婚資目当てに婚約を切られましたが、違約金も提携もこちらが先に押さえております。上のお家へまいりますわ
「資本目当ての飾りだった君を、これ以上ヘルツェン伯爵家へ置いておく理由はない」
クロードの声が、長卓の端までよく通った。エリシアは膝の上で組んでいた手をほどき、右の親指についた薄い墨を左手で隠した。
傍らに立つバルトの指が、書類の綴じ紐を結ぶ途中で止まっている。
「訂正なさいますか、クロード様」
「何をだ」
「今のお言葉を」
クロードは鼻先で息を落とした。手元には、エリシアの婚資を伯爵家の倉へ移すための手配書が伏せられている。
「金で結ばれた縁など不要だと言っている。君は婚資と一緒に来て、帳簿をいじっていただけだろう。商人どもに手紙を書き、職人に細かな指図をして、伯爵家の仕事を自分のもののように扱った」
「それで三年間、納期に穴はございませんでした」
「それは資本があったからだ。婚資さえあれば事業は残る」
クロードの右に座った親族が、口元を扇で覆った。その隣の者は、ヴァルターが頷いたのを見てから同じ角度で顎を引く。
「若い二人の決定を尊重いたしましょう」
「伯爵家の判断ですから」
卓上を破棄書が滑った。親族たちは余白へ視線を落とす前に、婚資の移管手配書を順に確かめた。
「円満な整理だ」
ヴァルターは肘掛けへ片手を置き、もう片方の手で破棄書をエリシアの前まで押した。親族を左右に並べた席では、扉までの道が椅子の背で狭くなっている。
「ローデン子爵家へは私から伝える。婚資はすでに我が家の事業へ組み込まれている以上、動かすべきではない。提携も同様だ。君も両家の名を汚したくはあるまい」
「職人への注文は、今季分まで継続なさいますか」
「今は破棄への返答を聞いている」
「染め場へ渡す原料は、明朝が締切です」
「エリシア嬢」
ヴァルターの声が一段高くなった。エリシアが口を開くより先に、次の言葉が重なる。
「君一人の都合で話を長引かせるな。これは伯爵家の総意だ。即答してもらおう」
エリシアは卓の脇に置かれた取引筋と調達の帳合へ目を移した。三日前に挟んだ染糸の見本が、閉じた頁のあいだから一筋だけ覗いている。
「その帳合は置いていけ」
クロードが指先で表紙を叩いた。二度目は爪が金具に当たり、乾いた音がした。
「伯爵家の事業のものだ。君が持ち込んだ商人も職人も、これからは父上と僕の指示を聞く。飾りがなくとも店は回る」
バルトの手に残った綴じ紐が、わずかに垂れた。エリシアはそれを見ず、破棄書の一枚目だけを持ち上げる。
「立会人がお揃いになってから署名いたします」
「親族がこれだけ揃っている」
「婚資と提携を残すとおっしゃいましたので、その当事者にもご覧いただきます」
「必要ない」
「必要のない方々から、今後も品をお買いになるのですか」
クロードの指が表紙から離れた。ヴァルターは言葉を挟もうとしたが、廊下から三度、扉を叩く音が届く。
エリシアは破棄書を卓へ戻した。紙の端は、最初に置かれていた位置から指一本ぶんもずれていなかった。
◇
前夜、破棄書面が届いたときも、エリシアは封蝋の欠片を銀盆へ落としただけだった。バルトが燭台を近づけるあいだに、彼女は文末の署名と翌朝の時刻を確かめ、契約書控えの束を開いた。
「返書はいかがいたします」
「受領したことだけを。返答は明朝、立会いのもとで行うと書いてください」
「承知いたしました」
バルトは便箋を取り出したが、ペンを取る前に卓上の破棄書を見た。綴じ紐の端を揃える指が、そこで止まる。
エリシアは契約書控えの一頁へ指を置いた。条項の頭をひとなでしてから、婚姻が成らなかった場合の婚資返還の条件まで頁をめくる。
「婚資の移管手配は、本日付で届いております」
「倉へ入れる前に、縁を切るおつもりなのでしょう」
「差し止めますか」
「いいえ。返還条件が働けば、先方の手配書では動かせません。受領者へ控えを渡してください」
