(23)襲撃
ウォルさんがキャリーを抱き上げてくれたので、それまでよりも速く移動できるようになりました。
キャリーはこれまで男の人に抱き上げられたことが無いので、大男のウォルさんと同じ高さの目線というのはとても新鮮です。
とても見晴らしが良く、何でも見えるような気がしました。
後ろを見れば、門前で一緒に野宿した人たちが追いついてくる様子はありません。
城壁の外に広がる見渡す限りの畑にも、道の両脇に並ぶ家々にも人の姿が見えないのは、奇妙な風景だとキャリーは思いました。
家の中には人がいる気配も感じるのですが、息を殺して外の様子をうかがっているようです。
誰かが助けを求めて叩いたら、あの扉は開かれるでしょうか。
「家の中にいれば大丈夫なの?」
キャリーが首をかしげると、エクさんが唇を歪め、少し不機嫌そうな声で答えてくれました。
「獣なら、家の中でやり過ごすことができるかもしれませんが、魔物は無理ですね」
「えっ……」
「あんなあばら家じゃあ、あっという間に壊されてしまうでしょう。熊どころか、狼や猪でもね。奴らがここまでやって来たら終わりです」
「だったら、逃げなきゃ!」
驚いたキャリーが声をあげると、ウォルさんの前を歩いていた少年が、チラッと振り向いてキャリーの顔を見上げました。
「今、大声で逃げろって叫んでも、誰も聞きやしないさ。魔物なんてこれまで見たこともない人たちなんだから」
そういえばキャリーも魔物を見たことはありません。
少し不思議に思って少年に尋ねました。
「あなたは魔物を見たことがあるの?」
「あたりまえだろう。傭兵なんだぜ、俺たちは」
少年は胸をそらして、青い布が見えるように、左腕を上げて見せます。
とたんに後ろからプッと吹き出すような音が聞こえて、少年がしかめっ面でエクさんをにらみました。
でも、振り向いたらウォルさんが少年を優しく見下ろしているのも見えて、少年の顔が少し赤くなりました。
エクさんのからかいよりも、ウォルさんの優しい眼差しのほうが恥ずかしかったのでしょうか?
キャリーの顔色が少し良くなったのを見て、少年が小さくため息をついていたことに、キャリーは気づきませんでした。
その夜は水場の近くの広場で、別の避難者たちと一緒の野宿になりました。
兵士たちの隊列を見た時点でいち早く避難を決めた人たちだったようです。
話し合いの声が風に流れて聞こえてきます。
彼らはキャリーたちよりも1日早くあの城門にたどり着いたグループ。
彼らもやはり、中には入れてもらえなかったのです。
あてがはずれ、気落ちして、とても疲れているように見えます。
これからどうするかで、ひどく揉めていました。
別の町を目指そうと言う者。
城門の兵士にもう一度掛け合おうと主張する者。
西の国境を目指すべきだと提案する者。
自分たちの村に帰りたいと愚痴を言う者。
話はなかなかまとまらないようでした。
キャリーたちは護衛を雇うことができたので、最初の野宿の時よりもさらに焚き火から離れて、森の中で休むことになりました。
一際大きな木の根元の平らな所に結界付きの敷物を敷きました。
そこでキャリーとマーサが休み、それを3人が囲んで夜の見張りをすることになったのです。
この3人のお陰で、キャリーは不思議な安心感を感じていました。
このまま何事も無く国境にたどり着けるのではないかと、そう思ってしまうほどの……。
夜中に目が覚めました。辺りは真っ暗です。
でも、自分以外の皆はもう目を覚ましているようでした。
何が起きているのかは聞かなくてもわかりました。
人々の悲鳴、泣き声、地響き。絶えず聞こえる恐ろしい唸り声。あれは魔物の声?
ついに追いつかれてしまったのです。
「俺とエクで出ます。坊っちゃんはお2人をお願いします」
「わかった。任せろ!」
ウォルさんは立ち上がると、ぐるっと辺りを見回し、「よしっ!」と小さくつぶやくと、エクさんと一緒に魔物が暴れているらしい広場に向かって行きました。
ウォルさんが見回した時、近くの茂みが少し揺れたのですが、少年はそれに気づいても気にしていないようでした。
何か小さな動物が魔物から逃げて来たのでしょうか?
