(8)呪いの女神
「ジャック、やめろ!」
その言葉とともに首筋の冷たい魔力の感触が遠ざかって行きます。
同時に、先ほど突然後ろに現れた人の気配が、今度は消えてしまったことに気づきました。
カリンがおそるおそる振り返って見ると、やはりそこには誰の姿もありません。
カチカチと自分の歯が鳴っていることに気づきました。体が震えていたのです。
相手にカリンを傷つける気が無いことはわかっていました。
魔力から殺意も害意も感じなかったからです。
それでも⎯⎯。
⎯⎯怖かったよ……。
⎯⎯チカッ!チカッ!チカッ!チカッ!……
リンは心配からか、怒りからか、激しく瞬いていました。
「ごめんね。ジャックは僕の護衛なんだ」
まるで最初からそこにいたかのように、少年? の後ろに男の姿が現れました。
洗いざらしの茶色のローブの、フードを深く被って顔を隠した男は、何も言わず、わずかに頭を下げました。
少年? はパット、ローブの護衛の男はジャックと呼ぶように言われました。
ジャックは一言も喋ろうとしません。
カリンが落ち着いたのを見て取ると、パットは女神のそばに行き、女神像をじっと見つめています。
そしてポツリとつぶやくのが聞こえました。
「綺麗だね。リシアに似てる」
寂しそうな声でした。まるでカリンよりもずっと小さな子供のように、頼りなく見えました。
「君はカリンというのだろう? 噂は聞いている」
しばらくして振り返った時には先程の姿が嘘だったように明るい笑顔になっていました。
身につけているのは簡素な服だけれど、見た目の印象はどう見ても身分の高いお嬢様。でも内面の雰囲気と魔力の力強さは男の子。
⎯⎯どっち?
⎯⎯チカチッカ?
「女神の加護が評判になっているね。ねえ、あれって本当なの?」
もう好奇心いっぱいの男の子にしか見えませんでした。
カリンはいつの間にか小さなテーブルを挟んでパットとお茶を飲んでいました。座り心地の良い椅子に座っています。
場所を移したわけではありません。ここは第5洗濯場です。
テーブルも椅子もお茶のセットも全部、ジャックが出したのです。
何も無いところにいきなり、いろいろな物が出てくるのは、まるでおとぎ話の中の魔法のようです。
カリンはなんだか少しワクワクしました。
そういう魔法って、どうやって訓練するものなのでしょう?
ジャックがいれてくれたお茶を飲みながらパットが口にしたのは、かなり不穏な言葉でした。
「どうやら、呪いを受けている様子は無いね」
「……呪い?」
パットは井戸の女神に目を向けました。
「あれはおそらく、昔、“呪いの女神”と呼ばれていたものだと思うんだ」
「“呪いの女神”?」
⎯⎯チカッチカッ!
なにやら、リンが強く抗議しているようです。
パットもジャックも、カリンの服の中のペンダントの様子に気づいていないと良いのですが……。
ただ、カリンもリンと同じ意見です。
あの女神(?)が人や何かを呪うとは思えません。
たしかに意思を持った魔力を感じるけれど、まるで昼寝から起きたばかりの寝ぼけた子供のようなぽやぽやした魔力です。
誰かを呪うほどの強い悪意を持っていたとは、どうしても思えないのです。
「王宮の庭の東屋にあった“呪いの女神”の呪いを受けた女性が離宮を1つ、跡形もなく消してしまったという昔話があってね」
とんでもない大事件ではありませんか?