バルトが短く頷き、机上の書類を二つに分けた。伯爵家の手配書は左へ、返還条件を示す控えは右へ置かれる。
次の頁には違約金条項があった。破棄を申し出た側が負担する、その一行の頭をエリシアの指が通り過ぎる。
「請求書の用意は」
「済んでおります。金額と支払期日を空欄にしてございます」
「明朝、破棄が成立してから埋めましょう。先に書けば、急いでいたように見えますもの」
バルトは返事の代わりに、空欄の請求書を一番下へ差し込んだ。紙の角が揃うまで、爪の背で二度押す。
エリシアがめくった先には、事業提携の解消権が記されていた。婚姻を前提とする提携について、破棄の意思が書面で示された時点から行使できる。
「通知は」
「本日夕刻、すべての取引先が受領しております。受領印の控えもこちらに」
並べられた控えの印影は、どれも乾いていた。伯爵家から破棄書が届いたのは、その前である。
エリシアは最後の一通を取った。飾り気のない封筒には、家名ではなく、彼女本人の名だけが記されていた。
『あなたがどちらでお続けになっても、うちは同じようにお付き合いします。明日の荷も止めません』
取引先の老主らしい、挨拶を削った私信だった。封筒の中には、解消後の新しい取引条件へ同意する書面も重ねられている。
「染め場の原料は」
「明朝も予定どおり届きます。金工房の燃料も、先方が荷車を替えて運ぶとのことです」
「代金の受益先は」
「エリシア様の管理口へ。伯爵家を経由いたしません」
エリシアは老主の私信を契約書控えへ挟んだ。指先に残っていた墨が、封筒の縁へ小さく移る。
「証文は、先に手を尽くした者に報いますのよ」
バルトは垂れていた綴じ紐を拾い、左右の長さを揃えた。止まっていた指が動き、ひと結び、もうひと結びと控えの束を閉じていく。
「立会人には、どこまでお知らせいたしますか」
「破棄の時刻だけを。どちらへ向いていただくかは、お任せしましょう」
「オルブライト侯爵家からの使者にも」
エリシアは返事をせず、侯爵家の封蝋が押された封筒を契約書控えの下へ置いた。封はまだ切られていないのに、責任者欄へ差し込むための細い栞だけが添えられていた。
バルトはそれ以上尋ねなかった。完成した綴じ目を一度押さえ、翌朝の一番上へ破棄書を載せた。
◇
扉が開き、取引先の者たちが応接室へ入った。最後に現れた老主はヴァルターへ一礼し、そのままエリシアの斜め後ろへ立つ。
「お呼び立てして申し訳ない」
ヴァルターは椅子へ座ったまま言った。親族の前で使っていた声量が戻り、破棄書を持ち上げる。
「両家のための円満な整理だ。提携はこれまでどおり我が家が引き継ぐ。諸君には形式上、立ち会ってもらいたい」
「形式なら、手短に願います」
老主はそれだけ答えた。クロードが笑みを作り、伏せていた婚資の移管手配書を半分だけ見せる。
「ご心配には及びません。資金は伯爵家に残ります。今後の仕入れについても、僕から——」
「今朝以降のご指示は、どなたからいただけますか」
老主はクロードの言葉の途中で、エリシアへ顔を向けた。後ろに並んだ取引先の者たちも同じように向きを変える。
ヴァルターの指が、椅子の肘を握った。
「エリシア様、明日の荷は従来の倉へ運びません。新しい受領場所をご指定ください」
「仮置き場は用意してございます。帳合の印を確かめてから荷札を替えてください」
「承知しました」
一人がエリシアへ一礼する。ヴァルターの指の節が白くなった。
「金工房は炉を落とさずに進めてよろしいでしょうか」
「燃料は今夜届きます。注文済みの分は、そのまま仕上げてください」
「承知しました」
また一礼が落ちる。ヴァルターの手の甲に筋が浮いた。
「待て」
クロードが立ち上がり、椅子の脚が床を擦った。取引先の者たちは振り返ったものの、誰も彼の前へ帳面を開かなかった。
「話が違う。提携先はヘルツェン伯爵家だ。エリシア個人ではない」
