9.そして、舞台の幕は下りて
ステージに押し寄せる歓声が、遠くなっていく。
エデンは観客席から抜け出し、ミレニアの姿を探した。楽屋の扉を開いても、そこには紫色のカトレアが咲いているだけで――ミレニアの姿はどこにもない。
きょろきょろと周囲を見渡したあと、エデンは扉を閉める。ここにいないとしたら、どこに行ったのだろう? 廊下を小走りにかけ抜けながら、エデンはふと思う。
昨日渡した薬の効果は確かにあったようだった。そうでなければ、あんな風に激しく歌い踊ることなどできない。あの薬さえあれば、まだミレニアは生きていられる。再び舞台に上がることだってできるはずだ。
並べられた舞台機材の間を抜け、エデンはひとつの扉の前に立った、それはドーム裏の庭園に続く扉で、ステージ終了直後の時間なら人気もほとんどない。
少し考えたあと、エデンは庭園に続く扉を開く。ミレニアがいるかどうかはわからないが、確認する時間くらいはある。スチール製の扉を押し開け、短い廊下を駆けて行く。
「……あ」
金色に彩られた木々が、幻想的に輝いている。視線を挙げれば、梢に吊り下げられたランプが等間隔に並んでおり、小道を優しく照らしていた。温かみのある色合いのライトがきらきらと光の粉をまき散らし、歩むたびに音もなく舞い上がる。
そんな美しい光景の中に、ミレニア・オーレンドルフは佇んでいた。炎のように赤い髪を風になびかせながら、身に纏うドレスの裾を軽くつまむ。誰もいない場所であらゆるものに感謝をささげるような姿に、エデンは声をかけることもできずに立ち尽くす。
「やっと、ここまで来られたのにね。残念だわ」
長い静寂を破り、ミレニアはそんな言葉を口にした。エデンが答えを返せずにいると、ミレニアは軽い動作で振り返り、優雅にお辞儀する。
「この度はミレニア・オーレンドルフのラストステージにお越しいただきありがとうございます。……なーんて、ね」
「ミレニアさん。もう、驚かせないでくださいよ」
エデンは唇を尖らせる。良かった、昨日よりも元気そうだ。内心ほっとして、エデンはミレニアに歩み寄る。
ミレニアはいたずらっぽく笑って、金色の梢を見上げた。夜の空に浮かび上がる木々は、この世のものではない美しさを放っている。その光景の真ん中にいるミレニアもまた、幻想世界の住人のように現実味がない。
「ふふ、ごめんなさいね。ライブのあとだからちょっと気が抜けちゃって」
「ほんとうにお疲れさまです、ミレニアさん。ライブ、とても素敵でした」
「ありがと。楽しんでもらえたなら嬉しいわ」
ミレニアの声は少しかすれていた。歌い続けたせいで疲れているのかもしれない。隣に立ったエデンは、なるべく元気な声で話しかける。
「ミレニアさん、ここで何をしていたんですか? 楽屋にいないからびっくりしましたよ」
「ん? ああ、少し風にあたりたかっただけよ。あと、ちょっと考えたいこともあって、ね」
曖昧に言葉を切って、ミレニアはゆっくりと小道を歩き出す。舞うような足取りは、いまだに彼女が舞台に立っているかのように見せていた。続いて歩むエデンは、声をかけようとしてすぐに口をつぐんだ。
「ねえ、エデン」
ミレニアが笑う。それは、カトレアのように華やかで魅力的な笑顔だった。限りなく美しいのにどこか寂しげな笑い顔に、エデンは本当に何も言えなくなる。
「あたし、誰かのために歌えていたかしら」
ミレニア・オーレンドルフは、多くの人の胸に光を灯していた。あのステージを見れば、誰だって目を奪われる。だから、ミレニアは人のために歌えていた。そのはずだった。
それなのに、ミレニアの目には光るものがあった。まるで何かを悔いるかのようなまなざしで、どこか遠くを見つめている。
「ミレニアさんの歌にみんな心動かされていました。だからきっと」
「そうね、わかっているわ。だけどね、あたし……ちょっと失敗しちゃったわ」
