09.第九話
更なる下、本当の最下層に到達し、重い金属扉が開く。そこは、この世の果てのような場所だった。
広大な地下空間。天井は見えないほど高く、壁一面に張り巡らされたパイプが、巨大な臓器の血管のように脈動している。
空気は冷たく、そして重い。肌にまとわりつくような濃密な霊気が、ここがただの科学施設ではないことを告げていた。
「……あ、あれは」
俺――佐藤健太は、部屋の中央を見て声を失った。そこには、ビルの三階層分はあろうかという巨大な円筒形の水槽が鎮座していた。
淡いブルーの液体で満たされたその中心に、一人の少女が浮かんでいた。長い黒髪。白磁のように白い肌。整った顔立ち。
それは、俺の隣に立っている氷室澪先輩と、瓜二つの姿をしていた。いや、似ているのではない。「同じ」だ。
まるで鏡に映したように。あるいは、氷室先輩をそのままコピー&ペーストしたように。彼女は全裸で、無数のチューブや電極を身体中に突き刺され、胎児のように眠っていた。
「……先輩?」
俺が恐る恐る隣を見ると、氷室先輩は蒼白な顔で、わなわなと震えていた。銃を握る手が白く変色するほど力んでいる。
「……『素体』」
彼女が絞り出すように呟いた。
「あれが、私の……いえ、私という存在の『原型』となった遺伝子情報の元です」
「原型……じゃあ、先輩はクローンってことですか?」
「厳密には違います。私はあそこから抽出された霊的因子と遺伝子を掛け合わせて培養された『個体』の一つ……数千の姉妹の中で、唯一生き残ってしまった『4618番』です」
彼女の声には、深い悲しみと、それ以上の激しい憎悪が滲んでいた。自分の存在のルーツが、こんな非人道的な実験の産物であるという絶望。
水槽の中の少女は、生きているのか死んでいるのかすら分からない。ただ「部品」としてそこに在るだけだ。
「壊します」
氷室先輩が銃口を上げた。
「あんなもの、あってはならない。ここで全てを終わらせます」
「氷室君、早まるな!」
社長が止めようとした瞬間、空間に拍手が響き渡った。乾いた、嘲るような音。水槽の向こう側、制御コンソールの上に、白衣を着た男が立っていた。
痩せこけた体に、狂気を宿した眼球。先ほどスピーカー越しに話していた「博士」だ。
「素晴らしい。感動的な再会だな、4618番」
博士は恍惚とした表情で、両手を広げた。
「自らの起源を見て、何を思う? 母への思慕か? それとも自己否定か?」
「……黙れ」
氷室先輩が引き金を引く。乾いた銃声。放たれた弾丸は、博士の眉間へ一直線に飛ぶ――はずだった。だが弾丸は、博士の直前で「見えない壁」に阻まれ、火花を散らして弾かれた。
「無駄だよ。ここは私の城だ。あらゆる攻撃を防ぐ結界が展開されている」
博士はニヤニヤと笑いながら、手元のコンソールを操作した。
「せっかく帰ってきてくれたんだ。私の最高傑作の完成披露パーティに招待しようじゃないか」
「傑作……だと?」
「そうだ。五年前、あの魔女によって私の研究は灰に帰した。だが、私は諦めなかった! 瓦礫の中からデータを拾い集め、地下に潜り、執念で完成させたのだ!」
博士が赤いボタンを押し込む。
「見よ! 科学と呪術の結晶! 対・魔女用決戦兵器『完成体』!!」
巨大水槽の中に、大量の気泡が発生した。中の液体が急速に排出されていく。チューブが自動的に外れ、眠っていた「素体」の少女が目を開いた。
その瞳は、赤かった。氷室先輩と同じ顔、同じ声帯を持ちながら、そこには理性も感情も存在しない。あるのは、純粋な殺意と、底知れぬ霊的圧力だけ。
「……ア、ア、アァ……」
少女が口を開く。言葉にならない機械的な音声。次の瞬間。分厚い強化ガラスが、内側からの一撃で粉々に砕け散った。大量の液体と共に、ガラスの破片が散弾銃のように飛び散る。
「うわぁっ!?」
「マッスル・カバー!!」
社長が瞬時に俺の前に立ちふさがり、その巨大な背中で破片を受け止めてくれた。何かが床に着地する重い音。水しぶきが晴れると、そこには「完成体」が立っていた。
全裸の身体は、瞬く間に黒いオーラのような物質で覆われ、それがドレスのような、あるいは鎧のような形状へと変化していく。