「昨日までは、そうでしたな」
老主が懐から受領印の控えを出した。エリシアの行使した事業提携の解消通知と、新しい継続先への同意書が重ねられている。
「以前から我が家も調整を考えていた。そうだろう。君とは何度も話して——」
「若様から伺ったのは、支払いをひと月延ばせという話だけです」
老主は控えをクロードへ渡さず、エリシアの前へ置いた。婚資の移管手配書を握っていたクロードの手が、卓の下へ降りる。
親族たちは破棄書へ署名を始めた。ヴァルターが先に名を記すと、隣の者が「伯爵家の判断ですから」と繰り返し、同じ欄へ署名する。
破棄書が最後の一人からクロードへ戻った。彼はエリシアを見て、顎で空欄を示す。
「君の番だ。署名すれば、これで終わる」
エリシアは条項を指で追わなかった。すでに読んだ書面の末尾へ名を記し、バルトが差し出した封蝋を押す。
破棄成立の時刻を、立会人が欄外へ書き入れた。
婚資さえ先に押さえれば、あの女に打てる手などない。
ヴァルターが肘掛けから手を離した。バルトは成立時刻の控えを取り、婚資返還の条件を記した頁と重ねる。
「それでは、婚資の移管手配は無効となります。保管中のものは本日中に返還の手続きへ移します」
「何を言っている」
「縁が成らなかった場合の条件です」
ヴァルターは契約書控えへ手を伸ばした。バルトが頁を開いて向きを変えると、彼は一行を読み、続けて次の頁をめくる。
「この違約金は——」
「破棄を申し出た側のご負担です。先ほど成立いたしました」
「我々が払うのか」
「署名順に責任者が記されております」
バルトは空欄だった請求書へ金額と支払期日を書き入れ、ヴァルターの前へ置いた。立会人が確認印を押し、朱色の輪が紙の上で閉じる。
親族たちは互いの顔を見た。最初に署名した者も、最後に署名した者も、負担先を問うヴァルターの目を受け取らない。
「若い二人の決定だったはずです」
「伯爵家の総意と、つい先ほど伺いました」
エリシアが返すと、扇で口元を隠していた者は扇を畳んだ。誰も「伯爵家の判断ですから」とは続けなかった。
「提携まで解消する必要はないだろう」
ヴァルターは控えを押さえ、エリシアの返答へすぐ言葉を重ねた。
「三年間、我が家の名で動かしてきた事業だ。取引筋まで持ち出すのは筋が違う。婚資を返すというなら、せめて調達だけでも——」
「解消権は昨日、正規に行使されました」
「私に断りもなくか」
「破棄の意思を書面でいただきましたので」
「だが、当主である私の承認は」
「不要であることも、三年前にご署名済みです」
ヴァルターの唇が次の言葉の形を作ったまま止まった。エリシアは契約書控えを閉じ、取引筋と調達の帳合をクロードの前へ滑らせる。
「これは置いてまいります」
「そうだ。それは我が家の——」
クロードは帳合を開いた。一頁目には事業名だけが残り、仕入れ先、納期、受領印の欄は空いている。
次の頁も同じだった。彼は一度表紙まで戻し、もう一度、最初から帳合をめくった。
「記録がない」
「今後の取引がございませんから」
「過去の取引先はどこへ行った」
老主をはじめ、取引先の者たちはエリシアの後ろに立っていた。クロードの指だけが、空になった頁の端を二度、三度と擦る。
廊下から再び扉を叩く音がした。従者が告げた名を聞くと、ヴァルターは立ち上がり、自分の椅子を卓から引いた。
「どうぞ、こちらへ。侯爵閣下の使者には、まずお掛けいただいて——」
「立ったままで結構です」
オルブライト侯爵家の使者は、差し出された椅子を見ずに書面を開いた。ヴァルターは相手が読み終えるまで口を挟まず、両手を腹の前で重ねて待つ。
「破棄成立を確認いたしました。オルブライト侯爵より、エリシア・ローデン嬢へ正式な招請をお持ちしました」
「招請だと」
「事業提携の責任者として、侯爵家へお迎えします」
