5、狼
教室にいる生徒は、たった4人になった。常に開いている机をみるのが、ただつらかった。
そうこうするうちに、1年がたち、授業の難易度はさらに跳ね上がった。僕たちは心にぽっかりと空いた穴に気付きながらも、増えるレポート課題への対応に忙しくしていた。
これは作戦なのかもしれない。彼女たちを忘れさせるための。そんなことすら思った。
けれど、一度いなくなった人の跡は簡単には消せない。机を片付けても広い教室に4人だけいる虚しさが残るように。いくらこすっても消えることがない「しみ」のように。それは僕らに残り続ける。
はじめに、そのしみに耐えられなくなったのはクリスだった。
***
「相談があるんだ」
クリスが折り入って相談しにきたのは、授業後の寮の共有スペースでだった。僕とリナとエレンを前にして、クリスは自身の杖を見せた。
「僕は魔法を使えるようになりたい」
クリスがいまだに初歩魔法、教室の明かりを変えることすら成功したことがないのは、僕たちの中では周知の事実だ。
「だから、特訓に付き合ってほしいんだ」
クリスの相談は今更な感じがした。しかし、クリスは魔法が使えないことでいつもエレンにからかわれていた。それを慮ると、からかってくる本人を含めた僕たち全員に声をかけるということは、それだけ必死になったということなのかもしれないと思った。
「当然でしょう。いくらでも付き合うわ」
リナはそれを聞いてむしろ嬉しそうですらあった。エレンも僕もそれに頷く。
クリスはそれを見てほっとしたように、杖を差し出した。
その行動に僕たちは理解ができず、顔を見合わせる。
「まずは壊れていないか確認をしたいんだ。オリビアがイリーナの杖を交換したときのことを覚えている?」
忘れるわけがない。けれど、クリスが自身の杖が壊れているかもしれないと疑っていることに僕は驚きを隠せなかった。確かに壊れてもおかしくないほどには全く魔法が使えないわけだが、もし壊れていると本人が思っていたとしたら、彼はこの長い学校生活で絶対に使えない魔法の授業を受け続けていたことになるのだ。
クリスは皆が頷くのをみて、催促した。
「まずは僕の杖をだれかに使ってみせてほしいんだ。多分、オリビアがやってたみたいに僕の杖を誰かが振って、僕がその手を添えればいいんだと思う」
そこにリナが疑問を挟む。
「ねぇ、あの時、杖を交換するのはいけないって先生が言ってなかった?これって、ひょっとして校則に反するんじゃない?」
杖を粗末にすると校則に反する。この『粗末』というのが、どこまでの範囲をいうのか僕たちにはわからないでいる。
「その可能性はあるよ。だから今まで試せなかった」
クリスの言い方に、僕らは気が付いた。クリスは校則を破る覚悟で、頼み込んできたのだと。
「わかった。俺がやる」
散々クリスをからかってきたエレンが、そう言った。すぐにクリスの杖を手に取る。そして、杖を振った。
途端、照明の明かりが緑色に代わった。
今までみたことがない色だ。そう思った。これがクリスの杖の色なのだ。
「壊れていないみたいだ」
奮える声でクリスがつぶやいた。
魔法が走るその瞬間に、感動しているようにすら見受けられた。
「これで、お前自身の力不足だって証明されたな!」
ほっとした様子すら浮かべて、エレンがクリスに杖を返す。
「うん、ありがとう!」
クリスも吹っ切れたように笑みを浮かべた。
それから、クリスの魔法の特訓が始まった。
「クリスは杖の振り方がなっていないのよ。まずはゆっくり振って形を覚えてから速度を上げていきましょう」
リナの助言で、まずは素振りの練習が主になった。僕らがレポート課題に取り掛かっている間にもクリスはひたすら素振りを続けた。課題が大変な日は僕らも手伝って、クリスに魔法の練習をする時間を作った。クリスはどんなに忙しいときも自分の誕生日の日にすら、必ず練習を続けた。
動きが様になってくると、今度はエレンが助言した。
「お前、意気込みながら杖を振るうと動きがおかしくなるだろ」
エレンの助言はとんでもなかった。
「意気込みなんて、魔法には関係ないんだ。変に考えるな」
そういって、エレンが杖を軽く振って照明の色を黄色に変えて見せる。
「お前たちもそうだろ?念の入れ方が大事だなんていうけれど、一切気にすることはないぜ」
僕は律儀に先生の言う通り杖を振るってきたので、その発言は衝撃だった。
