2-3
6時間目が終わる頃、お姉ちゃんからメールが届いた。
『ハロー和葉~♪ 今まだ学校? ちょっと頼まれて欲しい事があるんだけど、放課後こっちに来てくれない?』
――お姉ちゃんからメールなんて、珍しい。
今日は特にやるべき事も無く、健全に真っ直ぐ家に帰る予定だったので、別にいいよ、と軽い気持ちでメールを返した。
姉のアパートは、大学の近くとは言っても、実家の最寄駅から二駅程度しか離れていない。だから、行こうと思えばいつでも行ける距離なのだ。流石に、スープは冷めてしまうだろうけど。
放課後のチャイムと共に、学校を出て駅へと向かう。
後で請求しようと思い、私は数少ないお小遣いを電車賃に注ぎ込んだ。電車に乗った後に、歩いて電車賃を請求すればよかったと言う狡い考えも浮かんだが、乗ってしまったものは仕方が無いし、帰り道にそれをやるのは流石にだるい。
改札を潜り、駅を出てすぐの道を右に入る。そのまま住宅街を抜ければ、すぐに『サンシャイン』と言う古びた看板が目に飛び込んでくる。このアパートの一室が、姉の城となっている。
階段を上り、202号室の部屋のチャイムを鳴らす。
奥から足音が響き、すぐにドアの向こうから姉が顔を出した。
「ん、いらっしゃい」
「何? 頼み事って」
「ま、とりあえず入りなよ」
手招きを受け入れ、私は遠慮せず部屋の中へと入り込んだ。
1DKの室内は、簡素ではあるが片付いていて小ざっぱりとしていた。
「適当なとこ座って。和葉コーヒーって飲めたっけ?」
「飲めるよ」
「そっか、苦いって言って嫌がってた記憶があったんだけどな」
「もう高校生なんだから、コーヒー位飲めるよ!」
私は抗議をしながら、大きめのクッションに腰を下ろした。目の前のテーブルをベシベシと叩いて見せたりもした。いや、実際には姉には見えていないのだが……。
キッチンから笑い声が聞こえてくる。
「ごめんごめん。そうだね、和葉もいつの間にか、大きくなっちゃってるんだもんね~」
「お姉ちゃん、なんかオバンくさくなったね」
キッチンからコーヒーカップを二つ持って出てきた姉は、私の手元に一つを置き、もう一つを啜りながら私と向かい合わせに座った。
私は黒い液体を眺めながら、姉に向かって声をかける。
「お姉ちゃん、砂糖とミルクは?」
「あんた、やっぱりコーヒー飲めないんでしょ?」
「そんな事無いよ! でも、ブラックは美味しくないじゃん!」
「ブラック以外を、私はコーヒーと認めてないの」
「えぇ~」
私の抗議にくすりと笑った姉は、一つずつでいい? と聞いて、キッチンに引っ込んだ。
その声に私は、砂糖は二つがいい、と主張する。
そんなのコーヒーじゃないじゃない、と姉は笑いながら、スティックシュガーを二つと、カップのミルクを持ってきてくれた。
「コーヒーだよ。そんな事言ったら、このコーヒーに失礼だよ」
「色々入れるのは失礼じゃないんだ?」
「失礼じゃないよ。それより、頼まれ事って何?」
コーヒーの話題で盛り上がっている場合では無い。私は今日は9時までに帰って、連ドラの第2話を見なければいけないのだ。実の兄が姉となり帰ってきたと言う衝撃の第1話で始まったそれは、今週見逃すと絶対に道子達との話題に入っていけない。
「そうそう、あんたさ、音楽って興味ある?」
「音楽?」
「そうそう、ロック。まぁ、ライブとか、どう?」
「うん、カッコいいとは思うけど、何で?」
「いや、まぁ話は簡単なんだよ。彼がさ、今度の日曜日にライブやるんだけど、チケットがまだ随分余ってるんだよね。まぁ、人数合わせって訳じゃないけど、良かったら来てくれないかなって思って。で、彼の音楽を聴いてほしい訳よ」
どうかな? と言う言葉で締めくくった姉の言葉には、何かしらの裏がある気がしてならなかった。
「本当にそれだけ? そんなんだったら、メールだけでもいいじゃん」
そう言うと、姉はこちらにニヤリと言うか、ニマっと言うか、何と形容するべきか迷うが、狡い事を考え付いた時に誤魔化すような、そんな顔を見せた。
姉がこの顔を作る時、昔から私は何かの共犯者に仕立て上げられるのだ。
「実はね、ちょっとこの部屋を見て欲しいんだけどさ」
そう言われ、私は部屋の中をぐるりと見渡す。
壁の本棚には小説や漫画の他に、勿論大学の参考書なんかも置いてある。その隣のCDラックには、ロックやジャズやクラシックや、とにかく色んなジャンルのCDが隙間なく詰められている。ベッドの枕元には、姉が大学に合格した際に私がプレゼントした、強力な音が鳴る目覚まし時計。そして、目覚まし時計の足元には、枕が二つ並べてあった。
――ん? 枕が二つ?
