わかりやすさ
後悔はない。
今、あなたの前には英雄がいる。多くの人の願いを受け多くの人のための正義を掲げる存在がいる。
あなたは彼、もしくは彼女、またはその両方に縋る。願う。自分の理不尽さを嘆き、共感してもらう。そして、その英雄さんはあなたの願いを叶えるだろう。英雄ならば。
これを第三者が見たらどう思うだろう。詳しく思ったことは敢えて言及しないが少なくとも賛否両論―否定を半分以上も含む―だろう。
では、暗転。
あなたの前には世界中を戦火に陥れた戦争を始めた者もしくは物がいるまたはある。つまり存在がいる。ある。
あなたは大切な人、両親や家族、親友や恋人がその戦争で亡くなったとする。もしくは目の前で誰かが殺されたとする。
あなたは何を憎むだろう。者? 物? それとも戦争?
憎まない人もいるだろう。
だとしたら、その人は何を思うのだろう。悲嘆? 慈悲? 歓喜? 希望? 無関心?
私にはわからない。
あなたは何を思うのだろう。
また、暗転。
あなたの前には生まれたばかりの命が存在する。
自分と愛している人もしくは人達との間にできた命。自分が兄、または姉になる命。身近にいる動物の命。
などなどなど、様々な命との関係性がある。
あなたは命の尊さに感動するだろう。しない人もいるだろうけど大抵の人は少なからず命の尊さに素晴らしさを覚えるだろう。
そして、自分の命についても考えるだろう。大切な人の命についても考えるだろう。他人の命について考える人もいるだろう。
生。それは、命の始まりであり、人々に生に関するきっかけを与えてくれる。
けれど、それだけではない。死に関するきっかけも与えてくれる。
もちろん、それは当たり前なことではある。生きていること即ちそれは死があるとこと同義であるから。
では、人は死から何のきっかけを得るのだろうか。
私にはわからない。
私には表現のしようがない。
私には一生終わらない、いや、死んだ瞬間に終わるであろう何かがある。
もし、あなたはそれを誰かに伝えられるのであれば教えてほしい。
伝えられないのであれば、考えてほしい。
どっちにしろ、死ぬまで考えてほしい。
そして暗転。
さて、あなたの前には世界が広がっている。あなたが見ている世界は脳科学から見ればあなたの脳が構築した良くできた世界である。
でも、実際の世界は良くできていない。実際の世界にはこの世に存在しうるモノに意義はなく、偶然も必然もない。
この世界に存在するモノに意義を与えているのはあなたと連綿と続いてきた巨人である。しかし、その巨人もあらゆる波に流されて研磨された存在ではあるが。
あなたは存在を認識する。わかりやすく。
世界は無限にも存在する変数によって構築されている。それに比べれば人の脳は相当簡単なものだが、まぁ、しかし現社会に存在するどの物より複雑怪奇で気色が悪いものではある。人工知能も所詮は足し算、ただの力押しであるので―西暦2020年日本時間の9月3日では―。
あなたはあらゆる色に溢れすぎた暗い世界にいる。確率論で見れば、世界は無数にある存在が、それらすべてで複雑に結びついていて、されどどっかの桶屋のようにとても起こりにくい確率で成り立っている。それでも、確率に零はない。もちろん百もそしてそれ以上もない。
あなたは存在を比較して捉える。必ず比較対象がいるまたはある。
比較、つまり、そこにある種の関係性を見出している。もちろん、比較対象は白でも黒でも灰色でもさらにはこの世にない色かもしれないが、何かには分類される。
分類してしまうのだ。生き物が何かを認識するとき、必ず分類するという機能が備わっているのだ。人もしかり。
わかりやすく言おう。
この世に即座に判断できるつまりわかりやすい比較に因果性はなく、相関性をもつ。相関性はどんなもことにも成り立たせることができる。(いじくれば)
因果性はその時々で変わるかもしれない。もちろん、変わらないのがほとんどだと認識はしているが、それが正しいかはわからない。
ここで問おう。
あなたは何がわかりやすさをどう思うか?
貴重な時間を浪費したことを反省したい。謝罪したい。