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「ブレス深くとって、ソプラノもっと声を柔らかく! ……そう、ここは丁寧に…………あーストップストップストップ」
スコアをめくる手を振って、堀内先生が指揮棒を下げた。声につられて音羽も手を止める。
「今のスラーはもっと丁寧に! それと歌詞をもっとよく感じて。わたしはここにいます、そしてあなたがそこにいてくださる*、って、ここはこの曲の主題だって、聴いている人に強く語りかけるところだって、この間のミーティングでも話になったわよね、流すだけじゃダメよもっと大切にうたって」
堀内先生の声に、はい、と返す声は合唱部特有の裏声である。ではもう一度同じところから。再び上がる指揮棒に合わせて音羽は一小節前から弾き始める。丁寧に。大切に。歌う部員たちに合わせて音羽も同じことを意識する。わかる。この部分は、曲の中でも特にたいせつなところ。ここをどれくらい聴かせられるかで印象が大きく変わる。決して大きな波ではないけれど、ここから終盤へ向かってさらにメロディが広がってゆく。大切に、焦らず、意志を酌んで。件のスラーの小節まできたとき、堀内先生は一際指揮を大らかに振った。ぐん、と、その手のうねりに導かれて、部員たちの心が大きな弧を描く。
きもちがいい。
その波のはざまで同じ音に漂いながら、音羽の頬をかすかな笑みがかたどった。音楽は、好き。どうしても好き。嫌いになったことなんてもう数えきれないほどあるけれど、それでも、それでも。どうしたって、好き、だった。ずっとずっといざなわれてきた、この、忘れられない心地良さ。
はいはいストップー! またしても堀内先生の声が上がって歌声と伴奏が静まる。何度も何度も修正を重ねる。部員たちは時折、手元の楽譜にメモを取りながら顧問の指導を受ける。そうやって、進んでいく。うたを高めるための時間。
八月。夏休みの午後は雲高い。クーラーのない音楽室は、空の青さにひときわ暑く蒸されてゆく。
「あーでも、やっぱ菅野さんすごいわ。無理言って申し訳なかったけど、お願いしてほんとよかったー!」
すっかり日も暮れた午後七時。他の部員に混ざって帰り仕度を整えていた音羽に声をかけたのは、副部長である三年生の女子だった。え、と思わずどもったピアノの前の音羽に歩み寄りながら、
「入学式の校歌披露のときも思ったけど、歌ってるときほんと、胸が高鳴るもん。アタシじゃああはいかないよ、ぜったいみんなそう思ってるよいい意味で!」
心底嬉しそうにそんなことをのたまう。意外にも、音羽が伴奏を担当するまでは彼女が唯一メンバーの中でピアノを弾ける学生だったらしく、ことあるごとに歌ではなく伴奏で部を盛り上げてきたらしい。
「そんなことないですよ! 沢上先輩だってうまいですよピアノ!」
割って入ったのは、音羽のクラスメイトでもあるソプラノ担当の女子だった。やわらかそうな長い髪を、かわいらしくポニーテールにしている。もちろん髪型だけではなく、心根も優しい女の子。あだ名は確か、
「いやいやそーでもないってみっちゃーん、いや嬉しいけどさ? そう言ってもらえたら。でもわかるんだよー菅野さん上手なんだよぉーほんとうまいんだよわかるー?」
「いやわかりますけど! でも!」
そう、みっちゃん。そしてそのみっちゃんに宥められつつ音羽の腕を羨む副部長はしかし、最後のコンクールに歌い手として出れることを心から喜んでもいるらしい。ピアノの蓋を閉じながら、音羽はかばんに譜面をしまいこむ。部員たちはみな午前中の早い時間からこの第二音楽室で練習を始めているけれど、音羽が招集されるのはいつも、全体合唱が始まる午後一時から。それまではパートごとに分かれて、発生練習や音合わせをしているらしい。音羽は彼らより少し遅めに登校して、古いアップライトピアノの置かれた音楽準備室で、全体合唱までの時間に一人伴奏の練習をしている。
「よーし、戸締りすんだー?」
「男子はよ荷物まとめろー!」
「これ誰のハンカチ?」
「あっすみませんあたしだ!」
入学式の日は式の直前に伴奏を頼まれたので、合唱部員たちとの顔合わせはせかせかと済まされてしまったが、女子の比率が高い部内の空気はとても明るい。だから音羽はこの空気に、いつも馴染みきれずに萎縮してしまう。今日も今日とて一人音楽室を立ち去ろうとすると、
