9-3
『ふんふん、成程ね。それで、紗絵ちゃんが珍しく気落ちしてるって事か~』
帰宅後、どうしても心の靄を払い切れなかった私は、まるで助けを求めるように、順哉さんに電話を掛けた。
一通り事情を説明したのだが、私の思いとは裏腹に、携帯の向こう側の順哉さんは、随分と楽しそうな口ぶりである。
「事か~、じゃないですよ~。紗絵があんなに凹んでるのなんて初めて見たし、何とか、不自然にならないように元気づけてあげて貰えませんか?」
『ん~、上手く出来るかは分からないけどね、とりあえず、後で一本メール打っておくよ』
「お願いします」
『それより、普段クール気取ってる癖に、熱くなると暴走しちゃうなんて、紗絵ちゃんも随分可愛いとこあるんだね』
「それは是非本人に言ってあげて下さい。きっと喜びますよ」
『え~? 紗絵ちゃんに、可愛いって言って喜ぶかな~?』
「喜ぶに決まってるじゃないですか、紗絵だって女の子なんですよ。口では何言ってても、可愛いって言われて、喜ばない女の子はいません」
どんなに表面とのキャラが違っていても、可愛いと形容されたり、女の子扱いされたりして、心の底から嫌がる女の子なんて、ほぼ皆無と言っていい。この辺りを理解していない男の子が世の中には多過ぎる。誠に遺憾である。
ましてや相手は紗絵なのだ。順哉さんに言われたら、嬉しいに決まってるじゃないか、と言う言葉は、後々の紗絵の名誉の為にも、私の口からは控えておく事にする。
『それもそっか。そんじゃ、和葉ちゃんの期待に添えられるように、何とか頑張ってみますか』
「よろしくお願いします」
電話口から祈りの電波を送り込み、携帯を切る。
「……はぁ~あ~」
身体をうんと伸ばし、溜息を思いっきり吐きながらベッドに倒れ込んだ。そのまま、枕を抱え込んでベッドの上で丸くなる。
紗絵の落ちた気を持ちあげられるよう、私なりに色々考えてみたのだが、結局順哉さんに協力を要請する事しか思いつかなかった。
他人任せになってしまい非常に申し訳無いが、順哉さんが上手くやってくれる事を切に願う。
それと同時に、何も出来ない不甲斐無い自分にますます溜息が出る。
沈んだ気持ちを紛らわせる為、買って来た文庫本に手を伸ばし、ゆっくりとページを繰ってみる事にする。だけれども、文章を流して読む事は出来ても、内容はさっぱり頭に入ってはこなかった。
「和葉~、ご飯出来たわよ~」
「は~い! 今行く~」
階下から聞こえて来た母の呼び声に返事をする。
読み始めた文庫本は栞を挟まずに閉じ、携帯だけを持って居間へと向かった。
階段の途中から、母お手製のクリームシチューの匂いが鼻を擽り始めた。その匂いだけで、胃袋が元気に活動を始める。先程まで気落ちしていたと言うのに、身体は旺盛に栄養を求めているなんて、我ながら現金なものである。
食卓につき、まろやかなシチューに舌鼓を打っている最中、携帯がメールの受信を知らせて来た。
送り主は、鈴原紗絵。
『うい~っす、心配かけた、ごめん。とりあえず腹決めた。明日から動き始めるから、和葉も放課後付き合う事、いい?』
いつも通りの紗絵の口調を文字にしたような文章に、ホッと胸を撫で下ろす。
すぐに返信をしようとした所で、母に窘められる。
「行儀悪い。ご飯食べてからにしなさい」
真っ当な正論を半分だけ聞き、私は大急ぎで――残念ながら私なりの大急ぎになってしまうのだが――それでも大急ぎでクリームシチューを平らげ、部屋へと引き上げた。
『うん、放課後は大丈夫。ところで私は何をすればいい?』
メールに文章を打ち込み、送信を押す前に、ふと手が止まる。
――何をすればいい、か……。
受け身な態度では、紗絵の力になれるか分からない。なので、メールの終わりを少しだけ変える。
『私は何をしたらいい? 何でも言って』
思案するが、情けない事に今の段階で自分に何が出来るのか分からない。受け身には変わらないのだが、少しだけ積極的な文章に変え、送信ボタンを押した。
5分程して、紗絵から返信が届く。
『あ~、ってか何をしたらいいのか私もよく分かってない。とりあえず、何人か頼りになりそうな奴らに声掛けておこうと思う。とりあえず、和葉は私の隣に居て。和葉の役割としては、一先ず私の癒し担当大臣だから(笑)』
――癒し担当?
