プロローグ 白く何もない世界で
地の果てより沸き上がった黒雲が、天を流れてゆく。
雷鳴が大気をどよめかせ、青い稲光が漆黒の雲海を切り裂く。
やがて降り注いだのは、灰色の絶望。
その小さき粒が大地に当たって弾けた途端、命が消えた。
青々と茂る草原の草が、黒く聳える壮大な大樹が、栄光と繁栄に彩られた王城が――すべて白く枯れ果てて行く。
惨劇は、居眠りをすれば通り過ぎてしまうような、わずかの間に起きた。
そのあとに残されたのは、何も知らぬように輝く太陽と物悲しげに白光する世界のみ。
生命を失った白い世界は徐々に細かな砂へと還っていき、吠え猛る風がそれを浚っていく。
白い砂塵が舞うその光景は美しく、そしてあまりにも虚無だった。
「何も、何も守れなかった……」
砂漠となり果てた世界の端で、ただ一人滅びを免れた英雄は膝を屈した。戦って戦って、ただひたすらに終末に抗い続けた人生。その中で初めて彼が、心から膝を屈した瞬間であった。
「何が最強の英雄だ。何が神に選ばれた使徒だ! 俺は結局、何もできなかったじゃねえか……」
慟哭した英雄は、大地に拳を振り下ろした。もはや人間のものではない、銀色の輝きを帯びた右腕が視界に飛び込んでくる。
――神の亡骸より産まれた究極の兵器。
――人の魂と同調し、相互の影響を与えあいながら無限に成長する十七の奇蹟。
――滅びゆく人に残された最後の刃にして希望。
今の彼の右腕は、彼が持っていた聖剣が最後に行き着いた姿だった。理論上であれば魂の輪廻から無限の力を引き出し、神すら屠るとされていたそれであったが――圧倒的な滅びの前には無力だった。英雄は自らの聖剣の冠していた仰々しい言葉の数々を思い出し、渇いた笑みを浮かべる。
「聖剣よう、お前は凄いんだろ? 俺の魂に応えてくれるんだろ? だったら、だったら……みんなを元に戻してくれよ! 世界を元に戻してくれよォ!!!!」
断末魔の如き絶叫。
喉を裂かんばかりの雄たけびが、風の音しかしない世界に響き渡った。しかし、右腕の聖剣は沈黙したままで、何も起ることはない。ただただ声ばかりが、滅びた世界を木霊しただけであった。
「クソ、一体何なんだ。なんで俺は、たった一人生き残っちまったんだ。こんなことなら……みんなと死ねれば良かった!」
『それは違う』
風に乗って響いてきた、涼やかなる少女の声。それは英雄にとって、あまりにも懐かしいものであった。彼は熱に浮かされたように立ち上がると、その愛しき名を叫ぶ。
「リーネ! リーネリーネリーネ!! どこだ、どこにいるんだ! 俺に顔を見せてくれ!」
『残念だけど、それはできない。今の私は肉体を持っていない。世界に残された私と言う記憶の残滓、その泡沫のような一欠片にしか過ぎない存在なの』
冷徹なる事実に、再び英雄は打ちのめされる。しかし、少女の声は滔々と流れるように言葉を紡ぎ出す。
『私に与えられた時間は少ない。だから、消えてしまう前にあなたに与えられた最後の使命について話さなくてはならない』
「俺に……まだできることがあるのか?」
『あなたたち十七人の使徒は、世界の滅びと引き換えに堕神を封印した。けれど、封印はいずれ溶けてしまうの。あなたに与えられた最後の使命は、遥か時の彼方に転生し、今度こそ堕神を倒すことよ。時を超えるための力は、私が持っている』
どこからか淡い光が、英雄の身体を包みこんだ。陽光よりもさらに暖かな黄金色の光。それに包まれながら、英雄は叫ぶ。
「戻すなら過去にしてくれ! 今の俺なら、間違いなく勝てる! みんなを守れる!!」
『それはできない。世界に可逆性はない、ただ前に進むことしかできないの。私の力は時計の針を推し進めるだけで、逆に戻すものではないわ』
「そんな……」
『大丈夫。世界が滅びから再生するように、魂も巡る。私とあなたは来世できっと――また会えるから』
リーネの最期の声が響いた瞬間、英雄の姿が消えた。彼が居なくなった後には、風が啼く白い砂漠だけが残された。
終末から数えるのも愚かしいほどの時が過ぎた頃。
世界は悠久の年月をかけて再生し、人はふたたび繁栄の時を迎えた。ただし今代の人々は魔法の理を解さず、科学の理のみを解していた。魔法は世界の闇へと呑みこまれ、埃を被った古の記憶となり果てたのである。
そんな折、ある王国の片田舎で一人の男が生を受けた。今は亡き魔法文明の遺産を右腕に宿した、英雄が蘇ったのだ――。