(9)“呪われた”人たちと本当の加護
学院のあちこちで奇妙な騒ぎが起き始めていました。
まだ若い従僕がブツブツ文句を言いながら階段を降りていきます。
⎯⎯まったく、なんでこんな夜中にシーツなんて……。
彼は上役のベテラン侍女の命令で、お嬢様のためのシーツを取りに行くところです。
夜中にシーツ?
じつは今日の昼間、お嬢様は少し水を飲みすぎたのです。
いくら特別な水でも、あれは飲み過ぎです。
⎯⎯水をわざわざあんな遠くから運ぶのは俺なんだぜ。もう全部空っぽって……。また取りに行くのかよ。
お嬢様はとりあえず侍女のベッドで寝ることになりましたが、侍女が使ったシーツは交換しないと嫌だと駄々をこねて……。
そのため、この従僕が替えのシーツを取りに1階のリネン室に行くところなのです。
従僕が階段の踊り場にさしかかった時でした。
⎯⎯ドンッ!
いきなり背中を突き飛ばされ、すぐ下の踊り場におもいっきり膝を打ちつけました。
「グッ、ウッ……だれだっ!?」
痛みに震えながら振り返ると、階段には誰もいません。
階段は夜間も魔道具の灯りで明るく照らされています。見逃しようがありません。
逃げて行く足音も聞こえませんでした。
⎯⎯勘違い? そんな馬鹿な。
背筋がさあっと冷たくなりました。
歩き出してからも、また後ろに何かいるのではないかとキョロキョロ見回してしまいます。
目が回りそうですが、やめられません。
リネン室からシーツを一枚受け取り、部屋に戻るまでおかしなことはもう起きませんでした。
ほっとしてドアを閉める従僕の後ろで、「ひっ……」と小さな悲鳴が聞こえました。侍女の声です。
従僕とお嬢様が侍女のほうを見ると侍女は真っ青な顔で小刻みに震えながら従僕のほうを指さしていました。
⎯⎯後ろかっ!
従僕が素早く振り向いても何もいません。しかし次の瞬間⎯⎯。
「きゃああああぁぁぁぁーー……」
お嬢様の悲鳴が寮内に響き渡りました。
従僕の白い寝間着の背中にくっきりと一つ、手形が付いていたのを見てしまったのです。
真っ赤な血の色に染まったその手形は、華奢な女性の手の形をしていました。
◇◇◇◇◇
また、とある侍女の場合⎯⎯。
夜中に飛び起きると、寝間着は汗でグッショリ濡れていました。
今夜はそんなに暑くないのに……。
とても恐ろしい夢を見たのだと思うのですが、どんな夢だったかよく思い出せません。
水を飲もうとして起き上がりました。
⎯⎯そういえば、あの井戸の水は、飲んだらどんな味がするのかしら?
⎯⎯今度はもっとたくさん、飲むための水も確保しておかなくちゃ。
持って帰るのも、あのぼさっとした小間使いにやらせれば良いのです。
侍女は顔を歪ませて笑いました。
その時、視界の隅で何かが動いた気がして⎯⎯。
なにげなくそちらを見ると、窓の外を娘が歩いていました。
腰に届く美しい銀色の髪をなびかせ、飾りの無い簡素な白いドレスで⎯⎯なぜこんな時間に窓の外を…………窓の、外……えっ?
外の娘が振り向きました。その顔は⎯⎯女神様?
目が合うと女神は笑ったのです。その顔はまるで⎯⎯
「ひっ!……」
その翌朝、床に倒れている侍女に驚き介抱した人たちに、侍女はガタガタ震えながら「女神が……女神が……」と、窓を指さしました。
皆、窓を見て首をかしげます。
ここは三階、窓の外には空が広がっているばかりです。
その時です。どこからともなく⎯⎯
「ククククク、フフフ、アーッハッハッハッハッハッハッハッハ…………」
狂ったような女の笑い声が聞こえてきました。
「嫌ああっ!」
侍女は絶叫し、再び気を失ってしまったのでした。
◇◇◇◇◇
粗相をする貴族の侍女や従僕が増えました。
何もない所で転ぶ。物を落とす。いきなり変な悲鳴をあげる。
朝起きたら、顔にべったりと血のような物が塗られていた者もいました。
その頃から、学院に1つの噂が広まり始めました。
“女神の呪い”
井戸の女神は、じつはかつて“呪いの女神”と呼ばれていたというのです。
気に入った者には加護を与えるが、気に入らない者には逆に恐ろしい呪いを下す。
その力は王城の離宮を1つ消し飛ばしてしまったほどだとか……。
⎯⎯嘘だと思うなら調べてみれば良い。
資料庫に消えた離宮の記録がちゃんと……。
⎯⎯そう言えば、最近様子がおかしかったり妙なことを言っている侍女や従僕たちは、女神のお気に入りの小間使いをいじめていた連中じゃなかったか?
