高橋君
謝るとは決めたのだが、一体どうやって謝ればいいのだろうか。
教室でさり気なく『昨日はありがとう』と言えばいいのだろうか。だが、それを人前で言う自信が瀬奈にはない。
それに、もしかしたら向こうは自分と仲良くしている場面を見られたくないかもしれない。だったら、二人きりの時の方がいいだろうか。
でも、人が多い校舎の中で、どうやったら二人きりになれるのか。
「……どうしよう」
瀬奈以外には誰もいない、シンと静まった広い家の中に独り言が寂しく響く。
とりあえず、今日の夕食を作る為に瀬奈は冷蔵庫を開けた。そこには母親が買ってきた食材が潤沢に揃っている。その中から今日作る献立を考え、必要な物を取り出した。
自分が好きなオムライスでも作ろうかと野菜を細かく切っていく。その最中にも謝罪の方法を考えていたが、結局答えは出ずのままだ。
そしてそのオムライスを一人で食べ進め、食べ終わった時、
「ぁ、そっか」
こういう時に、友達に相談すればいいのか。
やっと、今瀬奈に出来る最良と思える方法が思い浮かんだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「どうやったら相手に嫌な気をさせないでお礼を言えるか?」
「う、うん」
早速翌日の朝、クラスメートの中で一番親密……、と言うより、一番話しかけやすい麻理に瀬奈は相談していた。
麻理は一度相槌を打ち、今は空席の高橋の席に目を向ける。
「へぇ……。まさかあの人がねぇ。ふぅん、まぁ二人とも初々しくてお似合いかもだけど」
「と、轟さん?」
「ああ、ごめん。席隣なんだから、普通に話しかければ? 『昨日はありがとう』って」
「で、でも、迷惑じゃないかな……?」
「何で? お礼言われたら普通嬉しいでしょ」
そうだけど。という言葉は扉を開ける音と重なった。そちらに目を向けると、ちょうど話題となっている彼が教室に入ってきた所だった。
鋭い視線が、瀬奈を射抜く。彼が優しい人だと分かったからか、昨日よりは怖くはない。だが、意識とは無関係に体が若干竦んだ。
彼は、数秒ドアの前からこちらを見つめ、興味を無くしたかようにすいと視線をずらした。
そのまま席に鞄を置き、近くにいたクラスメートと談笑し始める。
「……ど、どうしよう。じゅ、授業前……、いや、いっその事手紙で……」
「ふぅん。ほぉ~」
麻理は慌てる瀬奈を見つめて含み笑いを繰り返す。
何を考えているか分からないその笑みに、瀬奈は泣きそうな声を出した。
「轟さん……。ち、力を貸して、いただけませんか……」
「いいじゃない。放課後に捕まえて言えば。ほら、もうすぐ先生来るよ。席着かないと」
「う、うん……」
麻里に促されて、瀬奈はソロソロと席に着いた。すると、タイミングを見計らったかのように笹木先生が扉を開ける。
一瞬目が合って、微笑まれた気がした。
そして、隣に高橋君が戻ってきた。頬杖をついて、瀬奈の方に顔を向ける。
「昨日」
「ふぇ!?」
「昨日、ちゃんと帰れたか」
瀬奈は、数度まばたきをして、ゆっくりと首を縦に動かした。
「先生が、ちゃんと、送ってくれ、ました」
「そうか……。今日も遅くなるのか?」
無言のまま、今度は横にゆっくり振る。すると、また『そうか』と高橋は言った。
もしかしなくても、これは昨日の事を『ありがとう』と言えるチャンスじゃないだろうか。思い切って、瀬奈は口を開いた。
「あの、昨日は、ありがとう。途中まで、送ってくれ、て」
「……どういたしまして」
ふわりと、笑った。微笑、というに相応しい控え目な笑い方だった。だけど、常に無表情の彼が笑うのは、なんだか新鮮に感じて、ぽやっとした顔で瀬奈は彼を見つめた。
そのまま顔を教卓にいる佐々木先生に戻したので、瀬奈も視線をいつものアングルに戻す。
