声なき番
その子が最初に泣いた夜、屋敷の窓硝子がすべて割れた。
嵐の夜ではなかった。
風は穏やかで、月は薄雲の向こうにかかっていた。産声を待っていた者たちは、ようやく聞こえた赤子の声に安堵するはずだった。だが、その声が空気を震わせた瞬間、寝室の窓が内側から弾けた。
硝子片が燭台の火を散らし、壁に飾られていた肖像画が床へ落ちた。銀の水差しが歪み、天蓋の支柱に細かな亀裂が走った。産婆は悲鳴を上げ、乳母は赤子を抱こうとして手を止めた。
泣き声は二度目に高くなった。
今度は隣室の花瓶が砕けた。
母は血の気の失せた顔で寝台に横たわり、父は入口で立ち尽くしていた。誰かが「奥様をお守りして」と叫び、別の誰かが「赤子を黙らせろ」と言った。だが、誰も赤子に近づかなかった。
赤子は泣いていた。
ただ、産まれたばかりの子が泣くように泣いていた。
その喉元には、淡い銀緑の印があった。
羽根のようにも、蔦のようにも、花冠のようにも見える小さな紋様だった。産湯で濡れた肌に、月明かりを集めたように浮かんでいた。
本来なら、それを見た時点で王宮へ届け出なければならなかった。
この国には、妖精印報告令がある。
妖精の王の番となる者には、生まれながらに印が現れる。その印が人族に現れることは、国にとって最大級の吉兆とされていた。妖精の森との盟約は強まり、薬草や魔石の供給は安定し、豊穣の加護が領土を満たす。魔物は国境から遠ざかり、疫病の年には妖精の露が王都へ届けられる。
だから、印を持つ子は国が保護する。
王宮の妖精庁が専門の調査官を送り、神官と魔道士が印を確かめる。番である可能性が認められれば、その子は家から奪われるのではなく、家ごと守られる。声に力が宿るなら、その扱い方を教えられる。力が暴れるなら、抑え込むのではなく、傷つかずに生きる方法を学ばされる。
それが、国の決まりだった。
だが、その夜、誰も印を見なかった。
正確には、誰も見ようとしなかった。
泣き声が物を壊した。ならば泣かせてはいけない。泣かせないためには刺激してはいけない。抱き上げるなど、とんでもない。
赤子は寝台の横に置かれた小さな籠の中で泣いていた。産婆は遠巻きに布をかぶせ、乳母は耳を押さえながら祈りの言葉を繰り返した。母は震える手を伸ばしかけたが、赤子がしゃくり上げるたび、部屋のどこかが軋む音を聞いて、指先を引っ込めた。
父は低い声で命じた。
「泣かせるな」
それは、赤子に向けた言葉ではなかった。
その日から、屋敷の者たちはその子を泣かせないことだけを考えるようになった。
名はエリゼという。
母が妊娠中から決めていた名前だった。春に咲く白い花から取った、美しい名だった。けれど屋敷の中でその名が呼ばれることは少なかった。
「お嬢様を起こすな」
「お嬢様の機嫌を損ねるな」
「お嬢様の部屋の前では足音を立てるな」
皆、丁寧に呼んだ。
だが、それは敬意ではなかった。
怯えだった。
エリゼが泣けば、皿が割れた。笑って声を上げれば、花瓶が倒れた。乳歯が生え始めたころ、痛みで一晩泣き続けた時には、東棟の壁に大きな亀裂が走った。誰も死ななかったのは幸いだったが、それを幸いと呼ぶ者はいなかった。
乳母は三人替わった。
一人目は耳を悪くして辞めた。二人目は、エリゼが咳き込んだ拍子に割れた鏡の破片で頬を切り、実家へ帰った。三人目はよく耐えたが、ある日、寝台の柵越しにエリゼへ手を伸ばしたまま、泣き出してしまった。
「申し訳ありません。もう、無理です」
その声を、エリゼは覚えていない。
ただ、覚えている感触はある。
誰かの手が近づきかけて、触れる前に離れていく感触。抱き上げられる気配がして、途中で消える気配。熱を出してうなされても、額に置かれる手がいつも布越しだったこと。
屋敷の者たちは、エリゼを飢えさせなかった。凍えさせなかった。汚れた服を着せたままにもしておかなかった。
けれど、近づかなかった。
喉元の印は、いつも高い襟の下にあった。