「確かに、この魔法はあまり意識してないけれど」
リナもそういって同意するので余計にだ。
「う、うん」
驚いた様子のクリスだったが、この助言がうまくいった。杖の動きが一気に様になったのだ。
そして、ある日の朝。
眠気眼でベッドから起きた僕は、そこにクリスの姿がないことに気が付いた。仲間がいなくなることに敏感になっていた僕は慌ててエレンを起こして、共有スペースまで駆け込んだ。
そこで見たのだ。緑色に変わった照明を。
その明かりの下にいるクリスを見つけて、声をかけようとした途端、照明の色が黄色に変わった。
隣のエレンを見ると彼はいつしか杖を手にしている。僕も杖を振って青色に変えた。クリスは何度か振りなおしてはいたものの、照明を再び緑色に変えた。それを見て、僕は目頭が熱くなった。
ようやくだ。ようやく魔法を使えるようになったのだ。自分のことのように、嬉しかった。
次に照明が赤色に変わり、そこでリナがやってきたことに気が付いた。
赤、黄、青、緑。次々に変わっていく明かりがまるで音楽を奏でるかのようにリズムを刻む。そして、桃色。はっとした。これは、ウルリカの得意としていた色だったからだ。
杖を振ったのは、エレンだった。僕はすぐに、明かりを菫色に変えた。そして、リナが変えた色は黄緑だった。誰も得意としていない色だが、リナはそれでよいと判断したようだった。クリスも杖を振った。殆んど合わせるように、その色は橙色に光った。僕は感心してしまった。橙色はオリビアが時々成功させた時の色だった。
赤、黄、青、緑、桃色、菫色、黄緑色、橙色。
僕たちは無我夢中で、明かりの色を変え続けた。いなくなってしまった人の分まで、そのリズムを刻み続けた。
「ありがとう」
息があがるほど繰り返して、そしてクリスが言った。
「僕、愚図だから勉強も運動も魔法も何もできなかった。でも、でも、ようやく1個できたよ」
そういって慌てて目をこすって見せる。
「ありがとう」
涙は隠しきれていなかったが、その笑顔は明るかった。
よかったな。といった感じでエレンがクリスを小突いた。こくんと、クリスが頷いた。
ところが、その日の授業中のことだった。クリスが、先生に質問をしたのだ。
「先生、職員室の解錠呪文を教えてください」
あまりに唐突なその質問に、僕は目を剥いた。
「え、待って。どうしてそうなるの」
リナの疑問は至極全うなことだと思う。まさか今朝の魔法の成功から、一転そんな展開になるとは僕も予想できなかった。
驚いたのは、次の先生の言葉にもだった。
「職員室の解錠魔法は、恐らく最難関のものだ。試してみるかい?」
校則をやぶる方法を教えてくれと言っているようなクリスにたいして、先生はあくまでも穏やかだったのだ。頷くクリスに、本当にそれでよいのかと問いただしたくなった。
「僕、実はずっと昔から後悔していることがあるんだ」
後で、クリスは語った。
クリスは初日にいなくなった男の子のことを話にあげた。
「あの時僕はその子と一緒に職員室を覗かなかった。それは、校則を破りたくなかったからって前に言ったんだけど、実はそれだけじゃないんだ」
「それだけじゃない?」問うエレンにクリスは答える。
「僕は愚図なんだ。そして、とても臆病だ。だから、僕は考えてしまったんだ。言いつけをやぶったら、何が起きるんだろう。僕はとろくて何もできないから、これで言いつけまで破ったら、きっと僕には何も残らなくなるぞって」
そのせいで、逆に男の子に置いていかれてしまった。そう、クリスは語るのだ。
「本当は、追いかけたかったんだ。簡単に言い付けをやぶって自分の意思で行きたいところにいけるような、そんなあの子に憧れていたんだ」
その日の出来事はまるで「しみ」のように消えずに、クリスの中に残った。その時の後悔が、クリスをよりいっそう惨めにさせた。
言いつけを破るだけ。それだけのことなのに、覚悟をするまでに何年も経ってしまったと、クリスは言う。
そこまできいたエレンは、あきれを通り越して感心したように言った。
「そいつは多分お前みたいにいろいろ考えてなかっただけだよ。むしろお前、そんな小さい時からよくそこまで考えていたな」と。
それにはクリスは、はにかむだけだった。
とはいえ、僕はクリスの魔法を信じていなかった。難しい解錠魔法を使えるようになるとはとても思えなかったからだ。確かに明かりを変えられるようになってからというもの、クリスの魔法はめきめきと上達した。特に解錠魔法はエレンから直接アドバイスが入り、僕でも失敗する中級の解錠魔法すらクリアしてしまった。それでも、職員室のは最難関と呼ばれている。開けられるはずがなかった。
