(14)面倒な落とし物(その3)
「そうだ、あんた、見たって言ってたじゃない? オードリィが真っ黒な教科書を持って夜遅くに寮の外に出て行くのを」
「……えっ?」
ミリアの唐突な言葉に、ロージィは、愕然としてミリアの顔を見つめることしかできませんでした。
「あら、それならやっぱり嘘つきはオードリィなんじゃないの?」
とたんにサブリナはオードリィの方に歪んだ笑顔を向けました。
しかし、オードリィが自分の方を全然見ないので、つまらなそうにしらけた顔に戻ると、今度はロージィをにらみました。
「早く言ってやりなさいよ。あんたは嘘つきだって。ほらっ、早くっ!」
うつむいて震えているロージィにじれたように、ミリアがロージィの耳元で小さくささやきました。
⎯⎯あんたのお父さんが悲しむことになるかもしれないわね。
ミリアは他の人に聞こえないようにささやいたつもりだったのでしょうが、思う通りにはいきませんでした。
ここは事務室の談話スペース。
相談に訪れた子供たちのどんなに小さな声も拾えるようにと、魔道具が取り付けられ、小さな声がよく響く場所だったのです。
入学時の説明でも、その事は話していますし、この事務室の扉のところにも書かれています。
『事務官は相談者の弱き声にも耳を傾け、小さなため息をも拾う』
ラルク事務官は眉をひそめていました。
先程のミリアの言葉は、まるっきりならず者の脅し文句です。
あれではまるで、サブリナやミリアの言う通りにしなければ、職人であるロージィの父親に商会が圧力をかけると言っているようではありませんか。
そして⎯⎯ラルクの耳に入ったということは、当然オードリィにも聞こえていました。
それまで、彼女は目だつことを恐れるように、ひたすらおとなしく目を伏せていました。
そのオードリィが、ロージィを脅すミリアの言葉を聞いたとたんに表情を変えたのです。
それは劇的な変化でした。
整った顔立ちだけれど、いつも無表情だったオードリィの頬が紅潮し、眉がつり上がり、怒りが瞳に強い光を灯しています。
怒りに燃える彼女の顔は今まであまり目だたなかったのが嘘のような鮮やかな美しさでした。
でも、その瞳でにらまれた者は⎯⎯。
「ひっ……」
ミリアは恐ろしさに悲鳴も上げられませんでした。
“綺麗な顔が怒ると怖い”
“普段、怒らない人が怒ると怖い”
ミリアが声も出せずに震えているのも仕方がないでしょう。
ラルクでさえ、オードリィの気迫に驚いていたのですから。
しかし⎯⎯
オードリィの口が開きかけるのを見たラルクは、パンッと手を打ち鳴らしました。
これ以上はいけません。
学院内では学院生たちは平等とうたわれていますが、本当に平等なわけがありません。
半年から1年もすれば、基礎過程は終わり、全員ここを出て行きます。
ここを出たあとで上位の身分の者が下位の者に仕返しをすることなど、ざらにあるのです。
相手は侯爵を後ろ盾につけた大商人の孫。
孤児の少女には、荷が勝ちすぎる相手です。
王都孤児院の子供たちの後見役は、いちおう国ということになっています。
しかし、その子供とどこかの貴族との間に揉め事が起きた時に、陛下が庇ってくださるわけではありません。
後見役と言っても、たんなる事務手続き上のことに過ぎないのです。
子供たちの監督責任者の1人として、そしてこの場に居合わせた大人として、この少女にこれ以上の重荷を背負わせることなど、見過ごせませんでした。
喧嘩を買ってしまったら、オードリィの負けなのです。
ラルクが思っていた以上に大きく響いた音に、4人の少女たちは驚いてラルクの方を見ています。
「ミリア。今の発言は聞かなかったことにはできないぞ。
覚えていないのかもしれないが、この談話スペースの会話は魔道具に記録される。
それも、入学時に説明されているはずだ。
それから⎯⎯」
真っ青な顔でうつむくミリアから、隣に視線を移すと、ロージィは涙の溜まった目を丸くして、こちらを見ていました。
「ロージィ。君のお父さんは君が思うよりずっとすごい人だよ。
お父さんと商会が喧嘩して、困るのは商会のほうなんじゃないかな?」
ロージィが驚いて瞬きをすると、涙がポロッと一粒、頬を伝い落ちていきました。
この辺の情報も“世間話”でついさっき手に入れたばかりです。
穏やかに笑う従僕頭は、サブリナの祖父の情報も教えてくれていました。
情に厚いが不正を嫌い、己や身内に厳しく、使用人や職人たちをとても大事にしている人だと。
今回のことを知ったら、商会長はロージィとロージィの父親のところに自ら出向いて頭を下げるかもしれません。
そう話すと⎯⎯思いあたるのでしょう。
ミリアは項垂れ、サブリナは顔をしかめてそっぽを向きました。
どうやら、お祖父さんは孫娘にかなり煙たがられているようです。
オードリィが怒りを静めると、先ほどまでの無表情とも違う柔らかい顔になっていました。
これが彼女の素顔なのでしょう。
普通の可愛らしい少女の顔で、ラルクはなんだかとても安心しました。
ラルクはテーブルの上にもう一冊の教科書を置きました。
4人の少女たちの目は、隣のサブリナの教科書に比べて、あまりに綺麗なもう一冊の教科書に目が釘付けです。
悪戯書きで真っ黒な教科書が出てくるのかと思ったら、先生に手渡された時よりも綺麗な状態の物。
オードリィも不思議そうに首をかしげています。
他の3人の話から、自分の教科書は、見つかったとしてもボロボロになっているに違いないと覚悟していたからです。
もしかしたら、新しい教科書と交換してくれるのでしょうか?