「殺せ。まずはその不肖の娘(4618番)からだ」
博士の命令。完成体が、ゆらりと氷室先輩の方を向いた。
「っ……!」
氷室先輩が二丁拳銃を連射する。だが、完成体は動かなかった。弾丸は彼女の体に触れることもなく、周囲に展開された黒いオーラに飲み込まれ、消滅した。
「物理無効……!?」
「ハッハッハ! 当然だ! それは霊的質量の塊! 物理干渉など通用せん!」
完成体が手をかざす。黒いオーラが槍のように変形し、氷室先輩に向かって射出された。速い。回避不能の速度。
「させんッ!!」
神宮寺社長が横から飛び込んだ。彼はスーツを一瞬でパージ(破り捨て)し、ブーメランパンツ一丁の戦闘形態へと移行していた。
「サイドチェスト・バリアァァァ!!」
筋肉の要塞と化した社長が、黒い槍を受け止める。激しい火花と衝撃音が響く。
「ぐ、ぬぅぅぅぅ……! 重い……! これは、ベンチプレス換算で……五トンはあるぞ……!」
社長の顔が苦痛に歪む。あの弾丸を筋肉を止めた社長が、押し負けている。足元のコンクリートが蜘蛛の巣状にひび割れ、社長の巨体がズルズルと後退していく。
「社長!」
「逃げろ……佐藤君、氷室君! 私の大胸筋が……悲鳴を……!」
黒い槍が爆発的に膨張し、社長を吹き飛ばした。社長は壁に激突し、そのまま瓦礫の中に埋もれて動かなくなった。
「社長ォォォ!!」
「次は貴様だ、4618番」
完成体が、無感情な瞳で氷室先輩を見据える。氷室先輩は動けない。恐怖か、それとも「自分と同じ顔をした怪物」に対する動揺か。
「終わりだ」
完成体が右手を振り上げる。巨大な黒い刃が生成される。あれを食らえば、氷室先輩は真っ二つだ。
「やめろぉぉぉ!!」
俺は叫んだ。だが、俺には力がない。銃も、筋肉も、魔法もない。ただ見ていることしかできないのか? また、誰かが傷つくのを?
その時。天井が崩落した。巨大なコンクリート塊と共に、ピンク色の影が降ってくる。
「おらぁぁぁぁぁぁ!! 主役の登場だァァァ!!」
桃だ。彼女は落下エネルギーを乗せた金棒を、完成体の脳天に叩き込んだ。凄まじい金属音。衝撃波が広がり、俺たちは吹き飛ばされそうになる。
完成体の頭上に展開された黒い障壁と、桃の金棒が拮抗している。
「チッ、硬ぇなオイ! 何食ったらこんなカチカチになんだよ!」
「桃!」
「遅れて悪かったな! ダクトが迷路みたいになっててよぉ!」
桃はニカっと笑うと、金棒を振り抜いて距離を取った。氷室先輩の前に着地し、守るように立つ。
「大丈夫か、お姉様」
「桃……貴女、上はどうしたの?」
「あらかた片付けたぜ。雑魚ばっかでつまんねぇから、床をぶち抜いて降りてきた」
なんという力技。だが、頼もしい。この場における最強の物理アタッカーの到着だ。
「ふん、野蛮な鬼め。だが、完成体の前では虫ケラに過ぎん」
博士が余裕の笑みを崩さない。完成体は無傷だった。桃の一撃を受けても、障壁にはヒビ一つ入っていない。
「殺せ。全員、肉片に変えてしまえ」
完成体が咆哮する。その声だけで空間が歪む。黒いオーラが触手のように伸び、部屋全体を覆い尽くそうとする。
「ヤベェな。アレ、ただの霊じゃねぇ。エネルギーの塊だ」
桃が冷や汗を流す。彼女の「鬼の力」は、霊的な存在にも物理攻撃を通すことができる。だが、相手の出力が高すぎる。近づくことさえ困難な密度だ。
「どうすんだよ……どっかに弱点はねぇのか」
弱点。その言葉に、俺はハッとした。そうだ。俺にはあるじゃないか。力はない。技もない。筋肉もない。だけど、「目」だけは。
俺は目を閉じて、深呼吸をした。恐怖を押し殺す。逃げ出したい本能をねじ伏せる。そして力強く目を見開く。
途端、世界の色が反転する。極彩色のノイズが消え、モノクロームの視界が広がる。そこにあるのは、「清浄」と「汚濁」だけの世界。
「な、んだこれ……」
戸惑いながらも俺は完成体を見る。それは、巨大なインクのシミのようだった。ドス黒い、粘着質の汚れ。この世の呪いを煮詰めたような、高密度の汚染物質。
(今は戸惑う時じゃない。見極めるんだ!)