顔を両手で覆い、ミレニアは小さく肩を震わす。どうしてあなたが悲しんでいるの? 変化の理由がわからず、エデンは思わず手を伸ばす。
「ミレニアさ」
「触らないで!」
強い拒絶に、エデンは伸ばした手を引っ込める。困惑したまま、触れられなかった指先を見た。どうしたの、ミレニアさん。再び前を見ると、歌姫は苦しげに呻く。
「ごめんなさい……だけど、あたしに触れちゃだめ」
ミレニアは大きく息を吐き出し、エデンから距離をとった。どうして? 小さく呟くエデンの前で、ミレニアは顔から手を外す。
「……こんな風になるなんてね。エデン、あたしの顔、まだ見えてる?」
エデンは悲鳴を飲み込んだ。ミレニアの赤茶色をした美しい左目が――輝く花に変わっていた。降り注ぐ金色の光を受けて、薄紫をした結晶は美しく輝く。
混乱しながら視線を動かせば、ミレニアの喉元からも複数の結晶が顔をのぞかせていた。繊細なガラス細工のようなそれは、命を奪う毒花。激しくせき込みながら、ミレニアはその場に膝をつく。
「どうして……! ミレニアさん、あの薬を飲んだんじゃないんですか!?」
駆け寄っても、手を伸ばすことはできなかった。輝くかけらはミレニアの全身を侵食していこうとしている。涙のように目からかけらを降らせ、ミレニアは笑う。
「ごめんなさいね、エデン。あたし、意外と根性なしだったみたい」
「どういうことです?」
「……これ」
ミレニアは懐から青く輝く薬瓶を取り出す。中の液体は以前と変わらずそのままの状態で、エデンは意図が掴めずビンを見つめるしかない。
「ミレニアさん、どういうことなんですか」
「あたし、この薬飲めなかった。エデンのことを疑っていたわけじゃないの。だけど……先生に言われたのよ。その薬を飲めば、命は取り留めても二度と歌えない、って」
「え……?」
どういうこと? ミレニアの言う『先生』は、レオンのことなのか?
エデンはさらに混乱する。レオンはこの薬が危険なものだと判断した――のか? だとしたら、アサギはやはり噓をついていた? いや、わからない。どういうことなのか。
だが、どちらの意見にも共通しているのは、命だけは守られるということだ。エデンは膝をつき、ミレニアに訴えかける。
「ミレニアさん、今からでもその薬を飲んでください! せめて、命だけでも」
「ふふ、だぁめね。もう、喉が」
ミレニアの口元から血のように結晶が流れ落ちる。もうほとんど右目も見えていないのだろう。ミレニアはふらふらと視線をさまよわせる。
「……エデン。アステルはいないわよね」
「アステルさん……呼んできます! すぐに!」
「いいの。やめて」
ふらつきながらも、ミレニアは立ち上がった。そして結晶化した指先を横にすっと伸ばす。
「エデン、お願い。笑ってよ。そして、ミレニア・オーレンドルフの最期を、見届けて」
振り返れば 優しい言葉
かけてくれた 記憶疼く
けれど今では 届くことなく
遠ざかる背中だけ 見送った
温もり知ることなければ
残された日々に また
立ち止まること 出来たのに
なぜ大切なものばかり 失ってしまうのだろう?
幻でも美しい幼き夢よ
痛みでも消せぬ想い
愛すればこそ誰もが……恋しいほどにbreath less
ミレニアは歌い踊った。ステージ上と寸分たがわぬ動きで、その体にガラスの花を咲かせながら。命を燃やし尽くすような凄絶な姿に、エデンの目に涙があふれる。
「やめて……もう、やめてください……!」
エデンの悲鳴は届かない。ミレニアは最後に続くステップを踏む。すでに体の大半は結晶に代わり、その姿はガラスの偶像のようだった。儚げでありながら残酷なまでの輝きを放ち、ミレニア・オーレンドルフは歌い続ける。
頰に触れて手のひら去って
残される温かな記憶
なぜ愛しさは切ない嘘で 誤魔化されてしまうの?
