(1)
ふらふらと足元の覚束ない日々だった。
かの人との「あの日々」を思うとき、過ぎ去ってしまった、もう二度とは戻らないあの日々を思い起こすとき、この足元はいつもふわりと、血を失ったように傾いでよろめく。上も下も、無いような。進んでいるのか引き戻されているのか、それすらわからない、水の中にいるような日々だった。それでも。彼はかつてを思う。はっきりと目の裏に呼び起こす。荒波の船の上、きっと見つかりはしないであろう正しさや強さを探して生きていた、そんな日々だった。まだ見ぬ西大陸を目指して海原に出た、聖母の名を冠した一隻の船のように。その胸に凛と張られた、継接ぎに汚れながらも風を受ける大きな白き帆のように。
そう。彼は今でも思う。ひとつひとつをまなうらに思い起こす。あの日あの時。もう帰らない四季の中。彼女はいつも、そこに居た。
◯
古びた校舎で過ごす何度目かの春は、例年と変わらずに緩慢と始まった。
新学期のど頭に執り行なわれた始業式、うすら寒い四月の体育館に寄せ集められた学生たちの多くは、早くも放課後の楽しいひと時をその薄っぺらそうな頭の中に思い描きつつ校長の話を聞き流していた。顔を見れば分かる。いや、見なくたって。十六、七のうら若き彼らにとって、始業式など、これからはじまる新しい春の日々へ繋がるちょっとしたゲートのようなものでしかないのだ。現に、いつもよりずっと早く訪れた下校時間、彼らは友人や彼氏彼女と連れ立って、ぞろぞろと連なりながら正門のある階段を降りていった。午後からは、新入生を迎えての入学式である。一部の生徒を除いて他は、今日のところはお役御免なのだった。
そんなわけで、普段よりもずっと静かな正午、校舎の片隅。人気のないベランダの手すりにもたれて、男は一服を入れる。ふりそそぐ日の光に、一筋の白煙が吸い込まれるように溶けていく。肌に馴染まぬスーツのジャケットが鬱陶しいものの、午後からの入学式にも出席しなければならない一教員としてはまだ着崩すわけにもいかない。せめて上から着慣れた白衣を羽織って、この堅苦しさを誤魔化している。
校舎内は全面禁煙とされている昨今、この高校では比較的多くの教員が、校舎を少し離れた空き地など、学生のいない場所を確保して適当に肺を焼いている。彼、伊原砂雷もその一人だが、怠惰な男はわざわざ校舎を出たりしない。三つの棟に分けられた校舎の、一番裏の山に近い場所にある、一番高い三階の、西側端にぽつんとある化学準備室には、基本的に砂雷以外誰も寄り付かない。学内にはもう一名化学教師がいるけれども、彼女は教員一のスピーカーである。こんな淋しい場所で昼休みを過ごすわけもなく、現にこの隅っこにだって、向かいの棟の二階にある職員室でけたたましい笑い声を上げるその人の声は届くのだ。すげえ肺活量。絶対煙草吸ってねぇわ。砂雷はネクタイを軽く緩める。四月の日差しが煤けた目に眩しい。
携帯用の灰皿にぐりっとフィルターを押し付けて、すっかりけむたくなったベランダから内へと入る。埃っぽい化学準備室には、光のフレアを受けてかすかに天使の梯子が射していた。無数の試験管とフラスコ、茶色の薬壜。薬品のにおいを吸い込んだ、白い天井と木張りの床。広さにして十三帖ほどの空間に、所狭しと実験器具が並べられている。そろそろヨウ素剤追加しないとな。思いつつ、棚の隅に常駐させている消臭剤を適当に自身に吹きかける。昼飯はカロリーメイトを一箱。白衣を脱いで椅子に掛けると、茶と灰色の室内でそこだけが妙にまぶしく光って見えた。気の抜けたネクタイを締め直して、砂雷は化学準備室を出る。
履きなれたビルケンシュトックをぺたぺた鳴らして渡り廊下を歩く。職員室は隣の棟の二階にあった。からりと引き戸を開くと同時に、
「えっ何、折れてるの!?」
先日齢四十を迎えたというスピーカー化学教員・桑谷女史が、一際大きく声を上げた。配布された改定教科書のことかと思ったが、室内の空気は何やらただならぬ色を帯びている。
