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怪異清掃、請負います  作者: 夾竹桃


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06.第六話

幸福とは何か。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは「最高善」と説き、現代のサラリーマンは「定時退社」と答えるだろう。

だが、今の俺――佐藤健太にとっての幸福は、もっと低次元かつ切実なものだった。


「服を着ている……ああ、なんて素晴らしいんだ」


俺は事務所の窓ガラスを雑巾で拭きながら、感動に打ち震えていた。現在、俺が着ているのは安物のジャージとTシャツ。

世間一般から見ればダサい部屋着かもしれない。だが、数日前に「ゴブリンの腰布」一枚でセレブのパーティーに放り込まれ、社会的な死を経験した身としては、布面積が腰以外にもあるだけで涙が出るほど嬉しいのだ。


「おい新人、手が止まってんぞ。窓に拭き残しがある」


「はいはい、わかってますよ」


ソファでポテトチップスを貪っている桃が、偉そうに指図してくる。彼女もまた、あの悪夢のような「キメラ・メイド服(犬耳+猿+雉)」からは解放され、今はラフなパーカー姿だ。

頭の角もバンダナで隠しているため、見た目はただの態度の悪い美少女である。


「それにしても平和だな……会長と氷室先輩がいないだけで、こんなに空気が美味しいなんて」


現在、この会社の二トップである会長と、秘書の氷室先輩は外出中だった。

何でも、裏社会の会合だか何だかに出席しているらしい。おかげで事務所は、ここ一か月で初めてと言えるほどの平穏に包まれていた。爆発もしない、霊も出ない、理不尽な命令も飛んでこない。

まさに(なぎ)。嵐の前の静けさでないことを祈るばかりだ。


「ふんッ! ぬんッ! ……むぅ、やはり納得がいかん」


平和な空気を切り裂くように、鏡の前から野太い声が聞こえてきた。神宮寺剛社長だ。彼は姿見の前で、様々なポーズを取りながら首を傾げている。


「何が不満なんですか、社長」


「今日のコーディネートだよ、佐藤君。見てくれたまえ、この窮屈な布を!」


社長が指差したのは、彼が着ている特注の高級スーツだ。イタリア製の生地を使い、彼の巨躯に合わせて仕立てられた逸品。どう見てもダンディで格好いい。


「普通に似合ってますよ。強面(こわもて)の経営者って感じで」


「そこが問題なのだ! スーツは確かに社会的信用を得られるかもしれん。だが、私の大胸筋のカットも、広背筋の広がりも、全て隠蔽してしまっている!」


社長は悲しげに溜息をつき、上着をパージ(脱ぎ捨て)した。ワイシャツの上からでも分かる筋肉の隆起。ボタンが悲鳴を上げている。


「やはり、正装(ブーメランパンツ)こそが至高。なぜ氷室君は、私の正装出勤を頑なに禁ずるのか……」


「そりゃ、通報されるからですよ」


俺は即答した。前回のパーティーの一件で、社長の露出癖は警察沙汰ギリギリ(というかアウト)だと証明された。

そのため、氷室先輩が「業務中、および外出時はスーツ着用。違反したらプロテインを没収します」という鉄の掟を作ったのだ。


「警察か……彼らはいつも私の芸術(マッスル)を理解しない。公権力とは、かくも無粋なものか」


「公権力のせいにしないでください。公然わいせつ罪っていう立派な法律があるんです」


俺は呆れながら、窓拭きを再開した。社長はブツブツ言いながらも、プロテイン没収を恐れてスーツを着直している。この筋肉ダルマ、意外と常識(氷室先輩への恐怖)があるのが救いだ。




掃除が一通り終わり、俺はソファの端っこに座った。桃が食べているポテチの袋に手を伸ばす。


「あ? 誰が食っていいつったよ」


「一枚くらいいいだろ。俺が買ってきたんだし」


「チッ、減るもんじゃねぇしな。ほらよ」


桃が袋を差し出してくる。意外と気前がいい。俺たちは並んでポテチを齧りながら、ぼんやりと天井を見上げた。


「……なぁ、桃」


「あ?」


「この会社ってさ、いつからあるんだ?」


ふと浮かんだ疑問だった。株式会社クライシス・クリーンサービス。俺が入社してまだ一か月ちょっとだが、業務の異常性や、会長の裏社会での顔の利き方を見るに、かなりの老舗のような風格がある。

