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愛の夢  作者: 四時
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(2)




 ◯




 桜はものの数日で散り果てた。

 入学式の翌日、花冷えの街はやがて冷たい雨雲を呼び寄せた。長い時間をかけて咲きこぼれた花々は降りはじめた無数の雫に身を打たれ、続いてやってきた、飛ぶ鳥さえおののくほどのあたたかな強風に、あっと言う間に連れ去られてしまった。晴れのひとときさえ許されぬまま舞い去った淡紅は、空を歩道を川面を染め上げ、ヴェールを失って途方に暮れる木々を人々は名残惜しくただ見上げる。

 息する間も無い春だった。明くる朝、花吹雪のなか歩を進める女子学生たちの、ひるがえるスカートの裾をぼうっと眺めながら砂雷は歩く。泣き止んだ空はただ青く、白雲をひとひら伴って、霞の向こうで揺れていた。




 菅野音羽は大人しい学生である。

 この数週間で抱いた、率直な印象がそれだった。始業のチャイムと共に、その日も一年四組の教室の戸を開く。声に揃わぬお決まりの礼には、午後イチの授業の始まりへの気怠さがありありと籠っている。

「ええと、今日はまずこないだの小テスト返します。名前呼んだらどんどん来てねー」

 手の中にまとめた答案用紙を教卓に広げる。五十点満点の十分間テスト。前回の授業の終わりにやったものを、空き時間の多かった本日の午前中に職員室でダラダラ採点した。

「そんじゃ返します。まずは、大崎くーん」

 教室中央の列の後方で男子が一人立ち上がる。はいよくできました。渡しつつ次を呼ぶ。

「森島くーん」

「佐久間さーん。満点ですおめでとー」

「新山さーん。はいどんどん来てー」

 特別何の努力もしていないのだが、砂雷は学生たちから懐かれやすい。まだ若い先生として数えられているためもあるだろうが、学生たちの中では一番自分たちに近しい、兄貴のような存在、というのが主な立場のようである。

「鈴木さーん」

「三宅さーん」

「越谷くーん」

「センセー俺どう? 満点? 満点?」

「空欄あるクセに何言ってんだよ、復習しなさーい。はい次、向井くーん」

 砂雷もふざけ話を振られれば適当に笑って返す程度の甲斐性こそあるものの、学生は学生。彼らの兄貴になる気はないが、逃げるわけにもいかないので笑って受け流している、というのが実際のところである。

「松田さーん」

「小野くーん。はいよくできましたー」

「根本くーん」

「菅野さーん」

 菅野音羽は足が小さい。背丈は中の下程度なので、決して低いわけではないのだが、彼女の真新しい上履きは他の学生よりもう少し小さい気がする。そう見えるだけなのかもしれない。窓際の前から二番目の席を立って、静々と教卓に歩み寄ってくるその黒い双眸は、何者とも視線を合わせないようにとでも決めているのか、いつでも正面ではなく斜め下を見つめていた。

「よくできました」

 かち合うことのない瞳に告げて、赤丸の並んだ藁半紙を手渡す。小さく会釈をしたような、単にタイミングよく動いた首がそう見えただけのような、曖昧な動きでもって菅野音羽は満点のテストを受け取るなりいそいそと席へ戻る。大西くーん。佐藤さーん。呼ばわりながら砂雷は思う。この新生一年四組の教室で、彼女に対して最初に抱いた印象。


 菅野音羽は、大人しい学生である。


 まだ新しい生活に馴染んでいなかった四月初旬。生徒たちはそれでも、席の近い同士だの、同じ中学校出身だの、少しでも自分に近しい存在から攻略しようとしていた。菅野音羽にその意思は無かった。がやがやとさざめく教室、今と同じ窓際の前から二番目の席。始業前の音羽は小さな自分の居場所で、こわごわと細い背中を丸めていた。彼女に比べれば、ロッカーの上に飾られた花瓶の中のガーベラのほうがまだ生き生きとしていたと思う。

『皆さん、こんにちは。今日から一年間このクラスの化学を担当します、伊原です』

 教壇の前、いつもの白衣姿でまず、はじめましての挨拶。教員の多くがそうするように、砂雷も最初の授業は、年間の授業の大まかな流れの説明や、生徒たちの自己紹介からなるオリエンテーションをすることにしていた。

 この高校において一年次の必修である化学という学問は、得意苦手が大きく分かれる科目である。難しく受け取らずに真っ直ぐ覚えて考えれば、それほど難解な内容ではない。それでもついてこられないなら、二年次から化学を受講しなければいいだけの話だ。だから下手なプレッシャーは与えず、授業は比較的ゆるく行うことにしている。実際、二年次三年次の選択授業で化学を選択する学生はだいぶ少ない。

