蝉と青年とうるさい音楽と私。
【 ごめん。船はないんだ。どこにも、一隻も。その言葉もすぐ炎に包まれてしまう。
ないのなら、造りなさい、と母は言う。
材料になる木もないんだ、と私は言う。
だったら苗木を植えなさい、と母は言う。 】
(炎と苗木/田中慎弥)
七月の冷めた日のことだった。その日、私は知り合いの編集者より、エッセイの仕事を受けていた。担当している雑誌に急遽、空きが出来てしまったらしく、何とか本日中にと念を押していった。私は、乗り気ではなかったが、ちらつかされた原稿料に目が眩んだ。
乗り気でなかったのは、近頃なんとか手を出しかけていた長編が、さっそく手詰まりに陥ったためでもあった。他の文章を書くことで、つれづれなるままに書いていけるかもしれないとも思ったが、長編に集中したほうがよいのでは、とも思った。けっきょく、受けてしまった今、直面している問題は、私のスランプはどこまでも深刻だったと云う悲しい事実だった。さらにうっかりしたことに、私はエッセイが大の苦手だったのだ。
好きなことで書いて貰ってかまいませんと早口に云われ、それならと受けたのだが、その雑誌と云うのが人間の心理について取り扱うものであった。心理とはなんぞや。下手なことを書いてしまっては、読者から散々な顰蹙を買うのは避けようのないことだろう。心理と云うのは、そういうものだ。ない脳みそをひねっては、ちまちまと文章を絞り出し続けた。
気が付くと、昼になっていた。冷めていたのは、朝のことだけだったようだ。太陽はかんかん照りの大得意で、誰にも求められていないことを知りもせず、恥を晒し続けている。
カーテンの隙間から何度も陽射しがちらつく。原稿用紙に汗が滴り、黒い点々をつくった。いらいらした。さらに、外の蝉たちが盛りを求め始めたおかげで、集中力は何度も途絶しかかった。何しろ、我がアパートの周囲を木々が囲っているばかりか、この街自体が山々に囲われた盆地の底にあるため、夏になると蝉たちの出会いを求める絶叫に溺れる思いをする。この、鳴き声と云うのがまた厄介で、聞いているだけで頭がぼぅっとしてしまう。ただでさえ暑いのに、これではまるで仕事にならないのだ。
海上で浮き沈みをくりかえすブイのような意識を押して、苦労して埋めたマスを読み返しても、書いてあることは酷く抽象的で、ひとつも的を射ない戯れ言ばかり。こんなものを見せてしまっては、作家として終わりだと思った。編集者は口先では感謝こそすれ、眼差しからちらりと覗かせる冷たい光りを、私はきっと見るだろう。読者の非難は、どこまでも実態を伴って、苛烈な言葉となって私を突き放そうとするだろう。手紙か、電話か、ネット上にまき散らされるかもしれない。
言葉は、いつも一方向に向けてただ突き進む矢のようだ。どこに刺さるものか、わかったものでない。しかし、今はずいぶんと矢の数が多すぎる。古代の戦場のように、驟雨のごとくに矢は注ぎ、数多の傷をつくり、夥しい恨みと昂揚を生む。一昔前に騒がれた活字離れとはなんだったのだろうかと、ひとりで考え、嗤ってしまう。
ふと、真昼の平穏を破壊するような、とんでもない音が窓から飛び込んだ。命をかけた蝉の声を掻き消す勢いである。私は思わず左側の染みだらけの壁を見た。隣の部屋の若者だろう。近くの大学に通っている学生らしい。このアパートで、静かな時間とは、もはやその若者の眠っている間だけを指した。
何がよくてこのような轟音を鳴らしているのか、私には理解不能だった。歪んだギターの音色が私の精神までぎりぎりとねじ曲げてしまう気がした。ドラムの忙しないリズム。ベースのうねりが開いた窓、薄い壁を震わせる。叫びにも近い歌声が、青臭い詩のなり損ないを諳んじている。聴いているだけで、背筋に寒気が走った。若さとは、こうも無恥なものか。
いつもなら、つい我慢してしまうところだが、これでは仕事にならない。いや、仕事は元々滞っているのだが、これでは集中が出来ない。
よし、これはもう一言文句をつけてやらねばならぬ。私は覚悟を決めると、重い腰を上げ、散らばったゴミを蹴散らしつつ、ゆっくりと玄関へ向かった。そして、緩慢な動作で靴を履き、「よし」と、わざと声に出して立ち上がった。その間も、隣室の音は止むことはなかった。
