5-4
電車から降りた時、辺りはもうすっかり夕陽の海に沈んでいた。
帰路の途中、商店街の電灯が訪れる闇に備え一斉に仕事を開始する。まるで指揮棒に合わせたように一斉に輝いた灯りの下で、私は自身の心の中にも、ぼんやりと闇が沁み込んで来るのを感じていた。
商店街を抜け、あの日の公園を一瞥して、そのまま家へと向かう。
「ただいま」
申し訳程度にそう声を掛け、家の中へと入る。
「あら、お帰り」
台所から顔を覗かせた母が、愛想を振りまいてくれた。
「ご飯の支度まだなのよ。ちょっと待っててね」
「うん。ねぇ、お姉ちゃんは?」
「さぁ、部屋にいるんじゃない?」
母の言葉は素っ気無かった。
靴を脱いで、私は一度台所へと向かった。冷蔵庫から麦茶を飲む、と言う建前をこなしながら、母に声を掛ける。
「ねぇ、お母さん。お姉ちゃん、どうして急に帰ってきたんだと思う?」
「何よ、まるでお姉ちゃんが帰って来たのが嫌みたいね?」
「そうじゃないよ。だけど、何でいきなり帰ってきたのかなって……。お母さん、何か聞いてない?」
ガラスのコップを一つ棚から出し、麦茶を注ぎながら会話を続ける。
母はまな板の上でほうれん草を切りながら、そうねぇ、何て呟く。
「彼氏と何かあって、一人になるのが嫌になったとか?」
その言葉に、私は息を詰まらせた。もし麦茶を口に含んでいたなら、間違いなく母の顔目がけて吹き出してしまっていただろう。
「彼氏?」
「そりゃ、お父さんは色々言うかもしれないけど、あの子ももういい歳なんだから、彼氏の一人や二人、いてもおかしくないでしょ?」
その言葉を聞き、母と姉に確かな血脈を感じた。
「私がお父さんと知り合ったのも、久喜子位の時だったしね」
「両親の惚気話とか、聞きたくないんだけど……」
母はそこで、切ったほうれん草を鍋に移し、空いたまな板の上で今度は玉ねぎを切り出した。
「お母さんは寧ろ、和葉の方が心配だわ」
わざとらしく言う母に、何がよ、と反論する。
「あんたは昔っから、お姉ちゃんとは違って引っ込み思案だから、そんなんじゃやっていけないんじゃないかって」
「余計なお世話です」
私はコップの中の麦茶を飲み干し、水道水で軽く濯いだ。それを洗い物桶に戻した時に、本当そういうとこはお父さんそっくり、と母が笑った。
姉は母似、私は父似。
自覚は全く無いが、小さい頃からよく言われてきた。
「まぁいいや、お姉ちゃん部屋にいるのよね。ちょっと行ってくる」
そう言って台所を出る前に、母に今夜のメニューを聞いた。
「今日はほうれん草のシチューよ」
姉の好物の名前が返って来た。
階段を上ると、微かにバンドサウンドが聞こえてきた。その音を耳の端っこで捉えながら、私は一度深呼吸をしてから、姉の部屋のドアをノックした。
「どうぞ~」
軽い姉の声を聞き流し、ドアを開けて室内に入る。
姉は既にパジャマ姿で、机に向かって何か書きものをしていた。
「おかえり」
こちらを見ずに、姉は言葉だけをこちらに放る。
「ただいま」
私は姉のベッドに腰掛け、そのまま倒れて天井を仰いだ。長い間使っていなかった姉のベッドは、少しだけ埃っぽかった。
「どこ行ってたの?」
その問いに、私は正直に答えた。
「順哉さんのところ」
そう呟いた私の声に対し、姉がこちらに顔を向ける気配を感じた。
「はぁ?」
「だから、順哉さんのバイト先」
「何、あんた玲央君じゃなくて、順哉君狙いなの?」
「ちがーう!!」
私は寝転がっていた身体を起こし、その言葉を全力で否定した。
「お姉ちゃん、まずね、そもそも私が玲央君を狙っているっていう前提がおかしいからね!」
そう喚いてはみたが、目の前の姉の顔が存外真剣だった為、私はそこで言葉を詰まらせてしまった。
枕元にあったクッションを手元に抱きよせる。
「んで、何か聞いて来たんだ……」
そう言いながら、姉は再び机に向き直ってしまった。
背中に向けて声を飛ばす。
「お姉ちゃん」
「ん~?」
「私、お姉ちゃんに一つ、嘘吐いてたんだ」
「玲央君には会ってないって事?」
姉の即答に、私は絶句する。だが、よくよく考えれば、姉がそれを知っていたとしても、何ら不思議では無かった。
結局、何も知らないのは、私だけだったのだ……。
「知ってたんだ……」
「まぁね」
姉の声のトーンは軽い。それが、まるでこちらの真剣さを弄ばれている気がして、私は少し腹が立った。
「んで、何聞いて来たのよ?」
「……スティグマは、もうライブしないのか、って……」
「ふ~ん、んで、順哉君は何て言ったの?」
「今は……、難しいんじゃないかなって……」
「はっきりしない言い方されたね。あんたそれで納得したの?」
首を横に振る。だが、その姿は姉に見えていない事に気づき、すぐに、ううんと声で否定を表した。