『必要かどうかはまあ、進路によるけど。でもせっかくなので楽しんで授業聞いてもらえたら、先生は勝手に嬉しいですね』

 ここで一笑い儲ける。掴みはこんなところにして、あとは学生たちそれぞれの自己紹介を聞いていく。

『東中出身です』

『化学というか、理科全般はちょっと苦手です……』

『演劇部に入る予定です! あっ、好きな芸能人は七河くるみちゃんです!』

 フルネーム、出身校、部活、趣味。なんでも主張してくれていいよ、とあらかじめ振っておいたので、特に男子にはなかなかユーモラスな一分間演説をしてくれる者もいた。廊下側の列から順にはじまったプロフィール発表は、やがて窓際の一列を残すのみとなった。一番前の席の柔道部女子の発表のあと、菅野音羽は静かに椅子を引いて、上履きの両足を床に下ろした。数名の男子から早くも無音のさざめきの気配を感じる。

『菅野音羽です』

 青い風にほころんだ、小花のような声だった。誰かがひとつくしゃみでもすれば、たちまち掻き消えてしまうであろうほどの。

『第五中学校からきました』

 そこまでどうにか声にして、しかしすぐに行き詰まる。自己紹介を考える時間なら他の生徒よりあったはずなのだが、音羽は顔も上げられずに、足元の床の木目をじっと見つめたまま、

『……よろしくお願いします』

 あっさり結んだ。まばらな拍手の中、後ろの席では背の高い眼鏡の女子が立ち上がる。言葉少なな挨拶のあと、音羽は再び背を丸めて、まだ開かれていない机上の教科書の表紙をじっと見つめていた。


「二十五点より下だったひとー、もうちょい頑張ろうねー。まだ化学始まったばっかだから、ここで躓くと一年間大変ですよー」

 教員用のテキストを開きつつ砂雷は軽く声を張る。化学結合の章。先日入ったばかりの項目である。

「せんせーオレ十三点なんだけどー!」

「萩くんは次十点台だったら個別追試ー」

「まってなんでオレだけなの!」

 ゲラゲラと笑いに包まれる直方体の空間。三十余名はすっかりこの場に馴染みつつある。ごく数名を除いてではあるが。

「イヤだったら今日からもうちょい頑張りましょ。採点ミスなかったかな、そんなら授業入るよー。教科書十八ページからです、こないださわりだけやった、化学結合について。えっとそれじゃ、古川くん。頭から読んでってください」

 威勢の良い声で応じて起立した、確か剣道部所属だと名乗った男子が、目前に教科書を持ち上げて横書きの明朝体を読み上げ始める。教卓で砂雷はその朗々とした声を聞きながら、窓際に軽く目線を投げる。机に教科書を開いて俯いた音羽は、文面を目で追っているのかいないのか、膝に手を乗せたままじっと座っている。大人しく、さらに言うなら異様なほどに自身を発露しない女子生徒。春の午後の真白い日差しが、その横顔を淡く照らしていた。







 白球が空に飛ぶ音。裏山にほど近い化学準備室からは、校庭の眺めは全く見えない。ただ喧騒だけが耳に届く。グラウンドを駆ける、男子生徒たちの太い声。

「キャッチャーフライ」

 実際どうなったかは当然知らないままで、砂雷はいつものように、ベランダの手すりに身をもたせかけてぼんやりと佇んでいた。四月の黄昏は乾いた肌に優しい、気がする。茜を通り過ぎた淡い菫色の空が、その裾野をこんな、こんな冴えない男にさえ分けてくれる。十七時の南風。今日もあたたかい一日だった。

 デスクの上に広げたままにしていたノートパソコンを閉じて、通勤に使っている黒いバックパックにしまいこむ。羽織っていた白衣も丸めて一緒に突っ込んでから、戸締りをして廊下へと出た。途中で見えた体育館の窓の奥では、バレーボール部員の女子たちが、顧問の指導でアタックレシーブを延々繰り返している。砂雷も部活動の顧問という立場を持っているが、担当する化学実験部は、中学校の化学で習った授業に毛が生えた程度の実験を、思い出した頃に一つ二つ行うだけの集団である。最近だと、前の冬にカルメ焼き作りをやったきり、あとは活動していない。部員も少ないので、来年あたりには廃部になるかもしれない。不真面目な顧問としてはまあ、ありがたいことである。

 校門を出て、駅へと続くささやかな商店街をだらだら歩く。砂雷の住むアパートは、最寄り駅から二駅離れた郊外にある。八百屋で夕飯の買い出しをする大柄な母親の足元を、まだ五歳ほどであろう細身の少年がちょろちょろ動き回っている。そんな景色に眦を綻ばせる程度には、この身も落ち着いたらしい。それ以上視線はくれずにただ歩く。

 普段の帰宅途中といえば、気が向いたら商店街の惣菜屋で夕餉のアテでも求める程度で、あとは特にどこかへ足を伸ばしたりもしないのだが、今日は寄るべき場所があった。いつもの電車を一駅で降りると、華やぐ夕闇に染められた中心街に出る。駅直結のショッピングモールや数々の煙たい娯楽施設を通り過ぎて、煩雑な空気が少し緩和した頃にやっとたどり着くそこは、市が所有している七階建ての文化センターである。四階から五階にかけて市立図書館が据え置かれており、今砂雷が背負っているバックパックの中には、返却期限が本日二十時までのレンタルDVDが一本入っていた。