私はまるで、もう完全に目が合ってしまっている幽霊の存在が、私の幻覚であって欲しいと願うかのように、恐る恐る、姉に尋ねてみた。
「お姉ちゃん、もしかして、もう彼氏と一緒に住んでたりするの?」
私の問い掛けに対し姉は、それは貴方の幻覚では無いのよ、とでも言うように、ふふふと静かに笑った。
「和葉ちゃんはとっても察しが良くて賢いから、お姉ちゃん助かるわ」
「……これさ~、お母さん達は勿論知ってるんだよね?」
「言える訳無いじゃない」
――これか!?
枯れ尾花の、正体見たり、姉の秘密、字余り。
「ちょっと待ってお姉ちゃん、私、こう言うの見て見ぬふりとか上手く出来ないよ。嘘とかすぐバレるもん!」
「そこまで期待してないし、別に見て見ぬふり何かしなくていいのよ。ただ、もし何かあった時、例えば、ばれそうになったりした時とか、何かあったら、上手くフォローしておいて欲しいのよ」
――つまりあれだ、お姉ちゃんは私をスパイとして囲みたいと、こういう訳だ。
「つまりあれだね、お姉ちゃんは私をスパイとして囲みたいと、こういう訳だね?」
思った言葉をそのまま姉にぶつけると、姉は喜色満面で膝を打った。
「えぇ~、何かめんどいし~、自信無いし~」
「いいじゃない。それにね、仁さんの作る音楽本当に格好いいんだよ? だから、スパイとかは抜きにしても、和葉には聞いて欲しいんだ」
そう言ってから、両手を合わせて、お願い、私の味方になって、と懇願する。
姉は、昔からずるい。
こうやって頼まれたら、私が断れないのを知ってる上で、こうやって頼むんだから……。
そして私は、昔から何度も呟いて来た言葉をまた呟いていた。
「しょうがないなぁ。でも、もしバレたとしても、私は責任負わないからね」
「ありがとう、和葉大好き」
そう言って抱きついて来る姉は、先程私の事を子供扱いしたにも関わらず、相当ガキっぽい。
「ねぇ、仁さんって、彼氏の名前?」
「そう、灰沢仁さん。後1時間くらいしたら帰ってくるけど、会ってく?」
「いや、いいよ。見たいドラマあるし」
「ここで見てけばいいじゃない」
「いいったら。それに、いきなり彼氏紹介されるのも、何となく、気まずいし……」
私の言葉に、そっか、それもそうよね、と呟いた姉は、あっさり私を解放すると、それじゃとりあえず、と言って、私にチケットを2枚手渡した。
「2枚?」
道子と紗絵を誘うなら足りないし、一人で行くには多い。
「誰か男の子とおいでよ」
「男の子って……」
「和葉ももう高校生でしょ? 好きな人の一人や二人いないの?」
「二人もいる程ふしだらな女じゃありません」
「じゃあ、一人はいるの?」
「……残念ながら」
「寂しいわね~。まぁ、とりあえず渡しておくから、誰か連れて来るなら連れておいで。あ、それとね、高校生だって分かるような格好は駄目だからね。大人っぽい服で来ること」
「大人っぽい服ねぇ……」
どちらかと言えば可愛らしい感じの服が好みの私としては、大人っぽい感じの服と言われて、自分の洋服ダンスの中を脳内で捜索してみたが、しっくりくるものは見当たらない。
「そんなん無いよ。お姉ちゃん新しい服買ってよ?」
「え~? 流石にそこまで余裕は無いわよ。まぁ、いざとなったら、私の貸してあげるからさ」
「分かった、まぁ、楽しみにしておくよ」
そんなやり取りを済ませ、姉から交通費を遠慮無く頂戴した後、私は姉のアパートを後にした。
鞄の中には、日曜日のライブのチケットが2枚。
男の子を誘えと言われても、そんな誘えるような人なんて……。
そう考えた次の瞬間、こちらにビニール袋を差し出してる大藤君の顔が脳裏をよぎった。
「……えぇ~」
思わず深いため息が零れ、その場に膝を付きそうになった。
確かにいつもヘッドホンを付けている位だから、音楽が嫌いな訳では無いのかもしれない。だけれども、彼がいつも聞いているのは音楽では無く、静かな潮騒の音で在る事が今日判明した。姉の彼氏の奏でる曲がどんな物かは分からないが、ロックだと言っていたからには、大人しめのと言う事は無いだろう。もしかしたら、そう言う激しめの音楽は、どちらかと言えば苦手な部類かもしれない。
それより何より、誘えるような相手と言われて真っ先に彼の顔が出てくる程、交友関係の少ない自分に愕然とした方が大きい。
おまけに言えば、クリームパン一つであのシーンを思い浮かべたのかもしれない、お値段のお得な自分にほとほとがっかりしたと言うのもある。
更に言うとするなら、誠に失礼な話ではあるのだけれど、私が大藤君の存在をしっかりと認識したのは、二学期も半分以上経過してしまっている、ついこの間の事だ。いや、だからこそ印象に強く残っているのかもしれないが、だとしてもだ、だったとしてもだ……。