赤子のころは確かに見えていた。母も、父も、一度はそれを目にしていたはずだ。だが、泣き声が屋敷を壊すたび、彼らの記憶の中でその印は美しい紋様ではなく、不吉な痣へ変わっていった。
誰かが言った。
「あの印が災いを呼んでいるのでは」
誰かが頷いた。
その瞬間から、印は確かめるべきものではなく、隠すべきものになった。
エリゼが五歳になった春、父は一人の魔道士を連れてきた。
痩せた男だった。黒い外套を着て、銀縁の眼鏡をかけていた。名をクラウスという。王都で学んだ高位魔道士だと父は説明したが、なぜそんな人物が地方貴族の屋敷まで来たのか、エリゼにはわからなかった。
その日、エリゼは白い服を着せられた。
母はいつもより長く髪を梳いた。櫛を持つ手は震えていたが、声は優しかった。
「今日で、楽になるわ」
誰が、とは言わなかった。
エリゼは鏡越しに母を見た。母は微笑んでいた。けれどその目は、エリゼではなく、エリゼの喉元を見ていた。高い襟の奥に隠したはずの印を、怖がるように。
儀式は地下の礼拝室で行われた。
石造りの部屋には、分厚い絨毯が敷かれていた。万が一エリゼが泣いても、振動を吸うためだと後に知った。壁には防音の魔法陣が描かれ、燭台には硝子ではなく鉄の覆いがつけられていた。
両親は部屋の端に立った。
クラウスだけがエリゼの前に膝をついた。
「怖がらなくていい」
彼はそう言った。
エリゼはその言葉を信じたかった。大人が自分の近くで普通に話しかけてくれることは少なかったからだ。
クラウスはエリゼの襟元を開いた。
その瞬間、彼の指が止まった。
エリゼは幼かったが、その表情だけは覚えている。
魔道士は驚いていた。
恐怖ではない。嫌悪でもない。何か、とても大きなものを見つけてしまった者の顔だった。
だが、クラウスはすぐに表情を消した。
「声を封じます」
父が息を吐いた。
「頼む」
母が小さくすすり泣いた。
エリゼはようやく、自分が何をされるのか理解した。
「お母様」
そう呼ぼうとした。
けれど声になる前に、クラウスの指が喉元へ触れた。
焼けるような痛みが走った。
エリゼは叫んだ。叫んだはずだった。喉は震え、胸は痛み、涙は頬を流れた。だが、音はどこにも出なかった。
世界から、自分の声だけが消えた。
母が顔を覆った。
父は目を逸らした。
クラウスはエリゼの喉元に黒い封印術式を刻み込んだ。銀緑の印の上を覆うように、黒い輪が肌へ沈んでいく。それは首輪ではなかった。肌に直接焼きつき、声の通り道を縛る、目に見える術式の枷だった。
儀式が終わると、屋敷は静かになった。
誰もが安堵した。
エリゼだけが、何も言えなかった。
それから十年が過ぎた。
エリゼは十五歳になった。
声を失った生活には、慣れたと言えば慣れた。筆談用の小さな板を持ち歩き、必要なことはそこへ書いた。頷く、首を振る、指で示す。使用人たちはエリゼの仕草を読むのが上手くなった。
ただし、それは親しさではない。
屋敷の者たちは、声を封じられたエリゼを以前ほど恐れなくなった。だが、恐れが消えたわけではなかった。封印があるから安全だと思っているだけだった。
食卓で、父は妹のリリアにばかり話しかけた。
リリアは八歳だった。エリゼが声を封じられた後に生まれた子で、屋敷の者たちから何のためらいもなく抱き上げられ、笑い声を歓迎された子だった。
「今日は刺繍の先生に褒められましたの」
リリアが誇らしげに言う。
父は柔らかく笑った。
「そうか。リリアは器用だな」
母も微笑んだ。
「今度、見せてちょうだい」
エリゼは黙ってスープを飲んだ。
声を封じられているのだから黙っているのは当然だった。だが、沈黙には種類がある。許された沈黙と、期待された沈黙。エリゼに与えられたのは後者だった。
ある日、リリアが食卓でエリゼを見た。
「お姉様は、どうしてお話ししないの?」
部屋が凍った。
銀の匙が皿に触れる音さえ、ひどく大きく聞こえた。
母が慌てて言った。
「リリア」
「だって、いつも板に書くでしょう? 先生は、お口で言うほうが早いっておっしゃるわ」
