表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愛の夢  作者: 四時
4/8

(4)



 ●




 化学はそれほど得意ではない。

 そもそもの頭の造りが文系なのだと思う。昔から算数や理科は、それほど好きではなかった。だけど、小学生の頃に理系の授業で使っていたノートは好きだった。淡く細い灰色の正方形が整然と並ぶ方眼ノート。字が均一に書けたし、線も引きやすかった。中学生になってからは学校側の指定で、ほとんどの授業において大学ノートを使うようになってしまった。高校生になっても、それは同じ。国語の授業のときにも、横罫線のノートを縦にして使う。少し見づらいなと、音羽個人は思っている。

 中学校でも理科の授業の一部分に化学は入っていたけれど、高校に進学してからは授業の内容がそれまで以上に記号的になった。すいへいりーべ、ぼくのふね。こんな当て字を唱えないと元素記号さえ覚えていられない。だけれど彼の、伊原先生の授業は、比較的わかりやすい方なのだという。学内にはもう一名、女性の化学教諭がいるけれども、そちらはもっと説明が雑なのだという話を聞いたことがある。とはいえ、実際の評価がどうなのかは知らない。ひとつ前の席のクラスメイトが、別のクラス(たしか六組だ)の友人から愚痴られているのを聞いただけだ。

『そっかなー? 堀内センセいい人じゃん。ちょっとうっさいけど』

『ていうかアレなんだよ、面白いのは授業の前の雑談だけってやつ。こないだ掘ちゃん休みの日にさらいセンセーさ、うちのクラスで一回だけ授業してくれたんだっけ。したらちょーわかりやすいの。すげくね? あのひと。イケメンだし』

『出た、みかちの「イケメンじゃね?」攻撃』

『えーだって普通にかっこいいじゃーん!』

『マジ? あんま好みくない』

 前の席の女子は柔道部に入っているらしい。いつもロッカーの上に、彼女の苗字がプリントされた柔道着が置いてある。背はそれほど高くないけれど、体はとてもがっしりしている。くろおび、なのだという。ルールをよく知らないけれど、きっと強いのだろう。

『いやいや顔面偏差値高い方だって! やさしいし! 絶対カノジョいるし!』

『本人に聞いたの?』

『訊いたら「どうかな~」だって! ムカつく! イケメンの余裕ほんとムカつく!』

 そうして、道着に着替えたらきっととても強いクラスメイトのつむじの先。件のその人は今、

「で、こんな風に必要な電子を受けたり、あるいは放出したりして、最外殻電子が八つになったこの状態をイオンと呼びます。教科書にこれと同じマグネシウムイオンの図があるね。外側にあったマイナスの電子が二つ減った状態」

 黒板に重ねて描いたいくつもの円を指示棒で示しながら、イオン生成の説明をしている。

「さっき久芳くんに読んでもらったところに、ええと……十一行目か? ここですね、電子はそもそもマイナスの粒子、とある。電子を手放しただけならプラスイオン、逆に受け取ったときには、そのイオンはマイナスイオンになる。マイナスイオンってフレーズは聞き覚えのある人多いかもね。まあややこしいけど、覚えちゃえばラクだから。数学のプラスマイナスと同じように考えれば分かりやすいかな」

 伊原先生の指は長い。シルバーの指示棒は伸縮タイプのもので、使わないときには白衣の胸ポケットにさしてある。でも先生は最近、あまり白衣を着ていない。今日はチノパンに紺色の七部袖ポロシャツを合わせている。伊原先生がスーツを着ている姿は、入学式とその後数日くらいしか見なかった気がする。大抵いつもワイシャツやポロシャツをあっさりと着ているし、羽織るのもジャケットではなく、白衣やアースカラーのカーディガンばかりだ。白衣を着ていないのは、ここ数日で気温がぐっと上がったからかもしれない。この窓辺の席からも、昼過ぎの青空は目に眩しい。グラウンドでは体育の授業をしているクラスがある。短距離走のタイムをとっているらしい。音羽は黒板に視線を戻した。