ありがたいことですが、オードリィはもう“あの教科書”が戻って来ないのかと思うと、とても寂しいような気持ちになりました。
「ついさっきこれを届けてくれた人がいてね、第5洗濯場の近くに落ちていたそうだ」
少女たちが驚いた顔で、ラルクを見上げました。
ロージィはハッとして、顔を再び青くしています。
父親を誉められて頬を赤くしていたばかりだったのに、(大丈夫だろうか?)と、ラルクは少し心配になりました。
「これまでの皆の話から、おそらくこれがオードリィの⎯⎯」
「嘘よっ!」
サブリナの声がラルクの話を遮りました。
「オードリィの教科書がこんなに綺麗なわけがないわ。
だって、私が一番綺麗なのを選んだのよ。
オードリィなんか、先生から一番汚いのを押し付けられていたのに!」
基礎過程の授業は、まず、“魔力感知”から入ります。
座学で“魔力”や“魔力感知”について学び、試験と実践で合格した者だけが、次の“魔力操作”に進みます。
“魔力感知”に関しては、補助の魔道具が開発され、1ヶ月あれば誰でもレベル1の“魔力感知”を身につけることができるようになりました。
そして、授業が“魔力操作”に進む時、新たに2冊目の“魔力操作”の教科書が配られます。
じつはその時教師の手で、一番汚れのひどい物はオードリィに、一番“まし”な物はロージィに配られたのです。
べつにオードリィが教師に虐められていたわけではありません。
一番汚い教科書は、学院生たちが一番熱心に何度も読み込んだ教科書でした。
“あの”書き込みのある教科書は、教師たちにとっても特別な思い入れのある教科書です。
“特別な教科書は一番勉強熱心な子供に渡す”
それが、教師たちの間の秘密の決まりごとになっていました。
魔力感知の試験は、座学も実践もオードリィが一番だったのです。
そのあと、サブリナが我儘を言って、自分とロージィの教科書を交換させたのですが……。
残り3冊にたいした違いはありません。
ロージィもこだわっていないようだったので、教師は一言注意するだけで黙認したのです。
オードリィはサブリナの騒ぐ声など、耳に入っていませんでした。
彼女は期待のこもった声でラルクに尋ねました。
「あのっ、その教科書に書き込みはありますか?
もしもあるのなら、⎯⎯私、全部覚えています! 全部言えますっ!」
書き込みの暗唱の答え合わせで、目の前の教科書が自分の物だと証明できると言うのです。
これまで、こだわり無く周りに譲り続けてきたオードリィが、初めて見せた執着でした。
ラルクは驚きました。
言葉通り、オードリィは教科書の書き込みを本当に全て覚えていたのです。
おそらく、書き込みだけでなく、教科書まるまる全部が頭に入っているのでしょう。
どのページのどこにどんな書き込みがあるかを、誤字脱字まで含めて、すらすらと暗唱してみせるのです。
けっしてそんなに薄い本ではありません。
書き込みのあるページだけでも30ページ以上あります。
しかもこの本を渡されたのは、洗濯場で発見される前日だったはずです。
夜に捨てられたとすると、1日足らずで全てを覚えてしまったことになります。
オードリィの記憶力には、先輩事務官たちも驚いていました。
こうして、その綺麗な教科書はオードリィの物であると証明されたのです。
サブリナは悔しそうですが、文句の言葉も出てきません。
ラルクはため息をつきました。
⎯⎯残り半分か?
「さてこれで、どっちの教科書がどちらの物かわかったわけだが⎯⎯問題は、なんで洗濯場や他人の枕の下にあったかだなぁ」
ラルクの声を聞いて体を震わせたのは、侯爵領組の3人でした。