「えー、他に誰かひけたっけ?」
「手の空いてる学生みんな帰しちゃったしなぁ」
「教員では?」
「校長」
「却下!」
なんの話だ。とりあえず引き戸を閉めた砂雷が問う前に、
「あっねえねえ伊原先生さ! ピアノ弾けない!?」
小走りで駆け寄ってきたスピーカー桑谷が砂雷の襟元を掴んで食い気味に訊いてきた。思わず尻込みした砂雷は、
「いや、全く」
生理的に半笑いを浮かべて正直に答える。小学生の頃に吹いたピアニカが、恐らく楽器と呼べるものに触れた最後だ。桑谷は、そっかぁとあっさり手を離して、
「うーんどうしましょうねぇ」
他の教員のたむろる職員室中央へと歩を進める。砂雷が事の次第を問う前に桑谷はやはり、
「ついさっき堀内先生がね、そこの引き戸に人差し指、挟んじゃったのよ」
置いてけぼりの砂雷に説明を始めた。堀内先生というのは校内に二人いる音楽教師のうちの一人であり、午後からの入学式では修礼や校歌披露など、式中一切の伴奏を担当する予定である。
「今保健の葛西先生に見てもらったんだけど、腫れがひどくてねぇ。ヒビが入ってるか、もしかしたら折れてるかもって。どのみちピアノなんか弾ける状態じゃないみたいなのよ。音楽は村橋先生もだけど、ほらムラちゃんはさ、ブラスの指揮があるでしょ? あと先生方で弾けるのって校長だけなのよー」
当然、式辞を述べる校長その人がピアノ伴奏を掛け持つわけにもいかない。校内に残っている生徒といえば、あとは式中の担当を持つ生徒会役員か、入退場の音楽や国歌を演奏する吹奏楽部員くらいのもので、どの教室もすっからかんだ。
「生徒会でピアノ弾ける子いないのかな」
「校歌、楽譜一回見ただけで弾けるほどすごい子はいない気がするなぁ。とりあえず聞いてきてみるけど」
「あの……ピアノ上手いって子なら一応一人知ってますけど……」
ざわめくその陰から小さく挙手をする痩せた男がいた。数学教員の室井である。
「うそっ、誰?」
「いやでもあの、それがですね、新入生なんですよ、その子……」
「それダメじゃない?」
「ですが……他に誰も弾ける人間がいないのでしたら、間違いない腕の学生にお任せするしかないのでは……もう練習する時間もありませんし……」
「えーでも室井先生なんで知ってるんです? その新入生。ていうかなんて子?」
「入試の時に、僕その子の面接見たんです。ナントカってコンクールで入賞した経歴がありまして……ああその時、堀内先生も一緒にいましたので、言っていました……あのコンクールで入賞するのはすごいって……確か一期試験で内定していたはずです……」
今は保健室で手当てをされているのであろう音楽教諭の名を挙げて、室井は続ける。
「堀内センセが言うならまあ本物かぁ」
「でも、いいんでしょうか? 新入生に伴奏任せるのって」
「緊急事態だから止む無しってとこじゃあねえか?で、ムロちゃんその子の名前は? 声かけるなら早くしねえと」
「ええと、フルネームでは覚えていなくて……」
「えーっ室井先生! 今年度の新入生も漏れなく百人以上いるんだけどー!」
「いえでもっ……その、名簿、新入生の名簿見せていただければ多分すぐ分かります。変わった名前だったので……」
「一覧どっかにあったっけー?」
「あたしのフォルダに入ってます、エクセルなんで文字検索できますけど、字面覚えてますか?」
「ああ……それじゃ、」
わやわやと職員室の片隅に集いはじめた教員たちの群れからそっと抜け出て、砂雷は午後の光さす窓辺から、眼下の中庭を見やった。青い空の中、ひらりと身を躍らせたひとひらの薄紅。見えているかな、と、ふと思う。
かくして開式した入学式、ピアノの前には一人の女子学生が静かに座っていた。