リリアに悪気はなかった。
悪気がないからこそ、その問いはまっすぐだった。
エリゼは筆談板を取った。
『声が出ないの』
リリアは目を丸くした。
「病気?」
エリゼは少し迷って、首を振った。
父が低く言った。
「その話はよい」
それで終わりだった。
リリアは叱られたと思って口をつぐみ、エリゼは板を伏せた。母は話題を変えた。明日の茶会、庭師が植え替えた薔薇、リリアの新しいドレス。どれも、エリゼには関係のない話だった。
夜、エリゼは自室の鏡の前で襟元を開いた。
喉元には黒い痕がある。
丸い輪のような、蔦が絡まったような、焼け焦げた傷跡のようなもの。五歳の儀式以来、そこにある。触れると冷たい。強く押すと、喉の奥に苦い痛みが走る。
その下に何があったのか、エリゼは知らない。
知ろうとしたこともなかった。
知ったところで、声は戻らないと思っていた。
エリゼが自分の喉元以外に興味を持つようになったのは、屋敷の古い書庫に通うようになってからだった。
声を持たない者に、社交は向かない。茶会に出れば、相手は最初だけ気遣わしげに微笑む。すぐに、どう扱えばよいかわからないという顔になる。筆談板を差し出すと、会話の速度が落ちる。周囲の令嬢たちは気まずそうに視線を交わし、やがてエリゼを置いたまま別の話題へ移っていく。
母はそれを見て、次第にエリゼを外へ出さなくなった。
「あなたも疲れるでしょう」
母はそう言った。
嘘ではなかった。
エリゼは疲れていた。けれど、その言葉の奥に「連れて行くこちらも疲れる」という音が混じっていることくらい、声のない娘にもわかった。
だから、エリゼは書庫へ逃げた。
書庫は静かだった。紙と革と古い木の匂いがした。誰も不用意に話しかけてこない。本はエリゼが声を出せなくても怒らず、沈黙を不自然なものとして扱わなかった。
そのころから、エリゼは時々、同じ夢を見るようになった。
夢の中で、彼女は深い森に立っている。
見たことのない森だった。木々は空へ届くほど高く、枝には季節の違う花が同時に咲いていた。雪のような白い花、朝焼け色の小さな花、夜にだけ光る青い花。足元には柔らかな苔が広がり、どこからか水の流れる音がする。
その森の奥から、誰かの声が聞こえた。
「どこにいる」
男の声だった。
低く、静かで、けれど必死だった。
エリゼは答えようとする。ここにいる、と言おうとする。だが夢の中でも声は出ない。喉元の黒い輪が冷たく締まり、息だけが白く漏れる。
「まだ届かない」
声は遠ざかる。
「それでも、探している」
目覚めると、いつも頬が濡れていた。
エリゼはそれを、ただの夢だと思っていた。声を失った者が、声を求めて見る夢。誰かに探されたいと願う心が作った、都合のよい幻。
それでも、その夢を嫌いにはなれなかった。
夢の声だけは、エリゼを恐れていなかったからだ。
そこで、エリゼは一冊の古い法令集を見つけた。
表紙には金の文字で『王国諸令抄』と記されていた。貴族家ならばどこにでも置かれているが、誰も真面目には読まない類いの本だった。エリゼは退屈しのぎに頁をめくり、やがて「妖精印報告令」という見出しに目を留めた。
妖精印。
その文字を見た時、なぜか喉元が冷えた。
条文は難しかったが、要点は読み取れた。
新生児、幼児、その他年齢を問わず、身体に妖精由来と思われる紋様、発光、異常な魔力反応が認められた場合、家長、担当医師、洗礼神官、または検分に関わった魔道士は、七日以内に領主もしくは王宮妖精庁へ届け出ること。
届け出を怠った場合、過失の有無を問わず調査対象とする。
番印の可能性がある場合、本人の安全を最優先とし、無許可の封印、切除、焼灼、隠蔽を禁ずる。
エリゼはその一文を何度も読んだ。
無許可の封印を禁ずる。
自分の喉元にある黒い痕が、急に重くなった。
だが、エリゼはその時点では何も結びつけられなかった。妖精印など、物語の中にしかないものだと思っていた。妖精の王の番など、王都の祭礼で歌われる古い伝承だと思っていた。
自分に関係があるはずがない。