僕はクリスが毎日職員室の前で練習しているのを見ていたが、それでも信じないようにした。
だいたい、僕にはクリスの考えが理解できなかった。後悔している。ただそれだけのことで、校則を破ろうとするなんて。
でも、ある日のこと。クリスはとうとう解錠に成功してしまったのだ。殆んど、偶然だった。僕は偶然、クリスが職員室の前で魔法の練習をしているのをまたしても目撃してしまった。エレンが近くでクリスの振り方を確認していて、リナは僕の近くでクリスの様子をただ見ていた。
その時に、カチャっと確かに錠が外れる音がしたのだ。
「あっ」
気がついたのは、皮肉にも僕が先だった。
「い、今……」
開いたような音がした。言いかけた僕に、はっとしてクリスが振り返る。
「やったかもしれない」
クリス自身が信じられないような顔をして、ドアノブに手を添えた。
そうして、ゆっくりとドアノブを回しはじめる。
今までならば回した途中で止まるはずだったそれが、確かに一線を越えて回り続けた。
クリスは思わずといった様子でドアノブから手を放した。
「開いてる...開いたんだ!」
嬉しそうなクリスの声が、僕の胸に刺さった。素直に祝福できない自分がここにいた。
「やったな」
エレンだけが嬉しそうに返している。どうしてそんな顔をできるのだろう。僕にはエレンが、そしてクリスが分からなかった。
「ありがとう」
クリスが全員に握手を求めてきた。
「ねぇ、本当に入るの?」
リナの言葉に、僕はその疑問に同意とばかりに意味もなく頷いた。
そうだ、最難関の解錠魔法ができたのだ。ドアノブも回った。それなのに、何故わざわざ開ける必要があるんだ。これで、満足じゃないか。
僕はあべこべになるのもかまわず、そんなことを心の中でつぶやき続ける。そのつぶやきを、クリスが遮った。
「うん。僕は後悔を立ちきって卒業したいんだ」
「……校則を破って、本当のところ何が起きるのかわからないのよ?」
イリーナやオリビアが無事かどうかわからないままだから。そう尋ねるリナにもクリスは首を横に振った。
「きっと、イリーナたちは無事だよ」
「どうしてそんなことが言えるの」
「無事じゃなかったら……、多分、君が怒っている」
クリスの言葉に、リナが息を詰まらせた。
「それに、僕はこのままだと、いつまでたっても愚図のままだ」
「……クリスはもう愚図じゃないよ」
結局、この時僕が言えたのはその言葉だけだった。
「そうだといいな」
嬉しそうにクリスはそう言って、それから今度はエレンへと振り返った。
「エレンもいっぱい教えてくれてありがとう」
クリスはエレンのもとへと駆け寄っていく。
「俺は、お前で、からかってたしな」
罰の悪そうな顔のエレンにクリスは笑って言う。
「じゃあ、これでチャラだ」
いつの間に、そんなことが言えるようになったのだ。ついこないだまで、クリスは俯いてばかりだったのに。羨望すら抱いたその先で、待っていたのは次なる衝撃だった。
「いいや、俺も行く」
「は?」
その言葉に、くらくらした。どこにいこうというのか、エレンの言葉が言葉となって下りてこないまま、僕を置いて会話が続いていく。
「最近になって、ウルリカがいってたことがわかってきたんだ。思うんだよ、このまま魔法を勉強して、将来何になるんだってな」
「そ、そんなの。どうでもいいじゃない」
震える声で止めにかかっているのはリナだ。
「将来なんて、そんなこと考える柄?」
「そりゃちがうな。けど、わかっちまったんだから仕方ない。このまま俺たちがずっと学校にいる未来が、あくまでそれだけでしかないってことに」
信じられなかった。エレンから、そんな言葉がでるとは。
「お前もさ、無理しなくていいと思うぜ?なんなら一緒に来るか?」
リナが首を横に振るのを確認してから、エレンは僕を見た。僕の顔に何が書いてあったんだろう。結局、エレンは「じゃあな」とだけいった。それだけだった。
「エレン、本当にいいの?」
クリスが上目遣いで聞いている。
「ああ、むしろ、お前はいい機会をくれたんだぜ」
そんな2人の会話が続くのを僕は見ていられず、俯いていた。これでは、僕が愚図になってしまったかのようだ。
ドアノブを回す音がする。