「こらこら菅野さん! 一人で帰るのは危ないってば!」
「そーだよー、夏の夜にJK一人なんてダメ~! ほら、いっしょにかえろっ?」
「というわけで、上り駅メンバーはお先にしつれいしまーす!」
こんな具合に、部内の三分の一ほどのメンバーに引き込まれて駅までを歩くことになる。
「あーつっかれたーもー声でねー」
「出てんじゃん」
「いのちんバッカで~!」
「ねーねー! そーま先輩がここにいるみんなにアイスおごってくれるってー!」
「マジで!?」
「宗馬くんすごいカッコいいイケメン抱かれたい!」
「バカ大声で宣伝すんなよ! そして俺は抱きたくない!」
呆れ声を出しながらも、三年生の宗馬先輩はコンビニで人数分のガリガリ君を買ってくれた。音羽は遠慮したけれど、まーまーいいからと半ば強引に持たされる。
「そうまちゃーん、あたしハーゲンがよかったー」
「知るかそんな貴族の食いモン自分で買ってこい」
「キゾク」
「ウケる」
それまで音羽は、帰り際、誰かと一緒に高校を出たことがなかった。買い食いだって初めてだし、電車に乗ってからもにぎやかな輪の中にいるなんて、当然あるわけがなかった。帰り道は、いつもひとりだった。ひとりでずっと、好きな音楽を小さく、他の誰にもきこえないほど小さく口ずさみながら歩いた。胸の奥の鍵盤を、胸の奥だけで弾きながら。
初めて、だった。こんなに明るい下校の時間。いつもの放課後よりずっと遅い時間の夜道なのに。こんなに。こんなに、あかるい。
「おとはちゃん、明日は朝から一緒に練習してくれるの?」
ずっと音羽の横を歩いていたみっちゃんが、ふるりとポニーテールを揺らしながら音羽の顔を覗き込んだ。音羽はどうにか一度頷く。明日は市の大ホールを借りての、大掛かりな全体練習が予定されている。県大会の会場となる場でもあるので、音羽にとっても大切な一日となる。
「そっか、明日もよろしくね! おべんと一緒に食べようね!」
心優しいみっちゃんは、ただでさえ人見知りの激しい音羽が部の中で居場所を失わぬようにと、休憩時間になるといつももうひとりのクラスメイトと連れ立って音羽のそばにいてくれた。その心遣いが、とても嬉しい。いつもうまく言葉にできないけれど。
「ありがとう」
どうにかそれだけでも伝えたくて不器用に顔をあげると、みっちゃんはひととき目をまあるくして、そうして、笑った。とてもとても、うれしそうな顔をして。
翌日の全体練習は、手短なパート練習のあとすぐに合唱が始まった。大きなホール、それも本番会場で歌える機会を無駄にするわけにはいかない。音羽も、使い込まれたホールのグランドピアノを懸命に鳴らす。堀内先生は全体の音量やパートごとの声のバランス、ホールの響かせ方などを確認するために、壇上だけではなく、時折ホールの二階席からも大きく指揮を振った。
「ソプラノがならないでー、男声ももっと柔らかく! 二小節前からの伴奏はもう少し出て大丈夫よー」
借りているマイクを片手に指示を出す。音羽は応えてペダルをさらに踏み込んだ。大きなホールで弾くのは、久しぶりだった。少しばかり緊張してしまう。振り切るように改めて肩の力を抜いた。
正午を回った頃に、昼休憩をとるため練習が中断された。部員たちが銘々、午後の練習の日程やら声の合わせ方やらを話しつつ、鞄を手にホールを出ていく。その間、音羽はどうにも音色の拙くなる箇所をもう一度さらっていた。うまく弾ききれないその部分は、課題曲の冒頭だった。不協和音が夜明けを待つ冬空のように、凛と冷ややかな旋律をかなでる前奏。声が入らない分、ピアノの音だけが聴衆の耳に届くことになる。弾けてはいるけれど、もっと。もっときれいに弾きたい。うつくしくうたいたい。
何度か同じフレーズを繰り返していた音羽のもとにやってきたみっちゃんが、お弁当に誘ってくれた。同じクラスの小春ちゃんも一緒である。小春ちゃんはショートカットの背えたかのっぽさんなので、いつもアルトの最後列である三列目に並んでいる。おっとりとしたみっちゃんとはいささか対照的な、男性的な印象のあるさらりとした子で、制服も普段から学校指定のスラックスを履いていることが多かった。
「はー、ちはるちゃんもおとはちゃんも、お疲れさまー」