しかし、事務所の設備は新しいし、知名度(悪名)も最近になって急上昇しているように感じる。


「んー、確か創業五年目とか言ってたな」


「五年? 意外と新しいな」


「でもよ、最初の三年間は活動実態がなかったらしいぜ」


「活動実態がない? ペーパーカンパニーってことか?」


「いや、違う……戦争してたんだと」


桃がサラリと言った単語に、俺の手が止まる。戦争。比喩だろうか。


「戦争って、誰と?」


「全方位だよ。ヤクザ、マフィア、警察、あと政府の連中ともな」


「はぁ!?」


俺は素っ頓狂な声を上げた。ヤクザやマフィアはまだ分かる(この会社の業務内容的に)。だが、警察や政府とも喧嘩していたとはどういうことだ。


「詳しいことは知らねぇけどよ。あのクソアマが、五年前に何かデカいことをやらかして、裏社会の勢力図をひっくり返したらしい。その時のゴタゴタを沈めるのに三年かかったって話だ」


桃はポテチをバリバリと噛み砕く。


「だから、まともに『掃除屋』として動き出したのは、ここ二年の話だな。澪お姉様も、その頃はずっと会長の護衛とか、襲撃者の『掃除(物理)』に追われてたって言ってたし」


「……俺、とんでもない会社に入っちまったんだな」


今更ながら背筋が凍る。ただのブラック企業だと思っていたが、その背景には血生臭い抗争の歴史があったらしい。御堂アリス。あの一見すると可憐なゴスロリ少女が、国を相手に立ち回っていたとは。


「おいおい、暗い顔をするな佐藤君!」


社長が割り込んできた。彼は手に持っていたシェイカーをカシャカシャと振っている。


「過去がどうあれ、今は素晴らしい会社ではないか! 福利厚生でプロテインは飲み放題、トレーニング器具も完備! こんなホワイト企業は他にないぞ!」


「あんたの基準、筋肉だけですよね?」


「否定はしない! だが、私にとってもこの会社は救世主なのだよ」


社長は遠い目をした。サングラスの奥の瞳が、少しだけ真面目な光を帯びる。


「二年前……私が経営していたスポーツジムが、不況の煽りで倒産しかけたことがあってな。借金で首が回らなくなり、愛するマシンたちを売り払わねばならない所まで追い詰められたのだ」


「へぇ、社長も苦労してたんですね」


「ああ。だが、そこに現れたのが会長だ。彼女は私の借金を一括で肩代わりし、ジムの設備ごと私を買い取ってくれたのだよ!」


「買い取った……?」


「うむ! 『面白い筋肉をしているわね。私の犬になりなさい』とな! あの時の彼女は、まさに女神(ミューズ)に見えた!」


女神というより、悪魔の契約に見えるのは俺だけだろうか。要するに、社長も俺と同じ「借金で買われた身」だったわけだ。ただ、俺と違って彼が悲壮感ゼロなのは、その異常なポジティブ思考のおかげだろう。


