幕間 ナツ
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彼女は猫をあいしていた。
おんぼろい家の庭には毎朝、毛をかしゃかしゃに汚した白猫がたむろしているのを、彼女は知っていた。おはようー、フユ。いつものように、牛乳と魚肉ソーセージを少しずつ手に彼女は縁側の濡れ縁をおりる。牛乳は白い発泡スチロールのトレイにそそぐ。きのうの夕飯に出た三角揚げが入っていたやつだ。
定位置である、枯れかけの紫陽花の木の下にそれらを並べて距離をとると、フユはいつものように、よろり、よろりと、しなやかでどこか艶のある腰のうねりを伴いながら、低い木の下へと顔をつっこむ。雑な咀嚼音に、それでも彼女は満足して、フユから数歩離れたその場にしゃがみこんで、しばしその食事を見つめる。
なんでフユなのと、訊かれたことがある。冬の午後にこの庭で初めて出会ったからだと説明すると、ふうんなるほどねと頷かれた。訊いてきたわりにはどうでもよさげだったその人は今、家にいない。普段であれば彼女も家にはいない時間である。梅雨明けと時を同じくし、早々に夏風邪をひいて、きのうまで寝込んでいた。ふとんからうまく起き上がれないほどの大風邪だったのだけれど、先ほどようやっと自力で寝室を出て庭を見てみると、お惣菜用のからっぽのプラスチックパックが紫陽花の下に転がっていた。どうでもよさげだったそのひとは、起き上がれない自分の代わりに、彼女のあいする猫に牛乳かなにかをやったのだろう。彼女はうれしくなって、ふゆ、と、白い液体を舌に纏わせかぶりをふる彼の名を呼んだ。花の咲かなくなった低木に抱かれて、ふたりは声もなく見つめ合う。夏の空は青く、熱を帯び切らぬ風は彼女にはとても心地よかった。
夕方、白い買い物袋をひとつ提げて、同居人は帰宅した。ただいまーと間延びする声。茶の間の彼女はすぐさま立ち上がり、玄関までのわずかな道のりを駆け、帰ってきたそのひとに抱きつく。具合を訊かれて平熱であることを得意げに伝えると、無理はしちゃダメだよ、と、とても優しく額を小突かれた。
夜ごはんは茄子ときのこのたまごとじうどんと、いんげんの胡麻和えだった。このひとは昔から料理が上手で、なんでもかんでも器用につくる。フユに牛乳をやってくれたでしょ、と訊くと、さてなんのことやらねぇといじわるそうな笑顔で返された。このひとは、いじわるだ。いじわるくて優しい。彼女の知る他の誰より、やさしい。
夕飯のあと、そのひとは夏蜜柑をむいてくれた。かぜにいいんだって、と、やわらかな声で。細い指にくるくるとむかれた夏蜜柑は、夏のはじまりのきゅう、とする感じをたくさんたくさん吸い込んで育ったみたいに、きれいだった。甘酸っぱくて、体に、心に、しみてゆく。自分もまるできれいなものになれるような気がした。
そうして、思うのだ。夏蜜柑はこのひとに似ているのだと。とてもあまくて、とてもすっぱくて、とてもとても、きれいな。それでなんとなく、訊いてみた。夏と冬、どっちが好き? そのひとは一瞬よくわからないかおをしてから、秋、と、笑って答えた。
それはとても遠くて、優しくて、愛くるしい、夏のはじめのふたりのおはなし。
彼女は知っていた。永遠には続かない朝のこと。四季のこと。
抗うように、刻み付けるように、いきていた。ゆびのきれいなそのひとのとなりで、ずっとここにあれればいいと、願っていた。