「こうしたイオンの化学式をイオン式って呼ぶんだけど、これも教科書にいくつか例が出てますね。プラスマイナスは今言ったとおりの意味で、元素記号の右上に書きます。横に数字があるものは、いくつの電子が出入りしたかを示していて、まあひとつなら数字はなし。ふたつくっついたなら2マイナス、逆にみっつ減ったなら3プラス、と。これもちょっとややこしいよね、くっついたのにマイナスなのかよってそのツッコミごと覚えといてください」

 教室の各所で思わずの笑い声が上がる。音羽は笑わない。黒板に白いチョークで象られた、+、2+、3+、それぞれの横に、伊原先生は記述を足しつつ説明を続ける。

「で、このプラスのこいつらをそれぞれ、1価、2価、3価の陽イオンと呼びます。これはわかりやすいね、記号のまんまだから。マイナスも同じでそれぞれ、いっかにかさんかの、陰イオン」

 チョークを鳴らしながら淀みなく続く声は、とても穏やか。おまけに美男。前の席の子からすれば「好みではない」とのことだけれど。

 悪い夢だったのかもしれない。たまにそんなふうに思うことがある。

 ありえない気がする。廊下を一歩出ればいつも学生の誰かしらに声をかけられて、おーいもう授業はじまるよー、なんて、軽く笑って応える人だ。慕われている。多くの学生と、おそらくは先生たちからも。ここ三週間ほど彼、伊原砂雷を静かに観察していた音羽の、それが結論だった。

 あの日、化学準備室に呼び出された放課後のすぐあと、音羽は自失していた。なにをされたのか、わからないほど子供ではないけれど。身に振ってかかった出来事を、理解できても咀嚼できなかった。いわゆる「中」には出されなかったのが、とりあえずの救いだったのかもしれない。でも。そういう問題でもなくて。

 翌朝目が覚めたのと同時に、夢だったのだと信じたかった。それでも生まれて初めてねじ込まれた箇所が、まだじわりと痛みを帯びていて、逃げ場のない思考に自失せざるを得なかった。ほんとう、なんだ。本当にあったことなんだ。きのう、きのうの、

 学校を休みたいとさえ思ったけれど、周囲に申し訳が立たなくて、朦朧とする自我を引きずってどうにかこうにか登校し続けた。涙はあの日より先、流していない。そこまで、泣けるまで、感情が達していないだけなのかもしれない。自分でもよくわからないけれど。


『お金で払えないものって何で代わりが効くか知ってる?』


 自業自得の部分も、ある。図書館で清掃員のアルバイトなんて、さすがに危ない橋すぎた。

 どちらがよかったんだろう。

「善良」たる教員の一人に見咎められて正しい罰を受けるのと、「善良ではない」と自称する教員の一人に見逃されつつ弄ばれるのと。どちらがマシだったんだろう。

 周辺の人々に迷惑をかけない分、後者の方がまだよかったのかもしれない。でも。そう言い切れるだけの強かさはまだ持てていない。音羽はまだ、驚いている。怒りも悔しさも湧かない。そこまで、至っていない。頭の中が。

「あーあと十五分しかないか。ええとそれでは、最後に今日やったところの豆テストをして終わりにしますね。配るから後ろ回してー」

 A4サイズをさらに半分にした小さな藁半紙が、列ごとに配布される。イオン生成とイオン式に関する問題が全部で十題。

「十分以内に解いてくださーい。もらった順からよーいどん」

「センセーそれ不公平ー!」

「だいじょぶだいじょぶ、そんな難しくないから」

 プリントの配布にひとときさざめいた教室はしかし、すぐに沈黙の中へと引きずり込まれた。音羽は手元のシャーペンを握り直して、上から順に問題を解いていく。自分の処女を奪った男の作ったテストに、不自然なほど自然に向き合っている。

 伊原先生が、教室の中を静かに見回っている。彼のビルケンシュトックはほとんど足音がしない。だから息を潜めていないとわからない。今どこを歩いているのか。誰の手元を見ているのか。

