならこういうことをやりそうだな、と考えて男は笑みをこぼした。

この作品は2020年にツイッターで投稿した作品をまとめてタイトルをつけたものになっています。

自分の好きなものを形にしたらこうなりました。

誰かの心に刺さってくれれば幸いです。

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