硝子砕けカケラ刺さるよ
傷ついても忘れられない
君こそ私のすべてと知って……苦しいほどにbreath less
ミレニアの指先がエデンを示す。歌姫は、止まっていた。全身を輝く病巣に冒され、もう二度と動くことも叶わない。それでも最後に残った右目だけでエデンを見て、そっと別れの言葉を紡いだ。
『あいしてるわ、エデン』
砕け散る。多くの呼び声にも振り返らず、ミレニア・オーレンドルフは去っていった。
エデンは呆然とミレニアだった結晶の破片を見つめた。ミレニアはもういない。理解が追い付くより先に、足元にあの薬瓶が転がってくる。
「ミレニアさん」
薬瓶を手に取ると、まだ少しだけ温かかった。確かにミレニアが存在した記録――わずかばかりのそれを、エデンは強く抱きしめる。
「ミレニア、さん」
どこに行ったんですか? わたし、まだあなたにちゃんとお礼も言ってないのに。
「う、っ……あ」
ほおが震える。だめだ、泣いちゃだめだ。ミレニアは、『ミレニア・オーレンドルフ』として去っていったのだから。伝説の歌姫を涙で見送る人がいていいはずがない。
「ミレニアさん、わたし。わらえてますか?」
いくつもの涙が零れ落ちて、エデンの顔はぐちゃぐちゃだった。鼻をすすり上げながらも、必死で口角を持ち上げ笑顔を作る。はた目から見れば無様な姿だっただろう。それでも、ミレニアに泣き顔だけを見せたくはなくて。
「……ミレニア?」
不意に、背後から声が聞こえた。のろのろと振り返ると、そこに立っていたのは灰色の髪の男性――アステルだった。
「エデン、ミレニアは……ミレニアは、どこだ」
何かの予感を感じたのか、アステルの目は結晶の残骸だけをとらえていた。エデンは首を横に振ると、誰にも言いたくなった言葉をそっと告げた。
「その結晶が、ミレニアさんです」
「は? 何を言ってる? さてはあいつ、またふざけているな。少し調子が良くなったと思ったらすぐこれだ。あとで文句を言っておかないと」
エデンの言葉を否定するように、アステルは早口でまくし立てる。認めたくないなら目をそらせばいいのに、アステルはずっと結晶を見つめていた。
きっと、アステルには何もかもわかっている。ミレニア・オーレンドルフが本当の意味で舞台を降りたことを。そして――最期の瞬間に自分を選ばなかったということも。
「アステルさん、ミレニアさんはいないんです」
「やめろ」
「もうどこにも……わたしたちのそばには」
「やめてくれ」
「わたしはミレニアさんを助けられなかった……!」
「やめろって言ってるだろ!」
アステルは叫び、ミレニアだったもののそばで崩れ落ちた。エデンはただ、傍らに立ち続けることしかできない。こんな時ミレニアだったら、どう言ってくれただろう?
「これからだったんだ、あいつの夢は」
「アステル、さん」
「おれの夢はただずっと、ミレニアの歌を聞いていたい。それだけだったのに」
ふたりっきりにしてくれ。そう短く告げたきり、アステルは動かなかった。エデンは少しの間で小さくなってしまった背中に、一礼をする。
これ以上、何を言えるというのか。二人に背を向け、エデンは庭園の小道から歩き去る。途中、出入り口に黒い男が立っているのが見えた。しかし、エデンは無言で通り過ぎていく。
「無様だな。いい加減、お前には誰も救えないと知るべきだ」
黒い男――アサギの言葉は痛烈な皮肉となって、エデンの胸を刺す。だがもう、エデンの顔に涙はなかった。決然と顔を上げ、かなしみの凝る庭園を後にする。
「ええ。確かに無様です。どんなに手を伸ばしても、誰も救えないって理解しても。それでもわたしは、誰かを救いたい。そう願うことだけは自由ですよね」
アサギの答えはなかった。それでも構わない。この想いに、誰かの承認は必要ない。
――翌日、ミレニア・オーレンドルフの逝去が伝えられる。
その早すぎる死に、多くの人が感謝と哀悼を捧げたという――。
第二部「永遠よりも美しき、この一瞬を」~了~