「あの声は熊の魔物だ。1匹みたいだな」
熊⎯⎯それはこの辺りで最強の魔物です。
マーサが抱きしめてくれても、キャリーの体の震えは止まりません。
おさえようとしても歯がカチカチ鳴って、顎から喉が強ばって痛くなってきました。
ここからは魔物の姿は見えませんが、地響きが魔物のとんでもない大きさを嫌でも教えてくれます。
そして、その唸り声には心の奥底からの恐怖を引きずり出される気がしました。
やがて魔物の断末魔の悲鳴とともに、まるで大木が倒れたような地響きが聞こえました。
「勝ったか?」
少年の嬉しそうな声に顔を上げると、わりと近くで生き物の気配がしました。
揺れる茂み、低い唸り声、暗闇に浮かぶ2つの真っ赤な光、一瞬で視界全てを覆い隠すほどの巨大な影。
キャリーには何が起きているのかわかりませんでした。
マーサが息を飲む様子、キャリーを抱きしめて庇おうとしていること、マーサの胸に抱き込まれる一瞬前に見えた魔物に向かって走った光。
刹那に起こった全てが、まるで時間を引き延ばしたようにゆっくりと、一つ一つキャリーの記憶に刻まれていきました。
少年の雄叫び、生々しい血の臭い、キャリーをきつく抱きしめていたマーサの腕の力が少し緩んで⎯⎯。
恐ろしくてたまらなかったけれど、見なければもっと怖くて……。
キャリーはそっと顔を上げました。
光の魔道具を使ったのでしょう。
暗かった森の中は明るく照らされていて、キャリーは目がくらんでしまいました。
パチパチとまばたきをして視界が戻ると、すぐ目の前に少年がいました。
背中に背負っていた剣を手に持って、なにやらブツブツと文句を言っています。
はっきりとは聞こえなかったのですが、「お前らよくも……」とか「覚えてろよ」とか⎯⎯。
少年はキャリーの視線に気づいたのか、振り向くと「もう大丈夫だぞ」と、ニッコリ笑いました。
少年の前には、さっきまで無かった黒い小山が横たわっていました。
信じられないほどの大きさですが、狼の魔物のようです。
死んでいるのでしょう。ピクリとも動きません。
まもなく、ウォルさんとエクさんが戻ってきました。
熊の魔物は倒したけれど、何人か犠牲者が出てしまったそうです。
血の臭いに、別の魔物が寄ってくる前に出発することになりました。
キャリーは急いで自分の背負い袋から幾つかの小ビンを取り出しました。
「マー、母さん、薬、薬を⎯⎯」
キャリーは懸命にマーサに呼び掛けました。
マーサは驚いたように一瞬目を丸くしましたが、すぐに微笑んでうなずいてくれました。
マーサが自分の背負い袋からも小ビンを取り出すと、見ていた男たちは驚きました。
「それは魔法薬ではないのですかな? 広場の怪我人たちのために使うおつもりですか?
高価な物でしょうに」
ウォルさんの問いかけに、「大丈夫です。これは私たちが作った物ですから」と、マーサは笑顔でうなずきました。
薬師の先生に調薬も習ったので、マーサもキャリーも簡単な傷薬や毒消し薬なら作ることができるのです。
先生からは薬師の心構えについても教わりました。
それは、『人の痛みや苦しみに寄り添い、全力で助ける』というものです。
マーサもキャリーも薬師ではありませんが、自分たちにできることはしたいと思ったのです。
幸い、先生から課題として毎日薬を作ることを義務づけられていたので、この薬はあの日の朝に作った物。
使用期限はまだ大丈夫です。
マーサとキャリーが魔法薬を作れることに、3人とも驚いていました。
兵士たちが駆けつけてくる可能性もあったので、怪我人たちの手当てをする余裕はなく、薬を手渡しただけでしたが、そのお陰で何人かの命が救われたのです。




