冬
何も起きない話。
雪国の宿泊施設。
殺人事件の舞台としてお馴染みのあれである。
雪の降らない土地に生まれた俺が、人生で初めて雪国に足を踏み入れたのは、学校のスキー合宿免許での事だった。
「ったくよ、寒過ぎだろ」
初日を終えた俺の口をついて出たのはシンプル極まりないそんな感想だった。
「いや、そーでもなくね?」
そう答えたのは俺の悪友たる古谷だった。
「まじかよ。んじゃお前、その格好で外出てみろよ。鍵はかけといてやるからさ」
「殺す気じゃん。それはさすがに勘弁だわ」
班長会議、と呼ばれる集まりに駆り出された俺は悪友とそんな他愛のない事を話していた。
「つーか、シンプルにスキーがしんどい。全く出来ん。どーしよ」
自分として紛いなりにも運動部の所属であり、それなりに真面目にやっている自覚もあったし、多少は目が悪かったりもするが、反射神経なんかには結構自信があった。そのはずなのだが、今日に関しては、距離の測りにくい純白のゲレンデにおいて、その目の悪さが足を引っ張っていた。
「聞いたよ。酷かったらしいじゃん」
茶化す友人に、俺は冗談じゃないと言わんばかりに続けた。
「いや、ほんと、こんなに滑れないとは思わなかったよ」
「ちょっと、男子!あんたら何だべってんの?真面目にやってくんない?」
ロビーのソファーにて、そんなふうにくだらない話をしながらゲラゲラ笑っていた俺たちを、突然現れて怒鳴りとばしたのは、同じく班長だった花衣という女だった。
「んだよ、硬いこと言うなよな。なぁ、宮崎?」
俺は露骨に不機嫌なふりをすると、花衣の後ろに立っていたもう一人の女子の班長に声をかけた。
「こんばんわ、椿ノくん、 古谷くん」
宮崎は未だに食ってかかる花衣を抑えながらそう返してきた。
「ったく、飼い犬から目を離すなよな」
「誰が犬だ!?」
「誰もお前だとは言ってねーつーの。もしかしてご自分が犬だとご自覚なされている……?」
「うるさい!!」
丁々発止、火花を散らす俺たちを知り目に、宮崎は呆れたような顔をしていた。
「相変わらず、二人は仲良しね」
やれやれ、と言わんばかりの表情の彼女に、俺はソファーに座ったままにそう答えた。
「だろ?」
それがまた彼女の心を刺激したようで、花衣はいっそうイライラを募らせていた。
「こいつと!私の!どこが!!仲がいいの!!」
口をついたのは正反対の答えであり、俺は顔を真っ赤にして怒る彼女を楽しんでいた。
「おい、花衣、静かにしろよ、煩いぞ?」
「お前のせいだ!!」
俺はさらに顔を真っ赤にして怒る彼女をからかって遊ぶ。
「はいはい、仲のいいのは結構だけど、そろそろ真面目にやるよ?」
おふざけはここまで、と遮った宮崎は俺たちに何枚かの資料を渡すと、明日のことや何かについての連絡を始めた。
初めからやる気のなかった俺は、資料に目を落とすふりをして、周りの様子を盗み見ていた。窓の外を埋める見慣れない雪。ホテル独特の安っぽい赤いカーペット。野暮ったいシャンデリア。やたらと分厚いカーテン。視線は揺らぎ、僅かに眠気を孕んできた、そんな時だった。
ふと、正面のソファーに座っていた花井の顔が目に入った。髪をかきあげながら、資料に目を落とす彼女の顔は、寒さゆえか、風呂上がりだからか、はたまた先程のケンカの熱をまだ何処かに残しているからか、僅かに紅く染まっていた。その微かな紅さは、真っ白な世界にとても映えて見えた。
紙をめくる音だけが響くロビー。窓の外では音もなく積もる雪。彼女の顔から外れてくれない視線。
「なぁ、花衣」
ふと、言葉が口をついた。
「何よ?」
彼女は明らかに興味のない空返事をした。
「お前、今日はメガネしてないのな」
俺はなんともなしにいつもの彼女との差異を指摘した。
「えぇ、そうよ。お風呂上がりだし」
相変わらずこちらを見ることなく、その視線は資料に向けられている。資料に目を落としながら、艶っぽい黒髪をいじる姿はとても様になっていた。
「眼鏡、無い方が可愛いよ」
「……え?」
その瞬間、彼女の頬が上気する。
「少なくとも」
「俺はその方が好きだな」
窓の軋む音がした。カタカタと震え、それに合わせ、少しだけシャンデリアが揺れた。
「それじゃ、俺は部屋に戻るわ」
俺は、ろくに読んでいない紙束をテーブルに捨ておいて、その場をあとにした。
雪国のホテルはいやにスチームが効いていて、俺は降りしきる雪に少しだけ想いを馳せた
何も起きなかった