そう思うほうが楽だった。
エリゼは法令集を閉じ、元の棚へ戻した。
けれど、それ以降、鏡を見るたびに黒い封印痕が目につくようになった。
ある午後、リリアが書庫へやって来た。
妹は扉の隙間から顔を出し、エリゼが一人だとわかると、少し安心したように入ってきた。腕には刺繍枠を抱えている。
「お姉様、ここにいらしたの」
エリゼは頷いた。
「お母様が、お姉様は本がお好きだから邪魔をしてはいけないっておっしゃったの。でも、少しだけならいいでしょう?」
エリゼは筆談板へ書いた。
『何か用?』
「これを見てほしくて」
リリアは刺繍枠を差し出した。
白い布に、銀緑の糸で花が刺してある。花弁の外側に小さな羽根のような模様があり、蔦が円を描くように伸びていた。
エリゼは息を止めた。
どこかで見たような形だった。
「お姉様の名前の花です。先生は、緑だけだと地味だって言ったけれど、私はこの色が好きなの」
銀緑。
エリゼはそっと喉元に触れた。
リリアが首を傾げる。
「痛いの?」
エリゼは首を振った。
『綺麗ね』
板にそう書くと、リリアは嬉しそうに笑った。
その笑顔に、エリゼは少しだけ胸が痛くなった。
リリアはエリゼを恐れていないわけではない。幼いころから、大人たちがエリゼの話題を避けるのを見て育っている。エリゼの部屋に一人で行ってはいけないと言われ、喉の痕について尋ねてはいけないと教えられている。
それでもリリアは、時々こうして近づいてくる。
恐怖より好奇心が勝つ年齢なのかもしれない。姉というものに憧れているだけかもしれない。
それでも、エリゼには眩しかった。
「お姉様も、何か刺しますか?」
エリゼは困って首を振った。
「じゃあ、私がもう一枚刺します。お姉様のハンカチに」
リリアは勝手に決めて、書庫の椅子に腰かけた。
エリゼは本を読むふりをしながら、その小さな横顔を見ていた。針を持つ指はまだ危なっかしく、糸は時々絡まった。それでもリリアは楽しそうだった。
この子は、泣いても抱き上げてもらえた。
この子は、笑えば皆が笑った。
エリゼは嫉妬しなかった、と言えば嘘になる。
だが、憎めなかった。
自分が失ったものを、リリアが持っている。その事実は苦しい。けれど、リリアがそれを持っていること自体は、悪ではない。
悪いのは、誰もエリゼにもそれを与えようとしなかったことだ。
夕方、母が書庫へ来た。
リリアがエリゼの隣に座っているのを見て、一瞬だけ顔を強張らせた。
「リリア、こちらへ」
声は優しかったが、有無を言わせぬ響きがあった。
リリアは刺繍枠を抱えて立ち上がる。
「でも、お姉様に」
「続きは部屋でなさい」
母はリリアの肩を抱き、エリゼを見た。
その目に浮かんでいたものを、エリゼはよく知っている。
心配。
そして、その下にある恐れ。
声を封じられて十年経っても、母はまだエリゼの近くにリリアを置くことを怖がっている。
エリゼは筆談板を取った。
『私は何もしません』
母はその文字を見た。
一瞬、ひどく傷ついたような顔をした。
けれど、何も言わなかった。
リリアを連れて、書庫を出て行った。
残されたエリゼは、机の上に落ちていた銀緑の糸くずを拾った。
細く、頼りない糸だった。
けれど光にかざすと、喉元の奥が小さく疼いた。
その夜も、エリゼは森の夢を見た。
いつもより、声が近かった。
「もう少しだ」
見えない誰かが、木々の向こうでそう言った。
「そなたが生きていることだけは、わかる」
エリゼは夢の中で胸を押さえた。
なぜだろう。
その言葉に、ひどく泣きたくなった。
屋敷の誰も、エリゼが静かに生きていることを確かめようとはしなかった。ただ危険でないか、安全か、封印は保たれているかを気にしていた。
けれど夢の声は、生きていることを探している。
エリゼは声のない喉で、必死に答えようとした。
ここにいます。
その言葉は夢の中でも音にならず、黒い輪に飲み込まれた。
屋敷が襲われたのは、その年の初夏だった。