戸を開けると、その白々とした太陽の猛威に思わず目を瞑った。白熱した街の向こうに、いやらしいほど青々とした山々が、青空の下に連なっている。今にも生臭い植物の臭気が漂ってきそうだった。
私は世界の猛烈な隆盛に嫌と云うほど嫌気をさしつつ、さらにゆっくりとした足取りで隣室へ向かい、さらにさらにゆったりと右手を持ち上げ、大きな動作できっかり三回、戸を叩いた。知りもしない相手に文句をつけるのは初めてのことだった。乾き切った舌が上顎に張り付いていた。情けないことに、いやに緊張した。
しばらく待ったが、応答がない。私はもう三度、戸を叩いた。結果は同じ。仕方なしに、乾いた口を開けて、「すみません」と擦れた声を張り上げた。すると、のろくさした返事があった。少し待つと、ゆっくりと戸に隙間が出来た。
「……はい、なんでしょう?」
僅かな隙間から、ひとりの青年がおそるおそると云うふうに覗き込んでいた。十九か二十歳そこそこと云ったところだろうか。ひょろひょろと痩せた枯れ枝のような感じで、髪の毛はぼさぼさ伸び放題。気弱そうな目には常に怯えが住み着いている様子であった。
私は、その臆病ぶりに肩透かしを食らったような気分になり、いくらか緊張の糸が緩くなるのを感じた。ほっと溜め息すら漏れた。誤魔化すように、こほんと空咳を打ち打ち、
「隣室の者ですが、あのうるさい音楽を止めてもらえませんか。出来ないのなら、せめてもっと音量を小さくするか、イヤホンを使ってください。当たり前のことでしょう。こう云うところに住むんなら。君も、いい歳なんだからね」
私の言葉はいささか空滑りしている気がした。気を緩め過ぎたのだ、と後悔した。青年は突然の来訪者の捲し立てる様に、目を白黒させた。
「はぁ、でも」
若者は不安そうに視線をうろちょろさせながら、曖昧に言葉を濁した。
「デモもクソもないでしょう。私は迷惑しているんです」
言葉の滑りは自覚した程度では、一向に落ち着かなかった。私の被害者という立場が、そうさせるのだろうか。私の吐く言葉ひとつとっても、明確な感情の乗らない、見せかけの戯れ言と云う気がした。
「……いや、でも、僕はどうも音がないと駄目のようで」
「いや、いや、そんなのは誤魔化しだよ。それなら、イヤホンを使えばいい」
「こう暑いとイヤホンやヘッドホンは暑苦しくってどうにも……」
「だったら、音量をもすこし下げたらいいじゃないか。壁が震えて仕方ない。いつか、ドッと崩れた瞬間に、仰天した私とにらめっこしたくはないでしょう?」
「ははは」
「いや、冗談を云ったわけじゃないぞ。笑うな」
青年はぴたりと笑いを止した。私は呆れた素振りで溜め息をついた。
「まったく、親の顔が見てみたいもんだよ」
「そう云うあなたは、いったい何をしているんですか。こんな平日の真昼に」
「なんだって?」
私は思わぬ反撃に面食らった。いや、私は何もやましいことはない。今だって部屋に篭もり、仕事に精を出していたところだ。一向に出やしなかったが。
「あなた、隣の部屋の人ですよね。そちらにこそ、僕は云いたいことがあったんだ。ちょうどいいや。あなたの部屋の臭いについてですよ。窓を開けると、こう鼻につんと来る臭いが流れ込んで来る。廊下を歩いていてもです。どこから漂ってくるだろうと思っていたけど、今あなたを前にして、ようやくわかりましたよ」
青年の見下げたような視線に倣い、思わず自分の衣服を見下ろしてしまった。何日も着たまんまの服は、汗を吸っては乾きをくりかえし、胸元には白い塩の筋を幾重も走らせている。風呂にも、もうずいぶんと入っていない。実は、スランプと共に酷い憂鬱が私を襲った。何日も布団の上でのたうち回った挙げ句、私は、もういっそこの物憂さに飲み込まれてしまうのがよい、と考えた。不幸が創作の背を押すものと信じた。その混沌とした精神の奥底に、か細い光明が射すに違いないと思ったのだ。成果はうかがえないまま、部屋にゴミはあふれ、私は一人で勝手に薄汚れた。
「呆れたな、苦情を受けて居直るばかりか、逆に文句をつけてくるとは」
そうは云いつつ、私は衣服の襟元から漂ってくる垢の饐えた臭いを自覚していた。私の頬は恥と怒りで真っ赤だったに違いない。だけれども、どこかでこの応酬の虚しさに冷めていた。私は、何をしているんだろう。一言、さっと云いつけて、すぐに部屋に戻るべきだったのだ。