使者は最後まで読み上げてから顔を上げた。ヴァルターは勧めた椅子の背へ手を添えたまま、敬称を取り戻す。
「お待ちください。侯爵閣下には事情をまだお伝えしておりません。提携の主体は本来、我がヘルツェン伯爵家でして」
「侯爵は、継続する取引先と職人の扱いを先に伺うようにと」
使者の目はエリシアへ向いた。ヴァルターは口を閉じ、椅子の背から手を離す。
「場所を移します」
エリシアは契約書控えを抱えた。老主の私信が、頁のあいだからわずかに覗いている。
◇
別室に用意された卓には、オルブライト侯爵家の封蝋が押された契約書が置かれていた。侯爵は挨拶を短く済ませ、婚資の額には触れず、取引先の一覧へ指を置く。
「何日止まる」
「調達は止まりません。ただ、倉と作業場の移し替えに三日を要します」
「その三日、職人は」
エリシアの親指が、契約書控えの角を押した。紙に爪の形がつきかけ、バルトが下から薄い板を差し入れる。
「仕事を分けます。染め場は今季分を継続し、金工房は仕上げ工程を先に。荷札と受領場所だけを替えれば、手は空きません」
「支払いは」
「従来の日に。移転を理由に遅らせないことを継続条件へ加えていただきたく存じます」
「加えよう」
侯爵は書記へ目を向けた。余白へ一行が書き足されるあいだ、老主は一覧の取引先へ二つ印をつける。
「この二軒は、今日中に荷先を知らせれば明朝から動けます」
「お願いいたします」
「あなたがどちらでお続けになっても、うちは同じようにお付き合いします。書いたとおりです」
老主は私信の挟まった箇所を指先で軽く叩き、それきり口を閉じた。エリシアは封筒を新しい帳合の最初へ移す。
侯爵が新しい契約書を回した。婚資を受け入れる欄は独立し、ヘルツェン伯爵家へ流れる記載はない。
「婚資はあなたの管理下へ置く。事業の担保にするかどうかも、あなたが決めればよい」
「承知いたしました」
「提携の責任者はここだ」
侯爵は責任者欄をエリシア本人へ向けた。家名を先に印刷した欄ではなく、空白のまま残された一行だった。
エリシアはペンを取った。名を書き終えるまで、侯爵は口も手も出さない。
「三年間の帳合は持ち込めるか」
「空のものは、先方へお返ししました。取引先の控えは、すべてこちらにございます」
「ならば明日から使えるな」
「本日からでも」
侯爵は書類の端を揃えた。「頼もしいな」
使者が契約書を二部に分け、一部をエリシアへ渡した。もう一部には侯爵家の受領印が押され、責任者欄の名が朱印の隣に残る。
「ヘルツェン伯爵家から、違約金の負担確認が届きました」
書記が別の書面を侯爵へ差し出した。ヴァルターの署名と伯爵家の印が押され、支払い義務を認める文言の下へ、親族の連署が並んでいる。
「受領を」
侯爵はその紙をエリシアへ見せたあと、書記へ戻した。書記は受益先の名を確かめ、猶予欄のない書面を戻した。
「本日中に最初の支払いを執行するとのことです」
「確認いたしました」
窓の下で荷車の車輪が鳴った。老主が外を見ると、染め場へ送る原料の荷札が外され、新しい受領場所を書いた札へ付け替えられている。
一枚目が結ばれ、荷車が門を出る。続く車の御者も同じ札を掲げ、ヘルツェン伯爵家とは反対の道へ手綱を向けた。
エリシアは契約書控えの角から指を離した。爪の跡は、バルトの差し入れた板にだけ残っていた。
◇
ヘルツェン伯爵家から三度目の訪いがあったのは、その日の夕刻だった。最初の二度はバルトが返したが、三度目にはヴァルターとクロード本人が侯爵家の客間まで来ていた。
ヴァルターは朝より深く頭を下げた。親族の姿はなく、両脇を塞ぐ椅子も用意されていない。
「エリシア嬢、行き違いがあった」
「どの書面でしょう」
「書面ではない。両家の話だ。朝は親族もいたため、私も結論を急がねばならなかった。婚資も提携も、話し合えば戻せるはずだ」
「返還の手続きは終わっております」