大藤君をライブに誘わなくてもいい理由を色々探してみるが、決定的と言える程、嫌だ、無理だ、絶対にお断りだ、と言う理由は出てこなかった。
現実問題として姉に渡されたチケットは、一枚でも三枚でも無く二枚である訳だし、先日は転んで怪我をしてしまいそうな所を助けて貰った恩義もあるし、お礼にライブのチケットがあるんだけどどうかな、と言う流れはとても自然に思える。それに、今まで話した事が無かっただけで、話してみると意外と仲良くなれるかもしれない。
思考の方向を、前へ前へと意識的に切り替えていく事で、漸く思考のループから抜け出す事が出来そうだった。
――それにまぁ実際、他に誰か目ぼしい人がいる訳でも無いし、誰も居なかったら、誘ってみるだけ誘ってみようかな……。
どうやって誘うかはまた明日考えればいいし、誘えなければ誘えなかったで、別にいいだろう。そう気楽に考える事にした。
不意に浮かんできたニヤニヤ顔の道子と、しかめっ面の紗絵を頭の中から追い出す為、私は駅への道を軽く走って帰る事にした。
そして、翌日。
私の財布の中には、昨日姉から頂戴したライブのチケットが挟まっている。
人間と言う物は意識をし始めると、もうどうにも止まらないものなのだと言う事が身に沁みて分かった。
昨夜私は7時前に家に帰り着いた。軽く走った為に少しだけ汗をかいたので、8時には入浴も済ませた。母が既に用意していた夕食も、無事に8時40分には食べ終えて、準備万端の状態で9時にはテレビの前に座り、ドラマにチャンネルを合わせ、クッションを抱き締めながら行儀良く視聴を開始した。
にも関わらずだ!
私はドラマの内容を全く覚えていないまま10時を迎えてしまう事と相成った!
チケットと姉と大藤君が次々と頭に浮かんできて、これでもかと言う程に気が散りまくってしまい、ドラマどころの騒ぎでは無かったのである。
考え過ぎて妙に疲れた為か、ドラマが終わると早めに床に着いた。睡眠に影響しなかったのは幸いだったが、学校に向かっている最中も、私の心臓は意味不明の高鳴りを見せていた。
――何これ、ありえない!
どうしてこんなにドキドキしているのだろうかと自分に問うても、返ってくるのはおよそ納得の出来る筈の無い結論ばかりだった。
男の子をライブに誘うと言っても、相手はあの大藤君だ。別に深い仲でも無いし、雑な言い方を許して貰えるなら大した相手でも無い。つまり、全く意識をするような相手では無い筈なのだ。それなのに、胸の高鳴りは収まらないし、体温は高めの様な気がするし、変な汗をかいている気さえする。
――何これ、ありえない! 本当にありえない!
自分の男の子に対する免疫の無さを信じたく無い一心で、頭の中を『ありえない』の単語で占めつくす。
勿論これには、当然揺るぐ事の無い至極全うな理由がある。
――だって、ありえないんだもの! それ以上でも以下でもないんだもの!
もう自分でも訳が分からない事を自覚している所為か、断られても何でもいいから、さっさと楽になりたかった。
……だけれでも、そんな半ば熱暴走気味の私の頭も心も身体も、帰りのHRが終わる頃にはすっかり落ち着きを取り戻していた。
理由は至極単純。
大藤君がこの日、学校に姿を見せなかったからだ。
一時間目の古文の授業が始まっても、教室の真ん中には主の不在に健気に耐える椅子と机が、ぽつねんと佇んでいるだけである。朝のHR後暫くの間は、遅刻してるのかもしないと身構えてもいたが、2時間目の授業が終わった頃には、今日はもう来ないんだろうなと、ぼんやりと思うようになっていた。
――今日、大藤君休みかぁ……。
その事実をしっかりと受け止めるだけの事に、3時間目の途中までかかってしまった。昨夜からかなり意気込んでしまっていたからだろうか、あんなにドキドキしていたのに何で今日休みなんだと思わず大藤君に憤りそうにもなったが、それは随分と勝手な事だと思い直し、考えを改める事にした。
――でもまぁ、逆に良かったかもしれないなぁ。鼻息荒くなってもみっともないしね。まだ日はあるし、別に無理する事でも無いし。そう言えば、別に大藤君である必要も無いんだった。
とは言え大藤君以外の男子を誘える気も全くしないんだけどね、と言う意気地無しの心の声には固く目を瞑って貰い、徒労の限りを尽くした昨夜からの自分に、そんな慰めの言葉をかけた。
だけど私は、週末のライブには結局、一人で足を運ぶ事になる。
何故ならこの日以来、大藤君はただの一度も、学校に顔を出す事がなかったからだ……。