 あまりに静かな足音に、彼の吐息を思い出した。精を吐き出しているとは思えないほど。静かな。静かな最後だったこと。

 ことり、と。

 急に視界の端に映った手の甲が記憶のそれと一致して、瞬間背中がビクリと跳ねた。止まる。息が。全身が。机の端に置かれた長い指にあてられて止まる。

「さて、そろそろいいかなー。答え合わせはじめるよー」

 そんな一幕など無かったかのように。伊原先生はあっさりと教壇へ戻っていった。そんじゃ一問目からねー。同じプリントを見ながら解を告げる声に反応して、クラスメイトたちが赤ペンを銘々に走らせる。

 声に従って赤い丸をつけながら、音羽は机の端のそれを回収する。鍵。銀色の真新しいシリンダー錠には、細く折りたたんだ紙が結ばれていた。




 数時間後、放課後の夕暮れのさなか。音羽は高校の最寄り駅から二駅離れた郊外の町にいた。

 地図検索サイトのマップをコピーした小さな紙には、この駅から徒歩数分でたどり着くらしいアパートに、赤いペンで星印がつけてあった。その下に走り書かれた「203」。部屋番号だろうか。この鍵が開くことのできる扉があると思しき、その部屋。

 伊原砂雷の自宅だろうか。

 駅を出て、夕映えのアスファルトをたどりながらも、音羽は躊躇っていた。行くべき、なんだろうな。当然だが気は進まない。化学準備室に呼び出された、あの日以来の邂逅である。勿論、授業ではもう何度か顔を合わせているけれど。教師であるときの伊原砂雷の笑顔は、それはもう人当たりが良くて、温かくて、誰にでも優しい。音羽にはそれが、その事実が怖い。

『助けなら、いつでも呼んだらいいよ』

 声を思い出す。温かくも冷たくもない、やわくも硬くもない、言うならばゼロの声。

『俺は困らないから』

 どうして。伊原先生はどうして、わたしなんかを相手にしたんだろう。あの日も目の色を薄めて急に立ち上がるまでは、「自分は善いものではない」と言ってのけるくらいで、音羽には何の興味も示していないようだったはずなのに。

 行くしか、ないか。音羽の弱みは最初から伊原砂雷の手中である。拒否権はないのだ、音羽があの学校へ通うことを、選び続ける限りは。

 学校を辞めるわけにはいかない。少なくとも、今は。

 音羽はローファーにおさまった細い足を止めずに歩き続ける。一度止まってしまったら、もう進むことも戻ることもできない、そんな気がしたから。

 いくつかの大小様々なアパートが立ち並ぶ区画に出た。手元の地図を確認する。二車線の道路を真っ直ぐ、交差点から二つ目の信号を、右。エントランスに掲げられたアパートの名に、肩が強張った。ここだ。

 外壁は、黒に近い灰色。六階建てで、周囲の賃貸物件よりも頭ひとつ高く見える。エレベーターはついていないようだったので、外階段をのぼって二階へ。カンカンと鉄筋の軽い音が、音羽と共に上がってくる。階段のすぐ横が201号室だった。間の一部屋を素通りして、三部屋目。表札はない。重たそうな金属性の扉が、音羽をじろりと品定めする。

 鍵は渡されているけれど、とりあえずチャイムを鳴らすべきだろうか。律儀にベルボタンへと伸ばした人差し指を、ふと、止めた。

 わたし、どうしてこんなに、冷静なんだろう。

 ひどいことを、された気がする。抗えない力で腕を掴まれて、靴下以外はみな取り払われた。つい三週間前のこと。怖くて、痛くて、苦しくて、何度も嫌と首を振った。伊原先生はやめてくれなかった。愉しげでもなかったし、苛立っているようにも見えなかった。静かに。曇天の夕暮れよりも静かに。伊原砂雷は音羽を犯した。

 チャイムを鳴らす。

 逃げ場はないのだ、最初から。助けを求められるひともいない、ならば。

 かちゃりと、扉が開く。扉の先で、依然紺色のポロシャツ姿の伊原砂雷は、

「ほんとに来たんだ」

 その言に反して、特別驚いても喜んでもいなかった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