ああ、なんて嫌な瞬間なんだろう。
扉を開ける音が響く。足音が聞こえて、そして、扉が閉まった。
ガチャンと。
僕が顔を上げた時には、もう2人はいなかった。
***
「とうとう、2人だけになっちゃったね」
リナの声だけが虚しく教室に響いていた。僕は、なんて声をかければいいか分からずにいた。この気持ちをどう表現すればいいのだろう。形容しがたい気持ちを抱えたまま、ただ日常が過ぎていく。
2人だけの教室に、笑い声は一切響かなかった。そうして、色の失せた毎日が続いた。それが何日だったのか、はてまた何年だったのか、僕にはわからない。日付を数える気力もなくして、意味もなく魔法の授業を受ける日々。その魔法の授業も、カリキュラムが一通り終わったのか復習が多くなっていき、段々新鮮味がなくなっていく。
僕は時々、寮の共有スペースで、僕の部屋で、教室で、皆の姿を探すことがある。けれど、どこにもそんなものはない。
時間を止められる魔法があったら、よかったのに。そうしたら、あの楽しかった頃に戻って僕は時間を止めていたのに。
そんな思いも、叶わなければただただ空しくなるだけだった。
そして、ある時、リナすらも諦めたように、こう切り出してきた。
「ねぇ、ポール君。もう、やめようか」
一体、何をやめるというのだろう。僕は分からずに聞いていた。
「本当は気づいているんでしょう?私のことや魔法のこと」
リナの詰問に、僕は答えなかった。何を言っているのかわからない、そんな顔をしてみせるので精いっぱいだった。
「私も頑張って合わせていたんだけれど、もう難しいよ。私たち2人しかいなくなったんだし、それを引っ張っても意味ないよ」
「……意味がないなんて思わない」
僕はリナの一言に思わず反論した。リナは、困った顔をした。
「そうはいっても、やっぱり『おおかみさん、みっけ』は2人だけじゃできないよね」
懐かしい名前が出た。初めてこの学校に来た時に遊んだ遊びの名前。今でははるか昔のように感じられる。
「僕は狼でもいいよ」
あの時、何回やっても僕だけが仲間外れのカードをひいてばかりいた。そう、僕が狼だった。そして、今も、さして状況は変わらない。僕だけが『残る』道を選んで、皆が『卒業』の道を進んでいる。
「ポール君に狼は似合わないよ」
あの時言われたことと同じ言葉で、リナは返した。そして、あの時言わなかった言葉で、つぎ足した。
「どちらかというと私のほうが似合っていると思う」
そうやって、リナは狼の鳴き真似をして見せた。とても残念なことに、確かに僕よりも狼役が似合っていた。笑わない僕に、リナは鳴き真似をやめて向き直った。
「通常の手段での『卒業』は用意してないみたいだから、きっと君がやめたいといわない限り、この学校は続くと思う」
よく考えたらいい。そう、リナは言った。
「私は、このままここを去るね。ずっと1人でここに居続けるかどうか、選ぶのはポール君だよ」
リナはやはり狼だった。リナが去った次の日、共有スペースに手紙が置いてあった。
『私は自分の杖を壊します』
文面と筆跡から、すぐにあの時のイリーナの手紙だと気づいた。何で今ここに。そう思って手紙を手にした僕は気づいた。
そこには、ぐちゃぐちゃと消されたあとで、『**の学校はいらない』と書かれていた。そのぐちゃぐちゃの文字に矢印が引っ張ってある。そして、その先の文字。
「うそ」と。
はっとした。僅かな空白のあとに、文字が続く。「ごめん、私が消した」と。嫌でも僕は気づいた。ここに手紙を置いたのはリナだ。この文字もリナのもの。リナが、イリーナの手紙を一部消したのだと。
そして、リナが消したかったのは。
僕は言葉を補って、その手紙の文を読んだ。
『うその学校なんていらない』
つまり、イリーナはこの時に知ったのだ。魔法の学校の真実を。この学校が『うそ』だということを。
そして、それをリナは皆に見せたくなかった。けれど、きっとそれはばれている。だから、エレンは学校を去り、リナに一緒に行かないかと声を掛けた。そういうことなのだ。僕は嘆息するしかなかった。
僕は、この置き手紙のせいで、否応なしに向き直るしかなくなってしまった。
”僕が真実に気づいてしまったことに。”
リナは最後の最後に、狼らしく僕の心をその牙で砕いていったのだ。そうして食べつくした後に、残りかすの僕を置きざりにした。
こうして、僕はこの学校の、たった1人の生徒になった。