“女神の井戸”の水を求めてやって来る人がぱったりといなくなりました。
“女神の呪い”の噂に恐れをなしたのもあるのでしょうが、なにより、井戸の水に特別な効果が見られなかったのです。
顔を洗っても、特に肌が綺麗になった実感はありません。
持ち帰った水で洗濯をしても、他の井戸の水で洗った物と全然変わらない⎯⎯。
これでは、重いのを我慢して水を持ってくる意味が無いではありませんか。
『女神は自分を綺麗にしてくれたお気に入りの小間使いにだけ加護を与えたに違いない。
むしろ、その小間使いをいじめたら、女神の呪いを受けてひどい目に合うのではないか?』
そう、結論づけられ、人々の足が第5洗濯場から遠ざかりました。
まさに“さわらぬ神に祟りなし”です。
それにつれて、おかしな出来事もだんだん減って、“女神の呪い”騒動は終息していったのです。
そして、カリンの日常は元の落ち着きを取り戻しました。
お昼時。持ち寄ったお菓子や木の実でカリンとライラとシェリーはのんびりと休憩中です。
雨季も終わり、かなり暑くなってきましたが、井戸の辺りは涼しくてなかなか快適なのです。
シェリーとライラはカリンの村の乾燥果実を美味しそうにかじっていました。
「いやぁー、それにしても“井戸の女神様”詣での連中が来なくなって良かったわね。
傲慢だし、うるさいし、仕事の邪魔だし。なにより、人がいっぱいだと、ここでさぼれないし」
ライラがやれやれと肩をすくめて首を振る様子に、少しばかり疲れが見えます。
さぼってばかりに見えて、じつはたくさん仕事をしているのでしょうか?
「良かったわね。カリンが大変そうだったもの。
ここで小間使いをしていくなら、いつかは貴族様にも関わっていかなきゃならないけど。
初めは少しずつ慣れていけば良いのよ」
シェリーは乾燥果実を食べてしまうと、内職の繕い物を取り出しました。
内職で稼いだお小遣いは、全て実家に送っているのです。
学院中に駆け巡った“女神の呪い”の噂について、ライラはとても詳しく知っていました。
話し方もとても上手く真に迫っていて、「夜中にトイレに行けなくなったらどうしてくれるのよ」とシェリーが怒っていました。
カリンもライラの話の上手さにドキドキしましたが⎯⎯。
パットが最後にちらっと言っていたことを考えると、もしかしたら彼らがこの騒動に関わっているのでは?⎯⎯そう思えてしまうのです。
パットは“お手伝い”と言っていました。
それは⎯⎯誰の?
⎯⎯そのうちまた、女神様に会いに来るかもしれないわね。
⎯⎯チカッ
その後、井戸の女神様が元気になるにつれて、井戸の水に女神様の魔力が少しずつ溶け込んで、カリンの目には水がキラキラ金色に光って見えるようになりました。
カリンは、この女神様の魔力の溶け込んだ金色の水が、自分の魔力水と同様の働きをしてくれることを発見しました。
つまり、この井戸の水を使えば、カリンは自分の魔力を使わずに“洗濯魔法”を使うことができるのです。
この水がまた、飲むととても美味しいのです。
おまけに休憩中に飲むと魔力の回復が早くなるような気もします。
じつはそれが正解だったことに、カリンはまだ気づいていません。
魔力の回復を早める薬がまだ開発されていないことも知りません。
それだけでは終わりませんでした。
水と一緒に女神様の魔力を取り込むことで、ほんの少しずつカリンの基礎保有魔力量が増えていたのです。
それに気づくのは、かなりあとのことになるのですが……。
不思議なことに、これらの“奇跡”はカリン以外にはおきませんでした。
それこそが本当の“女神の加護”であったのかもしれません。
けっこう大変な事態なのですけれど、カリンに気づけというほうが無理でしょう。
だって、カリンは魔法学院で勉強したことも無いのですから。