ホールを出てすぐのエントランスの一角に座り込むなりペットボトルのお茶をぐびぐび飲んで人心地ついたみっちゃんが、お弁当箱の蓋を開けながらにこやかにわらう。おつかれーとあっさり返したのは小春ちゃん。
「菅野さん、ほんとお疲れさまね。指だいじょぶ? あたしピアノってやったことないからさ、どんくらい弾くと疲れるとかよくわかんなくて」
だいじょうぶ、と、音羽は小声でどうにか答えて微笑んだ。小春ちゃんは、誰のことも名前で呼ばない。先輩も同期もみんな苗字で呼ぶ。それでも、中学時代から仲良くしているというみっちゃんのことだけは「三津香」と名前で呼んでいる。
「ねー、おとはちゃん、ずっと弾いてるもんね。でもいつ聴いてもキレイな音。すごいねぇ、ピアノ、なんさいのときからやってるの?」
たまごやきをピンク色の箸でつまんで、みっちゃんが音羽に問いかける。
「三歳のときから、です」
デジャブを覚えた。同じ質問を少し前に受けたことを思い出す。賑やかなサイレント映画。モノクロに彩られた十八時過ぎの六帖間。
「三歳かー、そっかぁー」
ポニーテールをふるふる揺らしながらみっちゃんは頷く。その横で小春ちゃんが、コンビニのおにぎりをぱりぱりと開けている。具は鮭らしい。ビニール袋の中に、もうひとつおにぎりの包みが覗けて見えた。
「わたし三歳のときのことなんておぼえてないなぁ。おとはちゃんは、ピアノ習いはじめたころのことって覚えてる?」
「少しだけなら……すべすべしてきもちいいなって、それくらいですけど」
記憶を辿った音羽の声に、
「すべすべって?」
小春ちゃんが笑って相槌を打つ。
「けんばんが……黒と白で、さわるとすべすべしていて、どこも押すと全然違う音がして……本当にそういう、はじまりもはじまりすぎることしか覚えてなくて」
そういう思い出こそ真っ先に忘れてしまうものなのかもしれないが、音羽は覚えていた。初めてピアノといういきものにふれた日のこと。そう。生きている。音羽にとって、あのころからピアノは息をしている生命体だった。
「三歳かー」
またしてもみっちゃんが続けた。
「でもわたし、初恋は三歳だったよ! それはおぼえてる!」
「三津香の初恋って誰?」
「同じ保育園だった葵くんって男の子。なんですきだったのかなー? いっつも鼻ずびずびさせてた」
「わかんねえなー」
苦笑した小春ちゃんは、すいすいと食べ終えた鮭のおにぎりを咀嚼しながら、もうひとつのおにぎりのパッケージを開きはじめる。今度は高菜漬けのおにぎり。小春ちゃんは食べるのがとても早い。
はつこい。
誰の顔も、浮かばない。あった気がする。初恋。けれども相手が誰だったのか、なぜだか音羽にはもう思い出せない。思い出そうとすると、はじめてふれた鍵盤の、つるりと清潔なつやめきばかりが脳裏に浮かぶ。
『菅野さんはさ』
そうして、何故だろう。今思い出すべきではないそのひとの声が耳に、蘇った。
『ピアノに、似てるよね』
真っ只中だった。音羽に触れながら、入れながら、灰色の部屋でそのひとは不意にそう呟いた。どういう意味なのかわからなくて思わず無言のまま見つめ返すと、かすかに息を上げた伊原砂雷は音羽の髪に指を絡めた。
『黒と』
そうして今度は音羽の胸に顔を埋めた。胸というよりは、心臓の上に。汗ばんだ肌に口づけながら、
『白』
ささめいた声がなぜだかあまく感じて、刹那胸を駆け上がった名もなき衝動に叫び出しそうになったところで、彼は音羽の中から出ていった。
「おとはちゃん」
現実の耳元にクラスメイトの声が届く。ふと我に返った音羽に、
「お昼ごはん、足りるの? それで」
みっちゃんと、その隣の小春ちゃんは、音羽が手にしたメロンパンを見つめて問うた。昨日の夜、スーパーで半値になっていた賞味期限間近のメロンパン。みっちゃんも小春ちゃんもすでに食事を終えようとしているのに、音羽のそれは未だ数口かじられたきりで止まっている。
「あっ、た、たります」
うっかり考えごとをしている間に、すっかり遅れてしまったらしい。かじかじと生地を噛んで、のみこんで、それでも半分近く残ったメロンパンを再び袋に戻した音羽に、
「菅野さん、少食だね」
ちゃんと食わなきゃダメだよ?小春ちゃんは苦笑して、そう言ってくれた。
(*)『ある真夜中に』瀬戸内寂聴 作詞 千原英喜 作曲