もしかすると、私は仕事の進まない苛立ちを、この青年に八つ当たりしたかっただけなのではないか。いらいらして、むしゃくしゃして、どうにもならない時に、ふとわかりやすい悪者が現われて、よし、ちょっとばかしぶん殴ってやるか、まったく困ったものだと云い訳しいしい、内心で肩をぶん回していたのではないだろうか。それを証拠に、これまでは音が聞こえていても、すっかり平気で無視を決め込んでいたのだ。
私が急に元気を失ったので、青年は目を丸くした。
「あの、だいじょうぶですか?」
その声には、多少の冷静さと思いやりが滲んだ。私は、これを退却の隙と見た。
「いや、だいじょうぶ。さっきはいろいろと言い過ぎました。申し訳ない。私の臭いが気になると云うのも、心得ました。風呂にも入るし掃除もしましょう。大家の耳に入ると、私もたいへんだから。君も、あんまりわがままを云わず、音をも少し下げることだよ」
一歩、退いて見せると、青年のほうも釣られたように飛び退いて、
「いえ、すみません。こちらも居直るような真似をして、失礼なことばかり云ってしまって、恥ずかしい。音はも少し、下げることにします。それで、どうか勘弁してください。どうせ、僕はもうすぐ、ここに居られなくなるので」
「引っ越しですか?」
私が尋ねると、青年は軽く首を振って、
「いえ、少し前に両親共々事故で死にまして。もう大学に通う金がないのです。奨学金を得られるような、優等生でもなかったし。ここが年貢の納め時ですね。地元に帰ることになります」
私は絶句すると同時に、何故この青年が食ってかかってきたのかを察した。
「それは、……どうもご愁傷様で」
何とか言葉を絞り出す。そんな重い身の上なんか、アカの他人に話すようなことではない。青年の中で、これまで誰にも話せず、鬱屈した何かが、今、決壊したのだ。
青年の顔は、途端に不安を思い出したのか、今にも闇の底に消え入りそうな、うつろな顔つきになった。私は、何も知りたくないと思いながら、問わずにはいられなくなった。
「……地元に、生活の当てはあるのですか?」
青年はいっそへいちゃらだと云わんばかりに、悲愴な笑みを浮かべた。そして、二度、首を左右に振った。
「半端なまんまで、学生の身分をなくしたら、その先は真っ暗闇ですよ。ネット上にはそんなことばっかり、ごまんと書かれてる。僕はもうおしまいです」
「馬鹿を云っちゃ、いけないよ」
驚いて発した言葉は、少しつまり気味になった。青年は、ははは、とまた笑った。これは、まったくすっからかんだ、と私は思った。
「いえ、僕はでも、そこまですべて悲観し切っているわけでもないんです。いっそ、身軽になった。僕は、父のことをあまり好きでなかったし、恨みの数も夥しかった。それらが、すっと一度に失せた。せいせいしたんです。ほんとの話。悲しくない。僕はこれからですから。飛躍しますよ。どこまでも、どこまでも。だって、僕は若い、若いんだ。ねえ、そうでしょう?」
私は鉛の塊を飲んだような気分になった。苦い笑みを浮かべながら、視線はどうしようもなく泳いだ。
「そうだね、君は若いんだ。それは間違いないことだよ。どうとでもなる。何でも出来る。国家転覆だろうが、なんだろうが……。」
青年は貼り付けた笑みを余計に深く、広く、濃くした。
「はい、はい。僕は偉くなりますよ。きっと、必ず」
「歯を食いしばって、頑張りなさい」
「……でも、大学も出られずに、偉くなれるでしょうか?」
「いや、学歴なんか気にしなさんな。私も大学なんか出ちゃいないが、作家なんかやれてるんだから」
つい、口が滑ってしまった。青年は藁をも掴む勢いで身を乗り出した。
「え、ほんとうですか? 失礼ですけど、お名前を聞かせて貰えませんか?」
青年の剣幕に負けて、私は名乗った。若者は私の本を読んだことがあると云う。何を読んでくれたのか問うてみると、なかなか答えが返らなかった。しばらく曖昧に唸った末、出てきたのは、ずいぶんと昔に出した中編だった。私は心の底で落胆する思いだった。私はそれを密かに駄作だったと悔やんでいた。
私の憂いを知らず、青年は目だけを鈍く光らせながら、口をひねり上げて笑った。
「ありがとうございました。励みになります。僕はやりますよ」
「我武者羅に勉強しなさい。一途に、頑張りなさい」
「はい、はい」