肩でも揉ませられるのかと考えるが、その程度でいいならいくらでも、喜んで揉ませて頂こう。
そんな事を考えていると、紗絵から更にもう一通メールが届いた。
『そうそう、やるからには、本気出すから。そのつもりで宜しく! んじゃ、おやすみ~』
どうやら我が親友のジャンヌダルクは、戦乙女としてさらなる闘志を燃やしたようだ。
順哉さんのおかげだろうか?
英気を養う為に早めに休んだのだろう紗絵の元へ、野暮な返信を飛ばす事はせずに、一先ず、紗絵が持ち直しましたと言う内容のメールを順哉さんに打つ。
「順哉さん、とりあえず、紗絵が峠を越したみたいです、ありがとうございました。どんなメールを打ってくれたんですか、ハテナ……、と」
口に出して文章を確認している最中、一件の新着メールが届いた。
受信ボックスを開くが、そこに表示されているのは、見た事の無いアドレス。
――スパムメールかな?
何の気無しに開くと、煌びやかな絵文字がふんだんに散りばめられた、非常に可愛らしいメールが姿を現した。
『和葉ちゃん、メールでは初めましてだね。理音で~す。みっちゃんからアドレスを聞いちゃったので、早速送っちゃいました。さっきは急に帰っちゃってごめんなさい。ピアノのお稽古の時間だったの。せっかくお友達になれたので、これからも仲良くしてね。ばいば~い』
マッハのスピードで訪れた現実の不意打ちに、思考がさっぱり追いつかない。
理音って、笹村理音さん?!
どうしていきなりメールが来るの!
何この可愛いメール! こんな絵文字、どこでダウンロードしてるの!
ってか、彼女的には、私にさっき初めて会ったのに、メールって!
道子から聞いたって、何その行動力!
あのちょっとの会話だけでお友達って、この子何者よ!
それより何、ピアノのお稽古って!
「しずかちゃんじゃ無いんだから!」
思考に言語中枢が追いついたのだろうか、最後は思わず叫んでいた。
――えーっ……、どういう事?
今まで得ていた彼女に関しての情報を、頭の中の検索エンジンに掛ける。
天然。
その単語が検索に引っ掛かった瞬間、私は思わずもう一度ベッドに倒れ込んでいた。
「え~、天然ってそう言う意味~?」
彼女への返信は横に追いやり、勢いで道子に電話を掛ける。
『はい、どうしたの?』
「道子、今、あの、笹村さんからメール来たんだけど」
『ああ、あんたらさっき本屋で会ったんだってね。知りたいって言うから』
「ホイホイ簡単に個人情報流さないでよ~」
『別に隠すようなもんでも無いでしょ』
「でもさ~」
『別にいいじゃない。理音、ちょっとバカだけど、そんなに悪い子じゃないよ?』
「うぅ~……」
『別に大藤の事がばれた訳でも無いんだし、敵を知っておくのも重要じゃない?』
「道子、あんた絶対面白がってるでしょ?」
『半分はね』
「もう半分は?」
『ん~、これは怒られるかもしれないんだけど、ライバルいた方が、もしかしたら和葉にとってもいいのかもしれないな~って……』
「何それ? どういう意味?」
『いや、まぁ、大藤との進展的な意味でよ……』
道子の言葉に、思わず深く溜息が出た。
その溜息は電話口に吐き、しっかりと道子の鼓膜を揺らしてやる。
『怒った?』
「別に~、怒って無いよ~」
本当のところ、ちょっとムカついたのだが、この程度なら怒った内には入らないと強引に論理を組み立てる。
『それより、和葉にも、紗絵からのメール届いた?』
「ああ、うん、来た来た。ちょっと安心したよ」
『言ったでしょ? あいつは責任感強いから大丈夫だって』
ほれ見なさいと言うような道子の言葉が、何だか紗絵を信じきる事が出来なかった自分を暗に責められているような気がして、少しだけ、心がくすむのを感じた。
『そんじゃ、理音にはちゃんと返信してあげてね。また明日~』
「え? ちょっと、道子!」
言うが早いか、道子は逃げるように通話を切ってしまった。
取り残され私の鼓膜に、コール音が空しく響く。
――返信って……。
その後、私は一時間程もあれこれ思案してから、一通のメールを笹村理音宛てに送った。
『理音、メールありがとう、びっくりしました。これからも宜しくね』
たったこれだけのメールに、一時間もかかったなんて、どうかしてるとしか思えない。
幸いこの日、彼女から返信の返信が来る事は無かった。