(7)噂の精霊
「なんであんたの肌は、こんなに艶々プルプルなのよ!」
噂によれば、『カリンが井戸と女神様を綺麗に掃除したので、女神様はそのお礼に井戸の水に加護をお与えになった。
そして、その水をで洗ったおかげで洗濯物もカリンの肌も綺麗になったのである!』
⎯⎯ということになっているようなのです。
⎯⎯肌が綺麗だと言われて喜ぶべきなのかしら?
⎯⎯チカッ?
そういうことなら、しばらくの間は井戸の水を汲みに来る人の数が減ることはないでしょうね。
井戸の水にはなんの美容効果も無いことがわかれば、騒動も下火になるでしょう。
でも、それまで何もせずにただ待っているだけというわけにはいきません。
洗濯物は次々に運ばれて来るのですから。
仕方ないので、カリンはもっと早起きして、薄暗いうちに洗濯を済ませてしまうことにしました。
そろそろ夏本番の前の雨季に入る頃です。
みんながまだ寝ている時間でも、もうけっこう明るいのです。
でも、その時間だとまだ、汚れた仕事着やシーツなどは洗濯場に集まってきていません。
だったら夜のうちにカリンが自分で集めて回れば良いのではないかと思い、すぐにマシューさんから許可をもらいました。
問題はその時間だと荷運びの魔道具が使えないことです。
魔道具の貸し出し時間は朝の始業時から夕方の終業時まで、事務官の仕事の時間内に魔道具を返さなければならない決まりです。
⎯⎯魔道具が無いなら、自分で担げば良いじゃない?
⎯⎯チカッ!
面白そうだったあの魔道具が使えないのはとても残念ですが、カリンなら、おそらく自力で運ぶことができるでしょう。
マシューさんが、大きな麻袋を貸してくれました。
あの魔道具が無かった頃は、洗濯物はこういう袋に入れて担いで運んだのだそうです。
マシューさんも昔よくこの袋を担いだものだと、とても懐かしそうでした。
夜は仕事が終わった人たちの汚れた仕事着を、夜明け前には早起きの料理人や馬屋番たちのシーツを集めて回ることにしました。
仕事終わりのおじさんたちが水浴びをする井戸の周りで⎯⎯。
あるいは早朝の薄暗い寮の廊下で⎯⎯。
小さな女の子が大きな袋をかついでちょこまか動き回る姿がよく見かけられるようになりました。
そして、それを見かけたら、『その日は良いことがある』と言われるようになっちゃったみたいなんですけど……。
ライラとシェリーに話したら、2人とも心配するより呆れていました。
2人で顔を見合わせて、なにやらこそこそと⎯⎯。
「まあ、問題はすぐに片づくんじゃないの? これは、あいつが本気で怒るでしょう」
「いや、もうすごい怖い顔で笑っていたわよ。『俺たちのかわいい末っ子に何してくれる』って」
「そういえばあのかたも……」
2人はカリンには聞こえないような声で、ヒソヒソとないしょ話をしていました。
カリンも、自分の姿の怪しさは充分自覚しています。
カリンの体が小さいため、薄暗い中だと大きな白い麻袋が空中にふわふわと浮かんで⎯⎯まるで袋が勝手に動き回っているようにしか見えないのです。
だから、噂好きのライラが新しい噂を持ってきた時、カリンは自分の事かと思ったのです。
その噂とは、学院の敷地内、それも第5洗濯場付近で“精霊”が目撃されたというものでした。
精霊といえば、おとぎ話に出てくる不思議な存在のことです。その姿は物語によって、美しい女性だったり、動物の姿だったり、姿は無くて声だけだったりします。
本当にいるのかもしれないけれど、『たしかに見た』という人がいない。想像上の存在に過ぎないと言う人もいる。そんなものなのです。
詳しく話を聞いてみると、今回の“精霊”は、どうやらカリンのことではないようでした。
精霊は銀色の髪の美しい少女だというのです。
袋のお化けではありませんでした。
あとで念のために確認してみると、大きな麻袋を担いだ小さな少女に関しては、マシューさんから警備の兵士にちゃんと連絡済みでした。
あらかじめ話を聞いていなかったら、悲鳴を上げていたかもしれないと、警備の隊長さんが冗談めかして笑っていたそうです。
⎯⎯ありがとうございます。ご面倒をおかけします。マシューさん。
⎯⎯チカッ。
◇◇◇◇◇
初めてカリンがその精霊を見たとき、精霊は井戸の女神様の前に立って、女神様をじっと見ていました。
一瞬、彫刻が動き出したのかと思ってしまいました。
女神像? とよく似ていたからです。
でも魔力が違いました。それに、この精霊さんは間違いなく人間です。
少女は飾り気の無い真っ白なドレスを着ていました。
美しい銀色の髪を結わずに背中に流しています。
カリンの方に振り向いた瞳は紫色。カリンよりも少し年上でしょうか?
⎯⎯違う。違うわ。
すぐに勘違いに気づきました。そして、カリンはそれを何気なく口にしてしまったのです。
「男の、子?――――」
次の声が出ませんでした。
カリンの喉に、後ろからナイフの刃が突きつけられています。
「ジャック、やめろ!」
目の前の少女が発した声でした。
高く透き通った、しかし凛として力強いその声は、たしかに少年のものでした。