「まぁ、そうだよね。私だって色々納得出来てないんだもん。よく知りもしないあんたが、はいそうですかって訳にはいかないよね」
「よく知りもしないって……、教えてくれなかったのはお姉ちゃんじゃない!」
思わず語気が荒くなる。
だが、私の意志とは関係なく、その声音には、少なからず水気が多く含まれてしまった。
そこで姉は椅子から立ち上がり、振り向いてこちらへ歩いてきた。そのまま、私の隣へと座る。
「ん~、ごめんね」
姉は悪びれもせずに、先程の私と同じようにベッドに横になりながら、心にも無い謝罪をした。
「あんたにはさ、こういう汚い裏側を知らないで、純粋にスティグマの曲のファンでいて欲しかったんだよね~」
軽い口調でそんな事を呟きながら、身体を起こし、私の頭を撫でる。そのまま枕元にあるティッシュに手を伸ばし、それを私の顔に押し当てた。
大人しく受け取り、私は流れ続ける涙を堰き止める。
「……あんた、玲央君の事、好き?」
姉の突然の質問に、私は一瞬思考が止まる。
「……分かんない」
思わず零れたその言葉は、紛れも無く私の素直な気持ちだった。
「……玲央君の歌は?」
「大好き」
即答した。
「そっか……」
私の返事を聞き、姉は何度か頷いてから、実はね、と言葉を繋げた。
「昨日ね、仁さんと話がしたいって言って、玲央君が家に来たのよ。玲央君はもっと、音楽のクオリティを高めたいって、だけど仁さんは、今は新しい曲を作る方に専念するって言い切ったのね。それを聞いてさ、私がキレちゃったのよ……」
「お姉ちゃんは、スティグマを売れるようにしたいの?」
「それは、順哉君が?」
私は頷く。
「そっか……、うん、そうね……。今、落ち着いて考えれば、仁さんの言い分もよく分かるのよ。だけど、仁さんって、言い方が少し荒っぽくってね、俺はいい曲作ってんだから、お前らの努力が足りねぇんだ、みたいな感じ。それ聞いてさ、私は、玲央君が真剣にバンドの事を考えて言ってくれてるのに、そんな事じゃ駄目だろ~、みたいな感じでね、もう大喧嘩しそうになった……」
姉の言葉が引っ掛かる。
「しそうになった?」
「うん。玲央君が、私達の間に入ってくれて、その時、仁さんが勢いよく押し過ぎちゃって、玲央君、テーブルに頭打っちゃってさ……」
姉の言葉に、血の気が引いていく。
「何それ……、どうしたの?」
「玲央君は大丈夫って言ったんだけど、血も少し出てるからとりあえずすぐに病院に連れてった。そこで喧嘩はうやむやになって、私は玲央君に付き添って病院に行った」
「玲央君は?」
「うん、検査したら特に問題は無かったから、昨日の内に帰ったわ。私は、暫くネカフェで時間つぶしてたんだけど、仁さんの顔見るのがなんか辛くて、隙を見て荷物持って、今ここって訳……」
「そう……」
あまりの事に頭が追いつかない。
「玲央君ね、自分の歌を好きだって言ってくれる人がいる、下手なもの聞かせられないって、仁さんに言ったの」
その言葉を聞いた途端、私の頭にあの日の玲央君の、哀しそうな顔が再びフラッシュバックする。
「お姉ちゃん、それ私の所為だ……」
「和葉?」
「私が、考えもしないで、玲央君に……、私、私……」
心の根っこが、暗く強い、濁流のような感情に押し流されそうになる。
私の言葉を押し留めるように、姉が私の頭を抱き締めた。
「そういう考えは止めな。仕方なかったの、仕方なかったんだよ……、あんたのせいじゃない」
姉はそう呟きながら、より一層私を抱く手に力を込めた。
――きっと、お姉ちゃんも責任を感じているんだ。
だから、自分にも言い聞かせるように、そんな事を呟くのだろう。
その時、ポケットに入れていた携帯が歌い始めた。
届いたメールを確認すると、その差出人の名前で再び涙が零れた。
『大藤 玲央』
「お姉ちゃん、玲央君から、メール来た」
姉の目が微かに開く。
「何だって?」
「うん」
メールを確認すると、簡素な一文が書かれていた。
『いいよ。いつなら空いてる?』
その文章を読み、私はすぐさま玲央君に電話をかけた。
『もしもし?』
透き通った声が鼓膜を揺らす。
「玲央君?」
『そうだけど?』
「今から、会えない?」
『今?』
「うん」
『別に、いいけど、お前今どこ?』
「家。玲央君は?」
『家。じゃあ、この間の公園でいい?』
玲央君の言葉に、彼の怪我の事を思ったが、出歩けると言う事を知り、少しだけ心が軽くなった。
「うん、じゃあ、30分後で大丈夫?」
『分かった。じゃあ……』
切れた電話を暫し眺めてから、私は姉の顔を見た。
「ちょっと、出てくるから……」
「うん、玲央君の事、よろしくね」
「……何にも、出来ないかもしれないよ?」
「何にもしなくていいの。いいから、気を付けて行っておいで」
「……うん」
落ち着かない気持ちを携えたまま、私はすぐに公園へと向かう事にした。
夜風は、少しは私の心を冷ましてくれるだろうか?