表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愛の夢  作者: 四時
3/8

(3)




 ◯




『ねえねえ』

 かすむ視界の真ん中で、ほっそりとした腕で腹にしがみついたその子は、いつものように心細げな声で淡くごねる。肩下へと伸び始めた髪を梳いてやった、その下で、

『いつになったら、かえれるの?』

 声よりずっとさびしげな双眸が訴えた。うーん、いつだろねぇ。軽くかわそうとするも声はやまない。やがて涙をともなう瞳。

『もうかえりたいよ、────』

 幼い声音に、苦笑いしか返せなかった。ずっと遠い記憶。連れ出して、やりたかった。

 この目に今も宿したままの、最後の日の午後。あれきりもう、俺はきみにあえなくなった。




 まどろんでいたらしい。そう気付いたのはまぶたを開いて数秒後、机の上で低く唸るノートパソコンの音を聞いてからだった。放課後の化学実験室。花曇る窓の空。気温も五月にしてはいささか低いかもしれない。明日は雨になるだろう。

 中間考査の準備をしていた。試験は今月の末からなので、取り急いでの仕事というわけではない。それでも一学年と二学年の化学を受け持つ身、のんびりしていると猶予はあっという間にすり減っていく。雑務の合間に少しずつ用意をしておくのが、砂雷の普段のスタンスである。

 パソコンの液晶の隅、デジタル時計は十六時を回っていた。試験問題は教科書や資料集の復習がほとんどである。最後に応用を少し。どの問題を借りるかと、ペラペラとテキストをめくる背中に、

 コン、コン。

 控え目のノックが届く。開いてますよと答えつつ、はて何者かと振り返った先に、萎縮しきった女子学生の姿があった。

 ああ、忘れてた。そういえば呼び出していた。失礼しますとささやく菅野音羽の声は、いつも以上に細く消えいりそうだった。

「それ使っていいよ」

 とりあえずデータを上書きする。液晶から目は離さないまま、左の人差し指で部屋の片隅に立てかけてあるパイプ椅子を示す。それには応じずに、菅野音羽はその場に身を硬くして起立したまま動かない。動けない、の方が正しいかもしれない。ただでさえ白い頰がひときわ青ざめて、華奢な喉は引きつっているのか、ぐぅ、と、小さく喘いだ。

 そりゃそうか。砂雷はパソコンを閉じながら思う。校則違反かましてる姿見られたんだもんな。ましてやこんな、見るからに真面目そうな一期選抜内定者が。

市立図書館で彼女と遭遇したのが数日前。それから本日まで、一年四組には科学の授業がなかった。三時限目の授業の終わりに、さりげなく呼び出しをかけておいた。授業のさなか、菅野音羽はいつにも増してこうべを垂れたままでいた。

さっさと終わらせてやるか。砂雷は古びた事務椅子に掛けたまま菅野音羽に向き直る。敢えて真っ向目線を投げる。途端にひくつく細い肩。

「なんていうか、」

 率直に思ったことから言ってみる。

「バイト先として図書館はまず、無いと思う。明らかでしょ。先生方も学生も高頻度で出没する施設なんだから」

 校則を犯したことに触れられなかった菅野音羽は、黒い瞳をかすかに瞠った。しかしそれもつかの間、

「…………バイト、」

 絞り出された声はなおも震えている。そうしてその声よりずっと高い、ソプラノ。廊下の先から流れてくる。同じフロアの東の端にある、第二音楽室から。

「やめました……」

 そういえば、じきに合唱部はコンクールが始まるって堀内先生言ってたっけな。砂雷は目線を落とす。履きなれたビルケンシュトック。そろそろ洗ってやらないと。

「賢明だね。どうしてもやりたいなら、もっと別の場所にしな。事務補助員とか、ああでも高校生にそんな仕事任せないのかな普通。じゃなきゃホテルの皿洗いとかさ。色々あるじゃん、学校関係者が使わなそうなところ」