夜会の後で、屋敷の者たちは疲れていた。父は書斎に籠もり、母はリリアを寝かしつけ、エリゼは自室で本を読んでいた。
最初に聞こえたのは、馬の嘶きだった。
次に、遠くで何かが割れる音。
エリゼは顔を上げた。
廊下の向こうが騒がしい。使用人の足音が乱れ、誰かが「火だ」と叫んだ。
火。
その言葉を聞いた瞬間、部屋の空気が熱を帯びたように感じた。
エリゼは扉を開けた。廊下の奥が赤い。使用人棟の方角から煙が流れ込み、油の匂いがした。普通の失火ではない。いくつもの場所から同時に火が上がっている。
父の政敵に雇われた賊が、夜陰に紛れて屋敷へ火を放ったのだと、後に聞いた。
その時のエリゼにわかったのは、皆が逃げているということだけだった。
使用人が荷物を抱えて走り、別の者が水桶を運ぼうとして転んだ。母の侍女が泣きながら名前を呼んでいる。
「リリア様! リリア様はどちらに!」
エリゼの足が止まった。
リリア。
妹の部屋は、母屋の東側にある。火の回りが早い方角だった。
エリゼは走った。
途中で父とすれ違った。父は外へ向かう人波の中で、エリゼを見つけて目を見開いた。
「エリゼ、外へ出ろ」
エリゼは首を振った。
リリア、と口を動かす。
父の顔が強張った。
「リリアは母と一緒だ」
その瞬間、廊下の奥から小さな声がした。
「お姉様」
エリゼは父を押しのけて走った。
父が何かを叫んだ。だが、エリゼにはもう聞こえなかった。煙が喉を焼き、目に涙が浮かぶ。声を出せない喉でも、煙は容赦なく痛んだ。
リリアは廊下の奥にいた。
寝間着のまま、壁際に座り込んでいた。足を挫いたのか、立てないでいる。火はまだ直接届いていなかったが、天井の梁が赤く燃え、いつ落ちてもおかしくなかった。
「お姉様」
リリアが泣いた。
エリゼは駆け寄ろうとした。
その時、背後で爆ぜる音がした。
賊が投げ込んだ魔道具の一つが、炎に巻かれて暴発した。衝撃が廊下を走り、壁の燭台が吹き飛ぶ。エリゼの身体は床へ叩きつけられた。
喉元が焼けた。
五歳の時に刻まれた封印術式が、炎の熱と魔道具の暴発で乱れた魔力に耐えきれず、細く裂けたのだ。
音のない悲鳴が胸の中で弾ける。
エリゼは喉を押さえた。指の下で、黒い封印痕が熱を持っている。そこから何かが漏れていた。声になりきらない、息とも魔力ともつかないもの。
天井が軋んだ。
燃えた梁が、リリアの上へ落ちようとしていた。
エリゼは立ち上がれなかった。足が震え、煙で視界が歪む。筆談板は部屋に置いてきた。手を伸ばしても届かない。
声は出ない。
出ないはずだった。
けれど、封印の亀裂から、ほんのわずかに息が漏れている。
エリゼはそれを掴んだ。
泣くためではなく、怯えるためでもなく、誰かに許しを乞うためでもなく。
妹を守るために。
「止まって」
かすれた声だった。
それでも、世界は従った。
落ちかけた梁が空中で止まった。炎の舌が凍りついたように動きを失い、砕けた窓硝子の破片が宙に浮かんだ。煙さえも、一瞬、流れることを忘れた。
リリアは泣きながら目を見開いていた。
エリゼは自分の喉元を押さえた。
黒い封印痕の一部が裂け、薄く剥がれていく。
その隙間から、光が現れた。
淡い銀緑の紋様。羽根と蔦、王冠と花冠を重ねたような印。赤子のころからそこにあり、誰にも正しく見られず、十年間も封じられていたもの。
それは呪いの痣ではなかった。
エリゼの声に宿る力は、壊すためだけのものではなかった。
止まった梁の下をくぐり、エリゼはリリアを抱き寄せた。リリアは震えていた。けれど、エリゼを突き飛ばさなかった。
「お姉様、声が」
エリゼは答えようとして、喉に走る痛みに顔をしかめた。
封印は完全には壊れていない。亀裂から声が漏れただけだ。無理に話せば、今度こそ何が起こるかわからない。
それでも、リリアを抱えて廊下を戻ることはできた。
エリゼが妹を連れて玄関広間へ戻った時、父と母は半狂乱になっていた。
母がリリアを抱きしめる。
父はエリゼを見た。
安堵。驚愕。恐怖。
その順に、父の顔を過ぎていった。