どんなに強大な汚れにも、必ず「核」がある。汚れがこびりついている「基点」が。
俺は目を凝らす。黒いオーラの渦の中。渦巻くエネルギーの中心。胸? 頭? いや、違う。そこには何もない。ただのエネルギーの奔流だ。 もっと、別の場所に……。
「……あった」
見つけた。それは、あまりにも小さく、そして異質だった。不定形のヘドロのような体の内側、右の脇腹あたり。
そこに、幾何学的で、人工的なほどに綺麗な「正八面体の光」が埋め込まれていた。あれは霊じゃない。機械だ。霊力を制御し、増幅させている、人工の心臓。
「桃! 右だ!」
俺は叫んだ。
「右の脇腹! 肋骨の下あたり! そこに『光』がある!」
「はぁ!? 光ってなんだよ!?」
「右脇腹の光ってる部分、あそこが動力源だ!」
俺の言葉に、桃は一瞬の迷いも見せなかった。
「信じるぜ、新人!」
桃が地面を蹴る。正面突破ではない。壁を蹴り、天井を蹴り、三次元的な機動で完成体を翻弄する。完成体の触手が桃を追うが、速すぎて捉えきれない。
「そこだァァァ!!」
桃が完成体の懐に飛び込む。防御障壁が展開されるより速く、彼女は金棒を突き出した。狙うは右脇腹一点。
鈍い音が響いた。金棒の先端が、完成体のボディに深々と突き刺さる。そして、何か硬質なものが砕ける音が、静寂の中に響き渡った。
「ガ、ア……?」
完成体の動きが止まる。全身を覆っていた黒いオーラが、霧散していく。その体から力が抜け、膝から崩れ落ちた。
「な、何ィ!?」
博士がコンソールに身を乗り出す。
「馬鹿な! なぜ動力炉の位置が分かった!? あれは完全に隠蔽されていたはずだ!」
「へっ、ウチの新人をナメんじゃねぇよ」
桃が金棒を引き抜き、肩に担ぐ。やった。倒した。俺はその場にへたり込んだ。
「お疲れ様」
その声は、どこからともなく響いてきた。戦いの終わりを告げるベルのように。あるいは、終演後の拍手のように。
「誰だ!?」
博士が周囲を見回す。崩れ落ちた天井の穴から、一人の少女がふわりと降りてきた。日傘を広げ、重力など存在しないかのように優雅に着地する会長。
「会長!」
「遅いわよ、おもちゃたち。待ちくたびれて、上(研究所)を更地にしちゃったじゃない」
彼女は血の一滴もついていないドレスを揺らし、微笑んだ。その笑顔を見て、博士の顔が恐怖に歪む。
「き、貴様……御堂アリス……!」
「久しぶりね、博士。五年ぶりかしら?」
会長はまるで旧友に会ったかのような気軽さで博士に歩み寄る。博士の前に展開されていた防御結界など、彼女の前では薄紙一枚の役にも立たない。
彼女が指先で触れただけで、結界はガラス細工のように砕け散った。
「ひッ……くるな! こっちに来るな!」
「質問があるの」
会長は博士の胸倉を掴み、軽々と持ち上げた。
「貴方は、自分が賢いと思っているでしょう? 私から逃げ延びて、隠れて研究を続けて、ついに最強の兵器を完成させたと」
「そ、そうだ! 私は天才だ! 貴様ごときに屈しはしない!」
「……プッ、あはははは!」
博士を落とすと、会長が吹き出した。腹を抱えて、涙が出るほど笑い転げる。
「傑作ね! 本当に傑作!」
「な、何がおかしい!」
「教えてあげるわ……私がなぜ、五年前にこの施設を完全に破壊しなかったと思う?」
会長は博士の耳元で、甘く、残酷に囁いた。
「わざと残したのよ。データも、資材も、そして貴方も」
「……は?」
「一度壊したおもちゃは、もう遊べないでしょう? だから種を残しておいたの。貴方なら、その種を拾って、また一生懸命育ててくれると思ったから」
博士の顔から血の気が引いていく。
「ま、まさか……」
「そうよ。貴方はこの五年間、必死に隠れて、恐怖に怯えながら、私のために『新しいおもちゃ(完成体)』を作ってくれていたの。メインディッシュはおもちゃたちが壊しちゃったけどね。でもそれも楽しかったわ。ご苦労さま、最高の暇つぶしになったわ」
すべては、マッチポンプ。彼女は敵の脅威を見逃したのではない。敵が成長し、再び自分に牙を剥くその瞬間を、「再度踏み潰して楽しむため」だけに、五年間泳がせていたのだ。
「あ……あぁ……」
博士の目から光が消えた。殺されるよりも深い絶望。自分の人生の全てが、この魔女の掌の上で踊らされていた道化芝居だったと知った絶望。
「さて、お掃除の時間よ」
会長は博士をゴミのように蹴り飛ばした。そして、まだ微かに動いている「完成体」の方を向く。 動力源を破壊され、再生しようともがいている肉塊。
「しぶといわね。流石は私のメイドをモデルにしただけはあるわ」
会長が左手人差し指を立てる。指先に蒼とも赤とも取れる色のエネルギーが収束していく。
「さあ、ゲームの終わりよ……消えなさい」
彼女が指を振り下ろした瞬間。世界が白く染まった。音も、光も、全てを飲み込む破壊の波動。
俺は意識を手放す直前、瓦礫の中から這い出してきた社長が、笑顔でマッスルポーズを取っているのを見た気がした。