新入生のクラス担任を紹介する段まで来た頃、今年は二学年の副担任に就いた砂雷は、教員席の末席からぼんやりと、真新しい制服に身を縛られた百数名の横顔を眺めていた。男子は学ラン、女子は白の丸襟ブラウスとUネックのジャンパースカートにボレロという、セーラーやブレザーが主流の今時では少し珍しいデザインの制服である。髪も服も全身黒で染め抜かれた彼らの、新しい生活に胸躍らせる頬の先、てらりと光るピアノの陰に、自らも新入生であるその生徒は座していた。教員席のちょうど対岸にあたる場所に据えられたグランドピアノは、蓋が全開に開いているので、奏者の顔はよく見えない。だから、先程からほとんど身じろぎもせずにじっとしているその学生に関しては、黒髪の女子、ということくらいしかわからなかった。砂雷はそれ以上特に何の興味も抱かずに、春先の空気に冷える指先を静かにさする。
初めて彼女に意識を引かれたのは式終盤、合唱部による校歌披露が始まってからだった。そうだ、合唱部いたなら伴奏できる子もいたんじゃね? 今更のように思い至ったのは砂雷だけではなかったらしく、右横にずらりと並んだ教員の数名が小さく息を呑む気配を感じた。しかしどのみち後の祭りである。まあ、うちの合唱部人数少ないし、結果オーライだったんじゃないかなとぼんやり思った砂雷の耳に、聴き慣れているはずの校歌の前奏が届く。そう。聴き慣れているはずの。午前中の始業式でも聴き流したはずの。一度聴いたら忘れてしまいそうな、というか実際忘れてしまう、校歌のテンプレをひたすらなぞったような印象皆無のメロディ。
その旋律が何故だろう、先程窓辺を横切った、春空を流れる桜の花びらを砂雷に思い起こさせる。
砂雷は音楽というものに疎い。好きなアーティストもいないし、クラシックやピアノなど以ての外である。興味が無い。親しむべき音楽というものを、今までの人生で得たことがない。その砂雷の中を、何の変哲もない校歌の旋律は、まるで胸の中を翔け抜けるように全身を流れる水のすべてに凛と澄み渡るように、溢れていく。生まれて初めての経験だった。つまるところ、音に対する感動、というものなのだろうが、あまりの衝撃に理解がなかなかついてこない。ふと傍らに視線をやると、横並びの教員たちは一様に、古びたピアノの鍵盤を鳴らす彼女へと並々ならぬ眼差しを注いでいた。同じ作用が彼らにも働いているのだと思うと、何故だか少しほっとした。
三番まである校歌を、彼女は初見で弾ききった。ただの棒弾きではない。式場でその音色を耳にしたすべての命の胸を叩いて唄いきった。合唱部の声は、少なくとも砂雷には途中から耳に届いていなかった。流れるようなアレグロが、無数のアルペジオを七色の風のように纏いながら、やがて晴れやかにfin.の文字へと辿り着く。ぱち。うっかり拍手をしかけた保護者がいたらしい。フォルテの余韻がこだまする館内に、不自然なクラップがひとつだけ弾けた。
場にそぐわぬ異様な空気のまま、式は教頭の挨拶と共に閉じた。新入生退場のタイミングで、ピアニストの側に控えていたスピーカー桑谷が、ピアノ椅子に掛けている小さなつむじを誘導する。クラスは運よく、ピアノのある壁際に一番近い一年四組だったらしい。彼女は難なく学生の群れに合流した。だからその横顔を垣間見たのは、ほんのひとときだった。真白の横顔。まるっこいミディアムボブの黒髪が、白い肌とうつむきがちの瞳を隠していて、表情までは窺えない。背丈もそれほど高くない痩身は、一瞬のうちに他の黒髪と混ざって判別が付かなくなった。砂雷は彼女の名前を知らない。それでもギシギシしなるパイプ椅子の上、職員室で室井が呟いたその声を、今更のように思い出した。百を超える新入生名簿の中から、たった一人の名をはじき出したその低い声。
音に、羽。
おとわ。いや、おとは、だろうか。分からないまま砂雷は見送る。大勢の同年代とブラスバンドの舌足らずな行進曲に流されていく音の羽を。やがて鳴り出した拍手に紛れてただ見送る。