まるで、『サモトラケのニケ』
しばらくして鼻をすすりながら戻ってきた流星は、榊立の水も替えると、ジャケットの袖でごしごしと神鏡を磨き、立てたろうそくにぽう、と灯をともした。
かさかさした葉をにぎり込んだまま、その様子をただ眺めていた礼音は、ろうそくの灯がともった瞬間、ゆわり、と天井をすりぬけはばたく大翼を、目にする。
「どした?」
吸い込まれるように一点をあおいだままの礼音に、流星がけげんな顔を寄せた。
視線の先を追ってみても、流星にはコンクリートの天井しか見えない。
「くろい、つばさが──」
「黒い、って……幽霊じゃなく悪魔かよ?」
『悪魔とは何ぞ、無礼ものめが』
あたたかな灯に浮かんだすがたが、カッと閃光にかき消える。
とっさに目を瞑り、腕で顔をおおった礼音に、流星はふしぎそうだ。
「何がいるんだ、結局?」
「えっと……うつくしくて、つばさがあって、まぶしくて。きっと──」
きっと、鶴岡監督が勝利を祈って祀った、神様的な、なにか。
「……あ。ニケ──そうだ、ニケです。サモトラケのニケ」
「ほーう。…………ネコ?」
あごに手を当てた流星と、視線が絡む。
二拍ののち、そそくさとほどいて、礼音は背を向けようとした。
「すみません、私は、そろそろ葬儀に」
「待てまてまて! 勝手に終わらせんな」
がっちりと手首を掴まれ、礼音は一歩たりとも動けずに終わる。
「悪かったな、バカで。どーせ、教師になれたのは奇跡とか、脅しが効いたとか、さんざ言われたよ。あんたも教師なら、相手が知らないことぐらい教えてくれたっていいだろ。何なんだよ、ニケって。知らなきゃそんな、恥ずかしいことか、ああ?」
斜め上からまくしたてるようにがなられ、背を丸めた礼音の耳に、りぃん、と鈴の音に似た心地よいひびきがすべり込んだ。
見れば、うながすように羽がゆられ、礼音は聞いたことばをそのまま、口でなぞる。
「──馬鹿でも短気でもよいが、威圧や威嚇は教師たるものしてはならぬと、何度いわれたか、リュウセイ」
「なっ…………」
目を見張った流星が、オヤジ、とちいさくこぼすのを、礼音は聞いた。
「あの。ニケというのは、つばさを持った像で、勝利の女神なんです。サモトラケ島から見つかって、ルーブル美術館に展示されてて。えっと、ギリシャ神話で、勝利に導く神だと、船の先に飾られていたのが──」
「分かった、レオン」
ぽん、と両肩に手を置かれ、礼音は身長が三ミリほど縮んだ気になる。
「俺が言うのも何だけど。おまえも、教師にぜんっぜん向いてねーな?」
「そうですね……」