それから、青年は部屋に戻った。閉じた扉の前に突っ立ったまま、私は頭の奥がじんと痺れているのを感じた。ひとつも頭を使わずに、喋っていたのだ。たった今、自分が何を喋っていたのか、思い出すのも困難だった。ソーダの気泡のように、小さな断片を頭に浮かべ、私はぎゅっと目を瞑った。恥ずかしかった。
くだらない言葉を吐いた、と思った。
ほんとうに暗闇にとらわれて、今にもどうにかなってしまいそうな時に、励ましなんて、ちょっとの役にも立ちゃしないんだ。気休めなんか、通じない。酒を飲むようなもので、流れるものは時間と小便ばっかりだ。無意味、無価値。それを否定するのは、厚顔無恥の傲慢な阿呆か、よっぽど謙虚な馬鹿者だろう。碌なもんじゃない。碌なもんじゃないってんだ。
扉により隔てられた部屋の向こうの、青年の顔すら、もうぼやけて判然としない。
去り際、私は悪あがきのように、呟いた。
「君、死んではいけないよ。ただ、生きていなさい」
部屋に戻ると、ふっと気が抜けた。すべてうそだったような気がした。白昼夢。夏の暑さが見せた妄想ではなかったか。私のような腰抜けが、隣室に苦情を入れに出向くと云うのが信じ難い。しかし、耳をすませば、あのうるさい音楽が鳴り続けている。が、ずいぶんと音は小さくなった。
私はすべてを忘れてしまったことにして、さっそく仕事に取りかかった。筆は面白いように進んだ。テーマは人々の幸福の所在について。誰にでもわかる当たり前のことを手当たり次第に書き連ねた。時にはサービス精神から、今ある生活が如何に幸福であり、得がたいものかを大仰に修飾してみせた。手を動かしている間、私の中にはなんにもなかった。必要なページ分に差しかかると、わざと尺を伸ばし、一ページ余分になるようにした。さらに、難しい漢字は軒並みひらがなで書いた。書き上げた後、編集者に連絡し、煙草を一本ふかした。
茶けた天井をなぞる煙を呆然と見ていた。空虚さ。悲しさ。つらさ。消えゆく白い煙は私から抜け落ちた魂そのもののように思えた。
やがて、編集者が来て、原稿を受け取っていった。ページ数を一枚分、越してしまったのですが、と申し訳なさそうに私が云うと、一瞬だけ眉間に皺が寄った。が、「まぁいいでしょう」と云って、許してくれた。私はほっとした。編集者が出て行くと、気が抜けた。原稿料を水増しした。うそばかり書いた。金のために、魂を売った。何を大袈裟な、と思いもした。夢見がちな若者でもあるまいし。隣室の青年のことが、一瞬、脳裏を過ぎった。でも、責任はある。あのうそっぱちを信じる人も、いるのだ。なら、その人に向けて書こう。ほんの一瞬でも、アスファルトの底に沈んだような苦しみから、息を継がせてやれるなら、上出来じゃないか。たとえ、無意味で無価値であったとしても。その他大勢より、非難と叱責の億の礫を食らっても。私はふと湧いたこの決意が、とても単純ながら、とてもとても、ほんとうらしく感じた。
しかし、それが本心から噴き出した意思かと問われると、まだわからない。行き詰まった長編も、まだ書こうと云う気にもならない。私には時間が必要だ。長い長い、時間が。
虚脱した私の耳には、蝉の声ばかり響いた。隣室の音楽は止んでいた。私の視線は自然と左側の壁に向いていた。立ち上がり、そっと壁際に寄る。背中を壁に預けると冷たく心地よかった。ふと、薄い壁を透かして、人の声のようなものが聞こえた。意識すると、すすり泣きのようだった。誤魔化すように、わっと音楽が始まった。
じっと聴き入ってみる。なるほど、それほど悪くないように思った。
負けじと蝉の鳴き声が、街を囲う山々から、勢い増して降り注ぐ。盆地の底を埋め尽くすように、蝉は鳴き続ける。私はふと、蝉一匹の捨て鉢の一生を思った。蝉は、恋が出来るのかしら。実るのかしら。そんなら、私はいくらでもこの騒音を我慢してあげる、そう思えた。
何も云うことがない。
「十九歳のおまえは他人に純粋にまじりっけなしに自分はこういうものだと言うことができるだろう。主張することができるな。ところが、二十五、二十六にもなると、風化してきたぼろぼろ岩のように崩れてきてある日すっかり硬いダイヤモンドのようだったものが砂になってしまっていることに気づくんだ。後に残っているのは十ぱひとからげのどこの映画館に行っても上映している通俗の安ものの感傷しかないんだ」
「そう言うけどおれはウジムシだよ」
(灰色のコカコーラ/中上健次)