「なるほどな……みんな、色々あるんだな」


鬼である桃。ジムを潰した社長。そして、謎多き氷室先輩と、魔王のような会長。

この会社は、社会のレールから外れた者たちが吹き溜まる、最後の砦なのかもしれない。そう考えると、少しだけ親近感が湧いてくる。


「ま、深く考えんなよ新人。どうせ私たちは、あのクソアマの手のひらで踊らされてるだけなんだからよ」


桃が空になったポテチの袋をくしゃりと握りつぶす。


「今は、この束の間の平和を噛み締めとけ。どうせすぐに――」


桃の言葉が途切れた。カチャリ。玄関のドアノブが回る音が、静寂の中に響いたからだ。




空気が、一瞬で変わった。温度が数度下がったような錯覚。野生の勘が「捕食者が来た」と警鐘を鳴らす。


「ただいま。あら、私の噂話で盛り上がっていたようね?」


ドアが開き、会長が入ってきた。いつものゴシックドレス姿。手には日傘。その背後には、鉄仮面のような無表情の氷室先輩が控えている。

会長はニコリともしていないのに、楽しげなオーラを纏っていた。ただし、それは「獲物を見つけた猛獣」の楽しさだ。


「お、お帰りなさいませ会長! 噂だなんて滅相もない! 会長の偉大さを語り合っていたところです!」


俺は反射的に直立不動の姿勢を取った。桃はチッと舌打ちをして視線を逸らし、社長は「ナイスバルク!」と謎の挨拶をする。


「ふふっ、正直でよろしい……ほら、お土産よ」


会長が顎でしゃくると、氷室先輩が持っていた紙袋をテーブルに置いた。高級感あふれるロゴ。銀座の有名パティスリーの箱だ。


「うおっ! ケーキだ!」


「ショートケーキよ。ワンホール買ってきたわ。切り分けて食べなさい」


箱を開けると、宝石のように輝くイチゴが乗った、巨大なショートケーキが現れた。甘い香りが部屋に広がる。

俺の、そして桃の目が釘付けになる。普段はコンビニスイーツばかりの俺たちにとって、これは高嶺の花だ。


「い、いいんですか? 今日はお祝いか何かで?」


「いいえ。ただの餌付けよ」


「言い方!」


会長はソファに腰を下ろし、氷室先輩が手際よく淹れた紅茶を受け取る。


「遠慮しないで食べなさい。糖分は脳のガソリンよ……これから使うんだから、満タンにしておいてもらわないとね」


その言葉に、俺の手が止まる。これから使う? 桃も、フォークを咥えたまま怪訝な顔をした。


「おいクソアマ。これからって、どういう意味だ? 今日はもう定時だろ」


「定時? ウチにそんな概念あったかしら?」


会長は優雅に紅茶を啜る。


「食べて英気を養いなさい……今夜は、ちょっとした『掃除』に出かけるから」


「掃除って……こんな時間からですか?」


「ええ。夜じゃなきゃ意味がないのよ」


会長の瞳が、赤く妖しく光った。


「五年前にね、掃除し忘れた『ゴミ』があるのを思い出したの。それを回収しに行くわ」


「五年前……?」


さっき、桃が話していた「空白の三年間」の時期だ。俺がチラリと氷室先輩を見ると、彼女はいつもの冷静な表情を崩していなかった。

だが、その指先がわずかに震えているのを、俺は見逃さなかった。紅茶のソーサーを持つ手が、白くなるほど強く握りしめられている。


「場所は?」


桃が低い声で尋ねる。彼女もまた、空気の変化を敏感に察知していた。


「山奥よ。地図にも載っていない、古い研究所跡地」


会長は楽しそうに、歌うように言った。


「そこにはね、私の『所有権』を侵害する泥棒猫たちが住み着いているの。だから、分からせてあげないとね。誰がこの世界のルールブックなのかを」


ゾクリとした悪寒が走る。これは、いつもの「除霊」ではない。もっとドロドロとした、個人的な因縁と殺意が絡んだ「戦争」の気配がする。


「……社長、出番ですよ」


俺は小声で言った。


「え?」


「筋肉でこの重い空気をなんとかしてください!」


「むぅ、任せたまえ!」


社長が立ち上がり、バッと両手を広げた。


「ハッハッハ! 夜のドライブか! ならば私の筋肉がヘッドライト代わりになろう! オイルを塗れば視界は良好だ!」


「……ふふっ、そうね。貴方のその無駄な明るさ、嫌いじゃないわよ」


会長がクスリと笑った。だが、その目は笑っていない。


「メイド、車の用意を。適当な装備できなさい」


「……はい」


氷室先輩が短く答え、給湯室の奥――武器庫へと消えていく。その背中は、いつもの事務員のものではなく、戦場へ向かう兵士のそれだった。


「さあ、食べなさいおもちゃ。最後の晩餐になるかもしれないわよ?」


「冗談に聞こえないんでやめてくださいよ……」


俺はショートケーキを口に運んだ。最高級の生クリームは舌の上でとろけるほど甘く、そしてどこか、血の味がするような気がした。

平和な午後は終わった。過去からの亡霊が、俺たちを呼んでいる。嵐が来る。それも、とびきり巨大なやつが。

俺は覚悟を決めて(諦めて)、ケーキを胃に流し込んだ。せめて腹ごしらえだけはしておこう。この会社で生き残るための、唯一の教訓だ。

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