 多くの学生や社会人が定時を過ぎた十八時。館内にはそこそこの数の利用者がたむろしている。先に返却カウンターでDVDを返す。六十年代の、百分にも満たないモノクロ映画。つまらなくも面白くもなかった。

 そのまま帰ってもよかったのだが、ついでなのでいつも通り、惰性でAVコーナーをうろついてみる。映画鑑賞はほとんど唯一と言っていい砂雷の趣味である。偉そうな批評はできない代わりに、大抵何を見ても普通に面白いと思うし、その反面何を見てもつまらないと思う。レンタルショップの方が作品のバリエーションも豊かであることは当然知っていたものの、そんな蝉の抜け殻ほどの趣味に、毎回数百円を投ずる気にはなれなかった。結局、ナントカという作曲家の半生を描いた伝記映画を一本借りる。図書館に並ぶDVDは、内容に限らずみんな律儀で礼儀正しい。色褪せたパッケージの背を指でなぞりながら歩いていた砂雷の耳に、


『へええ、それであたしの代わりに音姫ちゃんが弾いてくれたの?』


 その声は唐突に蘇った。数週間前、入学式の翌日に事の顛末を音楽教諭・堀内に話して聞かせたのは、当然のことながら桑谷だった。

『やだーうそー、そんなのあたしも聴きたかったわよー』

『堀内センセの代わりだっての。こっちはハラハラして大変だったんだからね! それより何? その、おとひめって。竜宮城?』

『オツじゃなくて、音に姫。音の姫って、あの子いつからかそう呼ばれてんのよ、一部の菅野音羽ファンから』

 同年代であり性格の調子もよく噛み合う桑谷堀内コンビは式の翌日、出勤するなり互いに堰を切ったように喋りはじめた。彼女たちが井戸端会議のたびに陣取るコーヒーメーカー置き場のすぐ後ろにデスクを置く砂雷は、いつも努めて聞こえないフリに勤しんでいる。

『なんかトイレの消音機みたいねぇ』

『そこツっこまないのよ、呼んでる当人たちはみんなマジなんだから。でもまあわかるかなー、顔可愛いもんねぇ音羽ちゃん。清楚っていうの? 国民的美少女コンテスト出たらそこそこ人気ありそうな感じの』

『顔より何よりまずピアノでしょ。あたしもうここに勤めて五年になるけど、ウチの校歌で感動したの初めてだわよ』

『うわぁ聴きたかったー。病院行ってる場合じゃなかったわー』

 今は包帯とギプスで普段の二倍近い太さになった右の人差し指を憎らしげに見やって、堀内はボヤいた。

『すんごい綺麗な音なのねー、英才教育でも受けてんのかしら。いっそ音楽科のある学校行けばよかったのに』

『そうねぇ、なんてったってあの子、』

 堀内の声の続きは、スピーカーから流れた予鈴に半分掻き消えた。職員間での朝礼が始まる時間。ようやっと静かになったテリトリーにほっとひと息つきながら、砂雷は席を立ったのだった。

 仕事上がりの怠惰な夜の始まりに、なんでまたクワホリトークなんて思い出すかな。新年度が始まって早いもので三週間、浮き足立っていた校舎内にも、ようやっと普段どおりのゆるい空気が戻りつつある。もう少し働いたらダラダラ過ごせる黄金週間とあって、ここ数日、休憩時間の桑谷と堀内は、二人で赴くらしい箱根旅行の話で盛り上がっている。何があっても同行したくないツアーだなと思いつつ、貸出カウンターへと足を向けた砂雷の左肩に、

 どん、と。

 水色のツナギを着た清掃作業員がぶつかった。傍らのトイレへ繋がる細い通路から、作業を終えて出てきたところだったらしい。ほとんど反射ですみませんと声を発した砂雷に対して、

「…………」

 作業員は何も言わなかった。砂雷もそれ以上は何も発さない。何を言えばいいのかわからない。

 白い三角巾の下に隠れた、黒髪のミディアムボブ。

 数秒間、無言のままで向かい合った。最初に動いたのは砂雷だ。何も言わぬまま、踵を返して、予定どおり貸出カウンターへと向かう。DVDを借りてふと振り返った先、通路の前に、菅野音羽はもういなかった。

 今時珍しく、ジャンパースカートにボレロを合わせた制服を掲げる砂雷の通勤先。あの県立高校は何故か、色々な事柄が他校より遅れている。さて、どうしたもんかな。取り立てて困るでもなく思いつつ、砂雷は図書館を後にする。

 時代錯誤の勤め先。学生のアルバイトは、固く禁止されている。


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