エリゼの喉元で、銀緑の印がまだ光っていたからだ。
使用人たちも息を呑んだ。
誰も、その印の名を知らなかった。だが、黒い封印痕の下から現れた美しい紋様を見て、誰もが理解した。これはただの傷ではない。呪いと呼ぶには、あまりに清らかすぎる。
屋敷の火は、奇妙に広がりを止めていた。
燃えていたはずの梁は落ちず、炎は一定の場所から先へ進まない。水をかければ消えた。賊たちは混乱し、駆けつけた衛兵に捕らえられた。
夜明け前、王都で異変が起きた。
妖精庁の奥に置かれていた番印の記録石が、初めて明確な光を放ったのだ。
記録石は、妖精の王の番印がこの国のどこかで本来の力を示した時に反応する。赤子の産声や幼い歌声で反応することもあるが、それは印が守りの力として開いた場合に限られる。制御を知らないまま漏れ出した暴走や、封印の下に沈められた気配までは拾えない。
だから、石は長い間沈黙していた。
その沈黙が、破れた。
翌朝、屋敷へ王宮の馬車が来た。
降りてきたのは、妖精庁の調査官だった。深緑の制服を着た女性で、名をセラフィナといった。彼女は焼け焦げた玄関広間を見ても、慌てなかった。ただ、エリゼを見ると表情を変えた。
「喉元を確認してもよろしいでしょうか」
父が前へ出た。
「娘は昨夜の火事で疲れている。調査なら後日に」
セラフィナは父を見た。
「番印の記録石が反応しました。後日にはできません」
番印。
その言葉に、父の顔色が変わった。
エリゼは自分で襟元を開いた。
セラフィナが息を呑む。
彼女は膝をついた。エリゼにではなく、印に礼を取るように。
「妖精王の番印です」
広間が静まり返った。
母がよろめいた。
「そんな」
父は声を荒げた。
「何かの間違いだ。この子の声は屋敷を壊した。赤子のころからずっとだ。だから封じた。そうしなければ、誰かが死んでいた」
セラフィナは立ち上がった。
「声に力が宿るのは、番印を持つ者に見られる典型的な徴候です」
「典型的だと?」
「はい。特に妖精王の番は、声が道しるべになります。王へ居場所を知らせ、番自身を守る力でもある。幼少期に力が強く出る場合は、国が保護し、制御を教える決まりです」
父の唇が震えた。
「知らなかった」
セラフィナの声は冷たくはなかった。
だが、柔らかくもなかった。
「印らしきものが現れた時点で、報告義務がありました」
母が胸元を押さえた。
「でも、あれは呪いだと」
「印か呪いかを、あなた方が決める権限はありません」
その言葉は、広間にいる全員へ向けられていた。
「危険な力があるのなら、なおさら国へ届け出るべきでした。医師、神官、魔道士の検分を受けさせるべきでした。素人判断で封じてよいものではありません」
父は何か言おうとした。
だが、言葉は出なかった。
エリゼは喉元の印に触れた。
そこはまだ熱を持っていた。封印の黒い輪は半分ほど残っている。銀緑の印は、その下から息をするように光っていた。
エリゼは声を出すのが怖かった。
また何かを壊すかもしれない。
そう思った瞬間、自分の中に別の恐怖があることに気づいた。
もし、もう壊さないのだとしたら。
もし、あの声が本当に呪いではなかったのだとしたら。
自分は、何のために十年も黙っていたのだろう。
エリゼは息を吸った。
喉が痛む。封印が邪魔をする。それでも、昨夜のように、亀裂からわずかな声が漏れた。
「私は」
広間の全員が、びくりと肩を震わせた。
その反応に、エリゼは少しだけ笑いそうになった。
声が戻っても、これなのだ。
けれど、もう黙らなかった。
「私は、壊すために生まれたのではなかったのですね」
何も壊れなかった。
窓も、壁も、燭台も、誰の耳も。
ただ、庭の方で風が鳴った。
季節外れの花が咲き始めたのは、その直後だった。
焼け焦げた庭の芝生から、白い花が一輪、また一輪と顔を出す。初夏には咲かないはずの花だった。エリゼの名の由来になった白い花。母が昔、まだエリゼを恐れる前に、産まれてくる子へ贈ろうと選んだ花。
風が止まった。