 今度はそういうとこにしなよ。顔を上げて諭すと、菅野音羽はむしろ当惑した面持ちで砂雷を見つめてきた。初めてだ。この子が意識して砂雷と目を合わせたのは。

「あの……」

「俺は不真面目な教員だからね。別に興味もない。きみがどうして稼いでようが、それがいけないことだろうが、いつか他の誰かに見つかって罰されようが。好きにしたらいい」

 ただ、さすがに図書館は無いと思うよ。それだけ。そう薄く笑んでみると、菅野音羽は思い出したように再び目を逸らした。

「俺からはそれだけ。帰っていいよ」

「あの」

「なに」

「どうして……」

 罰さないのか。その黒目が揺れている。だから言ってるじゃないさっきから。

「真面目じゃない人間に、真面目じゃない人間を罰する権利はないの。大人だろうが未成年だろうが同じこと。人のこと言えないってやつだよ、ほらさっさと帰んな」

 これ以上空が暗くなる前に帰りたいし。そこまでは言わずに砂雷は机上のテキストを片付けはじめる。分厚い資料集が自重を伴って、思いがけず派手な音を立てて閉じた。

「あ、」

 その音に何故か怯んだらしい菅野音羽が、また喉を震わせる。砂雷は顔を上げた。顔色はまだそれほど良くない。雨雲のように暗くて青い影が、まぶたと鼻先におりている。


「…………せんせい……」


 ぱ ちん、と。

 こめかみのあたりで音がした。電源。点いたのか落ちたのか。自分でもよくわからない。

 突然だった。名付けようもないほどささいな感情。しかしその暗い濁りがこめかみから下、頬を、喉を伝って、左胸へ。そこからさらに全身へ。広がるまでのわずかな時間。

 強いて言うなら、魔が差した。

「それとも何」

 ガタリと椅子から立ち上がる。あれ、おかしいな。俺早く帰りたいはずなのに。

「口止め料でも払ってくれるの?」

 えっ、と漏れた声はしかし、その響きに反してそれほど驚いていないように感じられた。そういうものを、ハナから要求される覚悟でいたのか。へーそうかそうか。

 きみ、案外汚いな。

「あの、おいくら……」

「生憎と社会人経験は君の数百倍はあるよ。今更そのささやかなお小遣い、せしめたいとは思わない」

 当然だ。十歳は離れている高校一年生と一緒にされる筋合いはない。ゆっくりと歩み寄る。

「えっと、では、あの……」

 きみは、汚い。汚いし、愚かだ。だからさっさと帰れって言ったのに。

 砂雷は膝に手をついて、目の高さが同じになるようゆったりと屈んでやった。そうして目前に到達した顎骨に指をかける。

「お金で払えないものって何で代わりが効くか知ってる?」

 え、と、声がこぼれた。答えは最初から求めていない。二秒もない間に、だから声ごとそれを塞いだ。




 初めてだったらしい。それほど驚かない。そこまでする気ではなかったのに、何故か歯止めがきかなかった。

 痩身にやや不似合いなふたつの膨らみに、菅野音羽は震えるてのひらで、今更制服を引き上げる。壁に背をもたせて、ぼろぼろ零れる涙を引き寄せた白い布に落とす。ブラウスだ。彼女自身の。

 真白の身体に、砂雷は一つの痕も残さなかった。避妊具など持ち歩く生活はしていないので出すときは内部から抜いたし、初めて男を受け入れたそこはきつすぎて、正直心地よいとも言えなかった。悪くはなかったけれど。

 そうして彼女は、菅野音羽は、未だに何が起こったのか受けとめきれていない目をして、絡みついた衣類にしがみついている。床に丸めた白衣が横たわっている。先程まで口に突っ込ませていたものだ。一部が唾液に塗れて、まるで産まれたての仔牛のようだ。

「さて……これでおあいこかな」

 乱れた黒髪を軽く整えてやってから、砂雷はシャツのボタンを直した。相手のことはほとんど引ん剝いておきながら、自分はせいぜい、第一ボタンとファスナーを緩めた程度である。菅野音羽が砂雷を見上げる。怯えているのか。憤っているのか。わからないけれど、澱をこぼして潤む双眸は思いのほか綺麗だった。

「助けなら、いつでも呼んだらいいよ」

 捨て鉢だった。我ながら面倒なことをしたものだ。今更冷静さを取り戻しはじめた左脳が僅かに痛む。

「俺は困らないから」

 今日はもう帰りなさい。言うなり、菅野音羽は皺だらけになった制服をかぶって膝を立てた。がくりと崩れそうになりながら、それでも引き戸を開けて出て行く。パタパタと続いた足音がまたしても転んで、それでもすぐに立ち上がって駆けていくのが聞こえた。部活のない学生はほとんど帰宅した時刻だ、それほど怪しまれることもないだろう。

 耳だけで見届けたのち、砂雷は窓辺に立つ。空を仰ぐ。泣き出しそうな春の曇天。あーあ。めんどくさいもん背負っちまったな。

 内心ぼやく反面で、何故だか力無い笑みが、ぼやりとその頬を象った。あーあ。砂雷は思う。億劫だ。何もかもが。もうずっとずっとずっとずっと昔から。

 だからいまさら、どうなっても構わない。

 誰かの処女を奪おうが。無理矢理犯して傷つけようが。別に死んだわけじゃない。命までは取らない。自分に捕まった不運を憐れんでもらうしかない。

 かぼそい嬌声を思い出す。

 てのひらで塞いだ唇から、絹裂く悲鳴交じりの声が絶えなかった。声、綺麗だね。ささやいた途端てのひらを噛まれた。苦笑いして、脱いだ白衣を押し込んだ。そこからはもうよく覚えていない。出したのは床の上だった。それくらいしか。

 木目に散ったそれを、机の上に常備しているティッシュでぐいぐい拭う。そうしながら、笑ってしまった。アホだな、何してんだろ俺。遊びにさえならない、こんなこと。

 床の黒い汚れまでこびりついたティッシュを、笑みの消えた肩でゴミ箱に放った。分厚い雲のずっと向こう、きっと今、日は沈んでいる。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