「まあ、事実は違う事が、ちゃんとわかっているのだけれどね」
パットは肩をすくめてみせました。
少年の澄んだ高い声がおとぎ話を語り始めました。
「昔々、心から愛し合う王様と王妃様がおりました。
美しく心優しい王妃様を誰もが慕い、愛しました。
ある日王妃様が神様の目にとまり、どうしても欲しくなった神様は、王妃様を天に召し上げてしまいました⎯⎯」
王妃様を失った王様は、とても悲しみました。
そして国中の絵描きと彫刻家を集め、王妃様の絵や彫刻をたくさん作らせました。
来る日も来る日も離宮に集めた絵や彫刻の王妃様に話しかけて過ごす王様を心配した家臣たちは、新しい王妃様を連れてきました。
新しい王妃様も、とても美しく、優しく、賢い女性でした。
でも、王様はあい変わらず、前の王妃様の絵姿以外に話しかけようとはしないのです。
新しい王妃様はなんとか王様に聞いてもらおうと、毎日、話しかけたり歌を歌ったりしましたが、何をしても王様は振り向いてくれないし、返事もくれません。
そんな王様の様子や新しい王妃様の嘆きを天から見ていた前の王妃様はとても悲しんで涙を流し続け、病気になってしまいました。
怒った神様は王様も姿絵も彫刻も、離宮ごと全てを焼きつくしてしまったのです。
「そして、庭にあった東屋の彫刻だけが残った。
2番目の王妃様は同じ場所に小さな離宮を建てて、王様のために祈り続けたそうだよ。
そこは本当にあったことなんだ。
離宮とともに焼死した国王がいたというのもね」
「その東屋が……これ?」
「どうかな? 僕はそう思っているけどね」
たしかに、お城の庭にあったほうが似合うとは思いましたが……。
「“呪いの女神”や呪われた女性が出てくるのはこの後の話になるんだよ」
カリンの前の冷めたお茶を、ジャックが入れ直してくれました。とても慣れた手つきです。
「呪われた女性の話は、小さな離宮を建てた王妃様が亡くなった後かなりたってからの事なんだ。
本当のところは、女性はべつに呪われていたわけでも何でもなかった。
恋人の浮気に悲しみ、怒り狂った普通の女性。
彼女は、恋人がいつも浮気相手との逢瀬に使っていた離宮を燃やしてしまったんだ。
恋人と浮気相手も一緒にね」
⎯⎯うわぁ。
⎯⎯チカチカチカ……
⎯⎯リン。震えてる? 怖いの? 怖いよね。
「恋人が浮気相手に愛を告白して結ばれたのがこの東屋だったらしいよ。
犯人の女性は離宮の次に東屋を壊そうとしているところを捕らえられたんだ。
『この女神のせいで⎯⎯。この女神のせいだ⎯⎯』
そう言い続けていたんだってさ」
離宮は建て直されることなく、その後、美しい庭園になった。
そしていわく付きの東屋は⎯⎯。
「離宮がまた燃やされてしまったのは、神様の怒りが残っているせいなんじゃないかと言われるようになったんだ。
『神の怒りが呪いになって、女神像に残っているに違いない。“呪いの女神”だ』
そう言われてね」
思わず、全員の視線が女神像に集まりました。
カリンは、女神像が首をかしげているように見えました。
何か、中でポウッと温かな光が瞬いたような気がします。
「“井戸の女神”の噂を聞いて、もしかしたらと思って来てみたんだよ」
もしも、この“井戸の女神”が昔話に出てきた東屋の女神様だったとしたら⎯⎯。
女神の呪いが恐ろしくて、壊すことも捨てることもできなかったのでしょうか?
見事な芸術作品を後世に遺したかったのでしょうか?
それとも、絵や彫刻にしてでも、愛する人をこの世につなぎ止めようとした王様の思いが最後に勝利したのでしょうか?
理由は今となってはわかりませんが、女神は見事によみがえったのです。
◇◆◇◆◇
「つきあってくれてありがとう。楽しかったよ」
パットのそんな言葉を最後に、気がつけばテーブルも椅子も、パットとジャックも消えていました。
でも夢ではなかった証拠に、カリンは乾燥果実の瓶と残ったお菓子を入れたバスケットを持っています。
乾燥果実は「頑張った君にご褒美」と言って、パットがくれたのです。
まだ1ヶ月しか経っていないのに、とても懐かしく感じました。
それは、あの村の乾燥果実でした。
カリンも作るのをたくさんお手伝いした“あれ”です。
「今回は僕が動く必要は無いようだけど、少しだけお手伝いしようかな?」と言っていましたが、パットは何をするつもりなのでしょうか?
井戸の側にある大きな石に腰かけて、瓶の蓋を開けました。乾燥果実を1つ取り出すと甘酸っぱい香りが広がります。
1口かじると口の中に爽やかな甘みと香りが⎯⎯懐かしい。
少しずつ明るくなっていく景色をながめながら、カリンは村の人たちが丹精込めて作った乾燥果実をゆっくり味わって食べたのです。