空気が澄み、焦げた匂いが薄れていく。光の粒が庭へ集まった。使用人の一人が悲鳴を上げかけ、セラフィナが手で制した。
「妖精です」
小さな光たちは人の形を取った。
彼らはエリゼを見て、いっせいに膝をついた。
恐れていない。
誰も耳を塞がない。誰も後ずさりしない。誰も「黙らせろ」と言わない。
その奥から、一人の男が歩いてきた。
人間ではなかった。
人の姿をしているが、人ではない。髪は夜明け前の銀を含み、瞳は深い森の奥の色をしていた。衣の裾には季節の違う花々が影のように咲き、彼が一歩進むたび、焼けた庭に緑が戻った。
妖精の王。
誰に教えられなくても、エリゼにはわかった。
広間にいた者たちが膝をつく。父も、母も、セラフィナでさえ頭を垂れた。
だが、妖精の王は誰も見なかった。
彼はエリゼの前で足を止めた。
そして、膝をついた。
「遅くなった」
その声は静かだった。
言い訳も、驚きも、喜びも先に来なかった。ただ、謝罪だけがあった。
エリゼは彼を見下ろした。
妖精の王が、自分に跪いている。
かつて乳母が手を引っ込め、母が目を逸らし、父が封印を望んだ自分に。
「あなたは」
声はまだ弱い。
けれど出た。
「私を迎えに来たのですか」
「迎えに来た」
妖精の王は答えた。
「だが、連れ去りに来たのではない。選ぶのは、そなただ」
エリゼは、そこでようやく気づいた。
この声を、知っている。
深い森の夢の中で、何度も聞いた声。どこにいる、と問い、まだ届かないと悔やみ、それでも探していると言った声。
「夢の」
エリゼはかすれた声で呟いた。
妖精の王の瞳が揺れた。
「届いていたのか」
「少しだけ」
エリゼは答えた。
「いつも、森の中で」
妖精の王は目を伏せた。
「封印に遮られ、そなたの声は我に届かなかった。だが、命の気配だけは消えなかった。眠りの浅い場所で、ほんのわずかに触れたのだろう」
彼は苦しげに息を吐いた。
「もっと早く、見つけたかった」
父が顔を上げた。
「王よ、この子は」
妖精の王が父を見た。
それだけで、父は言葉を失った。
「この子、ではない」
庭の花が一斉に揺れた。
「名がある」
父は青ざめた。
母が震える声で言った。
「エリゼ」
その名を聞いて、妖精の王は再びエリゼを見た。
「エリゼ」
彼が呼ぶと、喉元の印が柔らかく光った。
痛みはなかった。
「そなたの声は、我を呼ぶためのものだった。破壊は本質ではない。守り方を知らぬまま、孤独に置かれた結果だ」
エリゼは唇を噛んだ。
孤独。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
自分は一人だったのだと、初めて誰かに言われた気がした。屋敷には人がいた。家族も使用人もいた。食事も服も部屋も与えられていた。けれど、自分の声を恐れずに聞こうとした者はいなかった。
「私は」
エリゼは喉に手を当てた。
「あなたの番だから、守られるのですか」
妖精の王はすぐには答えなかった。
考えたのではない。
言葉を選んだのだと、エリゼにはわかった。
「番であることは、我がそなたを見つける道だった」
彼は言った。
「だが、守られる理由ではない。そなたは、そなたであるから守られるべきだった。声を持つ子として。恐れられ、封じられる前に、教えられるべき子として」
エリゼは目を伏せた。
母が泣いていた。
父はその場に崩れるように膝をついていた。
謝罪の言葉は聞こえなかった。聞こえても、今は受け取れなかっただろう。
セラフィナが静かに告げた。
「ご両親には、妖精印報告令違反と無許可封印の件で王宮への出頭を命じます。魔道士クラウスについても、資格記録を照会します」
母が震える声で言った。
「私たちは、あの子を守りたかっただけなのです」
あの子。
エリゼはその呼び方を聞いて、少しだけ目を伏せた。
母の言葉に嘘はないのだろう。少なくとも、母自身はそう信じている。泣き声で割れた硝子を見て、怪我をした乳母を見て、怯える使用人を見て、これ以上何も壊れないようにと願った。その願いの中には、エリゼを憎む気持ちだけではなく、恐れながらも失いたくないと思う心があったのかもしれない。