「だからこそ、改めて預けてもらえないだろうか。違約金も、その分から差し引けばよい。事業が立ち直れば君にも返せる」
エリシアの前には、新しい契約書控えが開かれていた。彼女は条項の頭へ指を置き、次の頁へ進む。
「侯爵家には私から説明する。今ならまだ間に合う。ヘルツェン伯爵家とオルブライト侯爵家が手を結べば、君の立場も悪くはならない」
「わたくしの責任者欄は、すでに埋まっております」
「それも書き直せば——」
「父上」
クロードがヴァルターの背後から半歩だけ出た。朝、親族の前で顎を上げていた位置までは来ない。
「僕から話す」
ヴァルターが退くと、クロードは空になった帳合を抱えたまま、エリシアの机へ近づいた。表紙の金具には、朝つけた爪の跡が残っている。
「エリシア。こんな終わり方をするつもりはなかった」
馴れた呼び方が、三年ぶんの書類の上へ落ちた。エリシアの指は次の条項へ進む。
「昔から君を大切に思っていた。あの場では、親族を納得させるために言い方を選べなかっただけだ。君も僕を支えるつもりで婚約したんだろう」
「クロード様は、金で結ばれた縁は不要とおっしゃいました」
「売り言葉だ。君だって、僕が本気で言ったのではないと分かっているはずだ」
「婚資の移管手配書には、ずいぶん丁寧にご署名なさっていましたわ」
クロードは帳合を胸元へ引いた。ヴァルターが後ろから「提携だけでも」と言葉を足す。
「エリシア嬢、職人たちも慣れた家で働く方がよい。彼らのためにも、取引を戻すべきではないか。伯爵家の名がなければ困る者も出る」
窓の外を、二台目の荷車が通った。新しい荷札の端が、夕刻の風で一度跳ねる。
「本日分の仕事は、すべて続いております」
「明日以降は分からないだろう」
「明日分の受領印も、こちらにございます」
「ならば、その取引を我が家へ回してくれ。違約の支払いで手元の資金が——」
ヴァルターの語尾が細くなった。朝の請求書へ押された朱印の色が、エリシアの控えにも同じ濃さで残っている。
「エリシア、戻ってきてくれ」
クロードは帳合を机へ置いた。開いた頁には、事業名だけが印刷されている。
「君が必要だ。君のやり方で構わない。帳簿も商人も、もう好きに扱っていい。婚約だって、父上と親族を説得して元に戻す」
エリシアの指が、初めて頁の途中で止まった。クロードはその指へ手を伸ばしかけ、契約書控えの縁に触れる前に引く。
「戻すも何も、証文はとうに読み終えておりますのよ。次にお読みになる番でしたわね」
クロードの口が閉じた。ヴァルターも、背後から言葉を重ねなかった。
エリシアは空の帳合を閉じ、クロードの側へ押し戻す。
「証文は、先に手を尽くした者に報いますのよ」
ヴァルターは帳合を受け取らなかった。クロードが両手で抱え直し、二人は来たときより広く空いた客間の中央を通って退出した。
扉が閉じると、バルトが新しい契約書控えを抱えて進み出た。朝に結び直した綴じ紐は、そのまま彼の手に残っている。
「バルト。ヘルツェン伯爵家へ戻る支度を」
「すでに私物はまとめてございます」
「では、先方へお届けするものを」
「それも済ませました」
エリシアは顔を上げた。バルトは古い家の鍵を一つ、机の上へ置く。
「わたくしは、侯爵家の事業をお預かりします。以前より仕事が増えますよ」
「承知しております」
「こちらの家令は足りているそうです」
「家令としてのお話ではございません」
バルトは契約書控えを両手で差し出した。綴じ紐の端は、エリシアがいつも指を掛ける長さに揃えられている。
「引き続き、お預けください」
エリシアは古い鍵の隣へ、新しい責任者印を置いた。バルトから控えを受け取り、最初の頁を開く。
新しい机の上にも、最初の控えが一綴り置かれた。エリシアが条項の頭へ指を置くと、隣でバルトが黙って綴じ紐を差し出した。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