(話しかけて、くれた。心配して、くれた)
まだドクドク心臓がなっている。火照った頬を冷ますために、両手で頬を押さえた。
(笑いかけて、くれた)
良かった。嫌われる事はなかった。また話しかけたら、聞いてくれるだろうか。笑って、くれるだろうか。下の名前は、なんて名前なんだろう。
その気持ちは、男性に苦手意識を持つ瀬奈にとって劇的な変化だった。
なんだか、全てが順調に進んでいる気がして、怖かった。
嬉しい事があったなら、誰だって上機嫌になる。それは、瀬奈も同じだ。
歌でも歌いたいような気分の瀬奈は、機嫌よく『weiss Katuze』の扉を開けた。
「雅さ--……、ん……」
アーモンド型の瞳が、瀬奈を見据えた。
いつもは雅さんがいるはずの場所に、空也が座っている。彼は退屈気に頬杖をついていたが、瀬奈の姿を見た途端、ガタンと騒がしい音を立てながら立ち上がった。
「お前、なんでここに……!!」
「ご、ごめんなさい……!」
来てはいけなかったのだろうか。反射的に彼に謝りつつ、瀬奈は店内を見渡した。
いつもと同じ店内。だけど、いつもはいるはずの人物がいない。不思議に思った瀬奈は、おずおずと空也に声をかけた。
「ぁ、の、雅さんは……」
「雅なら、買い出し。俺は店番」
空也はそう言って、また雅の定位置の場所に座った。
買い出し。だから、雅さんがいないのか。なら、直に帰ってくるのだろうとホッとした瀬奈に、『こっち座れよ』と空也が投げやりに言った。
「何飲みたいの」
「ぇ、えと、ミルクティーを……」
「茶葉は? ウバでいい?」
「は、い」
瀬奈がたどたどしく言うと、空也はふてくされながらもさっさと湯を沸かし始めた。
「……」
「……」
沈黙が、痛い。
せっかく、今日は良いことがあったのに。とちょっと不機嫌になってしまう。瀬奈は何分か経った後、この沈黙が痛くて思わず空也に声をかけた。
「空也君は、雅さんと、その、付き合い、長い……、んですか」
「……別に。こっちに俺が小6の時引っ越して、それから」
小学校六年生から。つまり、今年で4年目だ。意外と長い。
「お前は? 雅と知り合ったの最近だろ」
「春休みの時に、ここに、誘ってもらって」
「ふぅん」
と、そこでお湯が沸いた。空也は無言で立ち上がり、陶磁器のポットに注ぐ。そしてポットを温め、中の湯を捨て茶葉を入れる。またお湯を勢いよく淹れ、瀬奈の前に置いた。
「ありが、とう。上手、なんだね」
「……別に。雅の見てたら、覚えただけ」
「雅さんが淹れてくれる紅茶、美味しい、よね」
小さく笑って、瀬奈はカウンターに立つ雅の姿を思い出す。
いっそ鮮やかな手付きで紅茶を入れる彼は、本当に素敵だ。ただ紅茶を入れる姿がとても絵になる。
雅の時は、ポットをこちらに置 く事はしない。人数分の紅茶が入ったポットは雅の近くに置かれ、常連さんのティーカップが空になると一言入れてから雅が淹れてくれるのだ。
「……お前、雅の事になると饒舌になるよな」
「え?」
「……お前さ、雅の事--……「ただいま~」」
カランコロン、とドアベルが鳴り響き、雅の声が店内に響いた。
「雅さん!」
「瀬奈ちゃん! 来てたんだね、いらっしゃい」
片手に荷物を持ちつつ、雅は瀬奈に笑いかける。優しいその微笑みに、瀬奈も顔を綻ばせた。
「お買い物、お疲れ様、です」
「ありがとう。空也に店番頼んだんだけど、変な事されなかった?」
「雅、お前なっ!!」
「大丈夫、です。えと、ミルクティー、淹れてもらった、し」
瀬奈の言葉に、空也はギクシャクとその場に座り込む。その様子をニヤニヤと鑑賞した雅は、何を思ったか両手を大きく広げた。
「瀬奈ちゃん!」
「は、はい!」
「キャンプ行こう!!」
「「キャン、プ……?」」
瀬奈と空也の声が重なった。