だが、守るとは何だろう。
声を奪うこと。
印を隠すこと。
誰にも届け出ず、誰にも調べさせず、ただ静かな子に作り替えること。
それは本当に、守ることだったのだろうか。
セラフィナは母を責め立てなかった。
ただ、淡々と告げた。
「恐れたことは罪ではありません。ですが、恐れを理由に義務を怠ったことは罪です」
その言葉で、広間の空気がさらに重くなった。
父が拳を握る。
「では、我々はどうすればよかった」
「届け出ればよかったのです」
セラフィナは即答した。
「わからないものを、わからないまま封じないことです。恐ろしいものを恐ろしいからと遠ざけるのではなく、専門の者へ渡すことです。貴族に課された義務とは、都合のよい時だけ国の庇護を受けることではありません」
父は黙った。
エリゼはその横顔を見た。
父は小さくなったように見えた。幼いころ、部屋の入口で「泣かせるな」と命じた父は、エリゼにとって屋敷そのもののように大きかった。だが今は、焦げた柱の前で立ち尽くす一人の男に見えた。
それでも、失われた十年は戻らない。
父が顔を上げた。
「クラウス殿は、印を見た。あの男は」
母が口元を押さえた。
エリゼは五歳の日を思い出した。
クラウスが襟元を開き、指を止めた瞬間。
あの顔。
驚き。
知っていたのだ。
少なくとも、疑うだけの知識はあった。
それでも彼は封じた。
エリゼの声を。
印を。
妖精の王へ届くはずだった道を。
怒りは、すぐには来なかった。
先に来たのは、ひどく静かな空白だった。
「私は」
エリゼは言った。
今度は、誰も肩を震わせなかった。
「これから、声の使い方を学べますか」
妖精の王が頷いた。
「学べる。望むなら、我が森の者を遣わす。王宮で学んでもよい。妖精の森へ来てもよい。ここに残ることも、すぐには否定しない」
「ここに」
エリゼは屋敷を見た。
焦げた柱。割れた窓。煤けた壁。怯えた使用人。泣き続ける母。項垂れる父。エリゼの手を握ったまま離さないリリア。
リリアだけが、エリゼを見ていた。
「お姉様」
リリアは涙で濡れた顔を上げた。
「助けてくださって、ありがとう」
エリゼはゆっくりと瞬きをした。
ありがとう。
自分の声で何かを壊した時、そんな言葉を向けられたことはなかった。
エリゼはリリアの手を握り返した。
それから、妖精の王を見た。
「今日は、決められません」
「それでよい」
「あなたを許すかどうかも、まだわかりません」
妖精の王は静かに頷いた。
「当然だ」
「両親を許すかどうかも、わかりません」
「それも、そなたのものだ」
エリゼは息を吸った。
喉は痛む。封印はまだ残っている。声は細く、頼りない。
けれど、もう無いものではなかった。
「私は、まず自分の声を知りたい」
妖精の王の瞳が、ほんの少しだけ和らいだ。
「ならば、我はその隣に立つ許しを乞おう」
エリゼは答えなかった。
頷きもしなかった。
ただ、喉元の印に触れた。
銀緑の光は、彼女の指先で静かに脈打っていた。
恐れられるための印ではない。
壊すためだけの声ではない。
誰かに見つけられるためだけの人生でもない。
エリゼは、焼けた屋敷の朝の中で、初めて自分の声を自分のものとして聞いた。
「私は、ここにいます」
その声に、世界は壊れなかった。
妖精の王が、静かに微笑んだ。
「聞こえた、エリゼ」
名を呼ばれた瞬間、喉の痛みが少しだけ和らいだ。
それは恋ではなかった。
まだ、恋と呼ぶには知らないことが多すぎる。エリゼは彼の名も、森のことも、番という言葉の本当の重さも知らない。許せないものも、決められないことも、胸の中に山ほど残っている。
それでも、初めて思った。
この人にもう一度名前を呼ばれても、怖くないかもしれない。
庭の白い花が、朝日に向かって咲いた。
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